ナショナリズムを考える(2)

 ■国家が続く確信が偏見を乗り越え、未来への行動生む

――戦後日本では、ナショナリズムをやっかいなものだと考え、遠ざけて考えないようにしてきました。

「本来、ナショナリズムは未来志向なんです。考えてみてください。私たちはなぜ税金を払うのか。それは、例えば公園や美術館を維持するためだと考えて納得します。その前提となっているのは、国家は将来も存続し続け、自分の孫や子たちもきっとこの国で生き続けるという揺るぎない確信です。私たちは、国家があるからこそ、未来のため、まだ生まれもしていない子たちのために行動することができる」

「米国の例を挙げましょう。1960年代に黒人解放運動が盛んになりました。その潮流はフェミニズムや同性愛者の権利擁護にもつながる。その際に大きな役割を果たしたのが実はナショナリズムなのです」

 「私が言いたいのはこういうことです。黒人の権利、同性愛者の権利を認めるとき、人々は『彼らだって同じ米国人なんだから、同じに扱わなければ』と考えたはずです。国家という概念が、こんな考え方を可能にする。ナショナリズムは、人種偏見や性差別を乗り越えるのです」

「一方で、排外的な人種主義、民族主義は、過去にとらわれる思考です。旧ユーゴスラビアの分裂は、その好例でしょう。クロアチア人、セルビア人らは第2次大戦前から一つの国家として共に暮らしていたにもかかわらず、過去に拘泥して悲惨な内戦を戦い、『民族浄化』すら起きた。過去に目を向けているという点では、中国で清朝時代を美化したドラマに人気が集まっていることも気がかりです」

――日本でも中国でも、インターネットが排外主義的なナショナリズムをあおっている面がありますが。

「ネット上には、差別を助長するような内容の情報が漂っています。米国ではオバマ大統領は実はイスラム教徒だとか、日本でも嫌韓、嫌中などの情報が真偽もあいまいなまま、あふれています」

「人は、自分が信じたいものを信じるものです。ネットでは、自分のお気に入りのリンクだけ見ていれば、他のニュースは見ずに過ごすことができる。政治、経済、国際などのニュースが一つになっている新聞とは正反対のメディアです。『リンクの世界』では24時間、特定の情報にだけ接して過ごすことができるし、グーグルで検索すれば何もおぼえる必要がない。コンピューターの前に座るだけの生活はもうやめたほうがいいと若者たちには言いたい」

――私たちはナショナリズムとどう付き合えばいいのでしょうか。

「いくつか、ヒントがあると思います。スポーツの例は重要です。印象に強く残っているのは、2002年の日韓サッカーW杯で、日本が敗退した後に、多くの日本人が韓国の応援をしていたことです。米国もサッカーが強くないので、2番目にひいきのチームを応援する人が大勢います。自国のチームが負けたから無関心になるのではなく、別の国を応援する。ナショナリズムは、こんな形で昇華することもあるのです」

「ナショナリズムを中和するような情報についても考える必要があります。日本では韓流ドラマや歌手が人気ですが、米国人はハリウッド映画ばかり見ていて多様な文化に触れる機会が少ないのは問題でしょう。さらに重要なのは、移民の存在だと思います。グローバル化が進み、今後は多くの労働者が外国に移り住むようになります。日本政府の移民政策は評価できませんが、『外人が来たら、日本らしさが失われる』というような議論が出始めたら危険です。それはナショナリズムなどではなく、単なる差別主義なのです」

■取材を終えて

「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」。アンダーソンさんの名著「想像の共同体」の一節だ。国民は創作物なのかと驚いたのを覚えている。だからこそ、国家を維持するためにナショナリズムが不可欠だという。日本では負の印象がつきまとう存在だが、問題はどう飼いならすか、なのだろう。(真鍋弘樹、中井大助)

〇 Benedict Anderson 1936年、中国・昆明生まれ。コーネル大名誉教授。専門は東南アジア。(Asahi digital・12/11/13)(2015年12月13日、インドネシアにて死去された)

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Benedict Anderson, Scholar Who Saw Nations as ‘Imagined,’ Dies at 79   By Sewell Chan Dec. 14, 2015

Benedict Anderson, a scholar of Southeast Asia who transformed the study of nationalism by positing that nations were “imagined communities” that arose from the fateful interplay of capitalism and the printing press, died on Saturday night at a hotel in Batu, Indonesia. He was 79. / The death was confirmed by his friend Tariq Ali, who had worked with him at the journal New Left Review and at the publishing house Verso Books. The cause appeared to be heart failure, Mr. Ali said. / Dr. Anderson’s best-known book, “Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism,” first published in 1983, began with three paradoxes: Nationalism is a modern phenomenon, even though many people think of their nations as ancient and eternal; it is universal (everyone has a nation), even though each nation is supposedly utterly distinctive; and it is powerful (so much so that people will die for their countries), even though on close inspection it is hard to define. / Dr. Anderson believed that liberal and Marxist theorists had neglected to appreciate the power of nationalism. “Unlike most other isms, nationalism has never produced its own grand thinkers: no Hobbeses, Tocquevilles, Marxes or Webers,” he wrote.

https://www.nytimes.com/2015/12/15/world/asia/benedict-anderson-scholar-who-saw-nations-as-imagined-dies-at-79.html?_r=0#story-continues-1

上野公園(だれのものでもない=みんなのもの、か)

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「本来、ナショナリズムは未来志向なんです。考えてみてください。私たちはなぜ税金を払うのか。それは、例えば公園や美術館を維持するためだと考えて納得します。その前提となっているのは、国家は将来も存続し続け、自分の孫や子たちもきっとこの国で生き続けるという揺るぎない確信です。私たちは、国家があるからこそ、未来のため、まだ生まれもしていない子たちのために行動することができる」と彼は言う。たとえば、上に示した「国立博物館」は国が管理し、、右に示した「上野公園」は都が管理しています。しかし、それは所有を意味しない。「みんなのもの」といえるなら、それは「国有」でも「都有」でもないでしょう。維持管理は「税金で」やれと、「みんな」から委託されている。という程度の国や都ですね。

 国家に対する揺るぎない確信が持てる人はさいわいです。ぼくは生来の「ナショナリスト」ではないらしい。不十分な考えで何かを言うのは憚られますので、ぼくは多言・贅言を慎みます。でも、国家が成立してたかだか百五十年のこの島において、それが未来(永劫かどうかは別として)にも連綿と維持されるとは、ぼくには考えられないんですね。射程の短い、近視眼の想像力であることは否定しないが、さて、今あるような「国」がさらに持続されるにはどんな力学が求められるのでしょうか。

 以下に、参考までに引用しておいた久野収さん(1910-1999)の「ナショナリズム」論を、さらに深く学びたいと願っているのです。

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 「戦後の日本には、ナショナリズムを禁句にしておこうとする考え方が強かった。デモクラシーとインターナショナリズムで日本の将来を打開していこうという考えが支配的だった。しかし、ナショナリズムと積極的に関係しないデモクラシーはやはり抽象的であるのを免れない。デモクラシーを土着化させるためにはナショナリズムを避けて通れない。インターナショナリズムについても同じ事で、それぞれの国民国家を作り、支えている国民相互がどう関係し合っているかがインターナショナリズムにとっても問題になる。デモクラシーもインターナショナリズムも、戦後は無国籍みたいな感じだったが、ここへ来て反省を迫られているのではないか。戦後もナショナリズムをつづけ、その上にデモクラシーを重ねるだけであれば、天皇制ナショナリズムの続きになりかねないから、いったん切断する作業は大事だったのですが、…。」(久野収「ナショナリズムを考える」)(久野さんは「週刊 金曜日」の「生みの親」でした。無類のしゃべくり人間、大阪は堺の人でした)

 「…もう一ついえば、ナショナリズムの最も危険なところは、個人の実在を超える高次の実在として、民族とか国家を信じ込む態度にある。個人の集合を個人より高次の実在と信じた瞬間、あらゆる集団悪が出てくる。個人が無力になればなるほどファシズムのように大きな集団に自分を同化し、自分に力ができたと思いこむ。それをどうやって平静心でもって、個人の集合体は共通の行動様式から成立する制度だと考えうるか。それと、国民の後に、フォークロア(地域的民俗)のルーツを発見していく方向。そうすれば、「敵か味方か」だけで外側しか考えない過激ナショナリズムとは違うナショナリズムが出てくるかもしれない。(久野収・同上)

 (右の「対話史」において、久野さんの本領がいかんなく発揮されています。数百人との際限のない、時間を惜しまない(と思われる)「対話」にこそ、久野さんはデモクラシーへの信をおいていたと、ぼくには読むたびに思われてきます)「わたし」と「あなた(たち)」との公共空間における関係かな。(この項、続く)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。