話す能力を話す権利に

 唐突ですが、「アムネスティ」という言葉を聞かれたことがありますか。

 Amnestyとはギリシャ語の Amnestos からきた言葉です。その原義は<忘れられた人>というもの。

*am・nes・ty:n.大赦;《古》目こぼし.・grant an~to criminals 罪人に恩赦を行なう.vt. …に大赦を与える.[F or L<Gk. amn_stia oblivion]:ob・liv・i・on:忘れる[忘れられる]こと,忘却;忘れがち,健忘;(世に)忘れられている状態;気づかないこと;【法】大赦  

*Amnesty International:n.国際アムネスティ《1961年Londonで結成された,思想・信条などによる投獄者の釈放運動のための組織; Nobel平和賞(1977)》(研究社・リーダーズ)

 Amnesty Internationalは、発話の権利を奪われ、共同体から追放された人々を再び共同体にもどすことを要請するために活動している団体ですね。共同体とは、村であり、町であり、国家であります、要するに所属する集団(社会)その集団の権力によって自由を奪われるひとびとはあとを絶ちません。

 では、自由を奪われるというのはどんな状態をさすのか。ナチによるユダヤ人虐殺のことを考えてください。ユダヤ人はことごとくゲルマンに対する異質な存在、劣等者とみなされ、その挙げ句に発話の機会を奪われてガス室に送られました。その結果、ナチ共同体からは完全に<忘れられた人>にされたのでした。<人権>が侵害され、剥奪されるということがこれほど明らかな証明があったでしょうか。

 話す能力があるということと、話す権利をもつということは同じではない。なぜなら、その権利が奪われることがいつでもあるからです。権利というものは与えられるものじゃなく、勝ち取るものなんです。人権は自然権だといったところで、だれにでも保証されていません。それは自然権なんかではないからです。「権利の本質は、それにふさわしい価値を持つことによって初めて権利が生まれるという点にあります」

 さて、教室(教育の問題)に戻って考えましょう。「わたし」と「あなた」が対話の関係に入るためには、じつは互いが話者としての資格を注意深く育てることがどうしても必要です。この学習過程が文明化(civilization)(市民になること;citizenship)といわれるもの。教師と生徒が対話するというのは、それぞれが〈市民〉になるということです。つまり、たがいの発話に耳を傾け、交互に話し手と聞き手になりうることを意味します。人間であるとは、単に話すことのできる動物じゃない。それだけでは足りないのです。

 一人ひとりの側から

 「わたし」と「みんな」というとらえかたじゃなく、「わたし」と「あなた」という関係に立つ、それが「一人ひとりの側から」ということだとおもいます。全体の一部としての「わたし」というのでは「わたし」は消滅してしまうからです。なぜなら、「全体(みんな)」に対して「一部(わたし)」はじゅうぶんに拮抗しえないからです。「全体」、あるいは「みんな」によく対峙するためには、「わたし」を「全体」(みんな)からひきぬいておくことがたいせつじゃないでしょうか。このことを<教師―生徒>関係・<生徒―生徒>関係においてみると、はたしてどのようなことがいえるでしょうか。

 人権を考える手がかり

 「わたし」と「あなた」の関係―対話の関係―について再言すれば、両者は類似(同類)性をもっているが、非対称でもあるという意味です。類似性とは同質を意味するものじゃない。ひとりの人間がもうひとりの人間とことなるということが前提となって、そこにはじめて類似性が生じるのです。逆に言えば、ふたりの人間が共有する類似性は、彼・彼女がたがいにことなっているというところから出てくるんですね。

 では、その類似性とは ?

 このことについて、リオタールというフランス(「大きな物語の終焉」「知識人の終焉」を主張)の現代思想家は「人間が同類となる条件とは、すべての人間が他者の姿(フィギュール)を自分のなかに持っているという事実」にあるのだといいました。自己の内にある「他者の姿」こそが、人間としてあつかわれる「わたしの根拠」なのだと彼はいうのです。

【リオタール(1924‐98)Jean-François Lyotard フランスの哲学者。パリ大学名誉教授。デリダ,ドゥルーズらとともにポスト構造主義,ポスト・モダニズムの代表的論客で,人間を支配・圧殺する〈大きな物語〉(プラトン主義からマルクス主義に至る形而上学的言説と制度の総体)を批判し,そこからの〈漂流〉を説く。主著《フロイトとマルクスからの漂流》(73年),《リビドー経済学》(74年),《ポスト・モダンの条件》(79年),《ハイデガーと〈ユダヤ人〉》(88年)】(マイペディア)

 では、この内なる「他者の姿」とはなにか。それは「わたし」のなかにいつでも「あなた」が存在するということでしょう。別のいい方をすれば、「わたし」とはつねに「あなた」になる可能性を潜在させている存在だということです。このことを明らかにするのが<対話>というものなのです。「わたし」とは現にいま語っているものであり、「あなた」とは語りかけられているひとです。そして、「わたし」が語りかけている間、「あなた」沈黙しているのです。

 対話の展開につれて二人の立場は順次に交代します。 

            わたし→あなた(あなた←わたし)    

 この対話の結果、「わたしたち」という関係が生み出されます。そして、この「わたしたち」という言葉のなかに「互いに対話の相手となる可能性がある限り、相手の姿がはっきりとお互いのなかに存在しています」

 この「わたしたち」は「論証し、議論した後で、合意に達し、契約によって共同体を形成します」これがギリシャの政治的共同体(ポリテイア)あるいは近代の共和制国家(リパブリック)の原理なのだというのがリオタールの意見です。このような共同体・国家における成員が「市民」(civil ; civic)であり、そのような「市民」となるためのプロセスこそが<市民化・文明化>(civilization)ということなのです。それは他者に話しかける権利を他者から認められた個=市民だといいたいのです。(ここには語るべきたくさんの課題があります。急ぐことなく、ていねいに愚考していきたいものです。ゆっくりと、自分の足で歩きます。ぼくは「徒歩(かち)」組ですので)