ことばを経験するとは

 憂楽帳:何とかなる、はず

 「あのー、すいません」。駅の券売機前でふいに顔をのぞき込まれた。つけまつ毛をしたおしゃれな学生風。街なかで若い女性に声をかけられることなど無縁の身だけに何事かと思ったら、まじめな表情で尋ねてきた。「自由席と指定席って、どっちが安いんでしたっけ?」

 あまりに堂々としていて、返す言葉に詰まった。妻に話すと「物事を知らない、でも他人に遠慮なく聞ける、それが自分らしさ、なんて妙な自信を持っている子が少なくないよ」と解説された。うーむ、無知も個性というわけか。

 先日、東京大の秋入学移行案が紙面をにぎわせた。国内にある1200近くの大学・短大に在学している学生は約300万人にのぼるが、多くの学校現場で聞くのは、「基礎学力や社会常識の欠如の方がより深刻」という話ばかりだ。

 いや、嘆いても始まらない。そもそも世の中を変えるのは、常識やしがらみに縛られない「よそ者、ばか者、若者」というではないか。座席なんてどこだっていい。でも、この国や社会の行き先だけは間違えないでくれよ。おじさんは、それだけが心配だ。【斉藤貞三郎】(毎日新聞・12/01/21)

 ことばの種をまく

 ことばがあればどんな物事も表現できるというのは正しくない。ことばはたんなる道具ではないからです。たとえば歴史。これが歴史だと指でさすことも手で触れることもできない。「眼鏡」なら、ことばは不要です。現物があるからです。目に見えない(姿形はない)が、まさに存在すると直観する、だが確かめる術もなく、だれにも共通のことばで言い表しがたい事象、それを歴史というなら、それをも表現しようとするもの、それこそことばのもつ力です。

 たいていのひとは「人権」ということばを知っている。読み書きもできる。でもそれが何であるかは語りがたい。それを具体的な像をもって表そうとするのは自分の経験です。経験をことばにし、ことばをも経験する。ひとつのことばと自己の経験が釣り合わねば、ことばはただの符号に堕してしまう。あげくは一合枡には一合すら入らないという不自由をかこつことになる。使い方次第で、一合枡は一升枡にもなるのに。(「ことば」は右に、「経験」が左にあって、天秤は釣り合うんですね)

 経験という根拠をもたぬことば、生活実感の欠如したことば、その種の「偽物ことば」が氾濫する状況を加速させるのは「情報化」と称される時代の趨勢です。暗記や複写にとどまるだけのことばが増えると、自分を確認することばは所在を失う。根のないことばでなにが表せるのか。心身を体して経験された(自前で育てられた)ことばがなければ、暴力が牙をむくのは当然の仕儀となります。(今日よく見る政治家の「偽物ことば」の反乱は、いったい何を物語るのか。とくと考えてみる必要があります。「暴力の時代」にぼくたちはいる)(「偽物ことば」が右に、「暴力」が左にと、釣り合っているのかどうか。)

 現下の状況をして、豊かなのに貧しい時代だといわれる。「豊かと錯覚していて、じつは貧しい」であり、「物は豊かでも、こころは貧しい」であり、「豊かである、それ自体が貧しい」という世態をさすのでしょうか。貧と豊はどこかで奇妙に平衡しているようです。ことばに与する学校教育の状況も、きっとそうなのだと口外すれば顰蹙を買うこと請け合いであっても、身につまされて、そのようにいわざるをえません。

 自力で育てなければことばは豊かにならない。ことばの種を自分で播き、それを育てる。教育(学習)というのは言語に対する感受性を練磨する機会でもあります。生徒にとって教師はまずことばの種を播くひとであり、その種を豊かに育てるのは生徒自身です。教師も自分でことばの種を育てるひとであるのはいうまでもない。種から育てられたことば、それこそが「経験に根付いた」「生活実感のある」ことばであるのです。

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 ことばのちからを取り戻すことができるか

 「…ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。/ いまは、人間の声はどこにもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。/ 日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散していくだろうと思います」(石原吉郎(1915-1977)・1972年)

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)