以下は現在もつづいている、ある新聞の投書欄(「ひととき」)に掲載された記事です。投書された時期は石川さんの事件が起こった直後の頃と思われます。これを書いたひとは昔日を懐かしんでいるのか。あるいは、現実を嘆いているのか。

《小、中学生の知能テストの採点を見て、日常身近に始終用いる簡単な言葉が正しく使われていないのに驚きます。… / それにつけても、私は幼いころの父母のことを思い出します。父はすでに亡く、母はもう七十になります。夕焼の空に飛んでいくガンを一ワ、二ワと声をそろえて数えたり、田のあぜに腰をおろして、目の前の田の広さは何畝(せ)、何歩(ぶ)と教えてくれた父。海に行けば水平線や水の色のちがい、潮流のことなど、実地にいろいろ説明してくれました。母は台所で一合マスをはかって一升にして見せてくれ、魚を料理しながら、獲れたところやマナ板にのるまでの径路を面白く子供の私に話してくれました。虫干しの折には衣類にまつわる近親たちの面影など、またその布地の名称や産地について…父や母とともに語りあったことは数かぎりありません。この父母とて決して博学多才な人ではなく、山村の一凡夫にすぎません。ただ父母は子とともに学んでくれました。そしておとなのチエと愛で子をひっぱってくれたのです》(昭和二九年八月二七日「ひととき」・朝日新聞)
おそらくこの投書の主は明治三十年代後半ころに生まれたようです。母は明治十年代後半の生まれであろうと思われます。田舎の草深い村の日常生活の一端を描写しています。この社会では、子どもは、男であれ女であれ、それなりに一家にとっての貴重な労働力でした。だから、生活の細部にわたって「文化」(知識・技術)の語り伝え、手渡しが欠かせなかったのです。教育はまた文化であるといえますが、それは今風にいえば「生きる力」を育てることに直結していたのです。教科書では学べないことがいっぱいありました。

見習い、手習い、聞き語り、聞き覚え等々、これらはすっかり絶えてしまった教育の方法、確実な方法だった。学校教育が盛んになるというのは、一面では残念なことですが、このような地に着いた教育の方法が捨て去られてしまうことを意味していたのです。
「文化」(それはまた「教養」ともいいます)が途切れてしまえば、一人の力では生きていけなくなる。「教養」というのは一人で生きていく力を指していいますが、それが育たなければ、学歴や偏差値(成績)に依存せざるをえなくなるのは世の道理です。地に足を着けるのではなく、不確かな数字(点数)に一所懸命になるほかに、みずからをたのむ方途がないと思わされるからです。

上に引用した投書(「ひととき」)が書かれた時代以降、この国は急坂を転げ落ちる(登るか)ように、工業化(機械化・技術化)の道をひたすら突進していきました。文明へのあこがれがそうさせたのです。ここでいう文明とは、自然からどれだけ遠ざかるかというのと同じ意味です。それが後に残したものは農村の破壊であり、人心の荒廃だったのは、いかにも悲惨なことでした。農業や林業、あるいは水産業が生産の大半を占めていた時代、それは村社会(共同体)を単位として互いに支えあいながら生きていく生活が主流でした。そのような時代や社会に求められたのは「村を育てる力」だった。しかるに、工業化・機械化が進められたと同時に、村は解体され、土地は破壊され、人心は蹂躙されたのでした。その結果、多くの若年者は村を出て行くことを余儀なくされました。そこで、学校がはたした機能は「村を捨てる学力」を開発し強制することだったといえます。
村から出たほとんどの人は都会を目指しました。いわゆる「文明化」とは「都市(都会)化」(civilization)であったのです。みずからの生活を豊かにするための教育というより、人並みに都会に出るための準備教育、それはまた、国家の経済政策の一環でもあったわけですが、それが学校の、今に至るまで変わらない役割であったということでしょう。(ぼくも、はからずも、「脱け出た」ひとりでした。以来幾星霜、終の棲家さえも見つけられないで彷徨(さまよ)っています)

今に変わらぬ地域に根付いた旧慣墨守の体制と、それによって動かされてきた学校教育の大きな潮流のなかに取りこまれながら、ひとりの人間として、ある態度・姿勢を貫きながら、子ども(さつき)の存在をまるごと認めた上でなされた何人かの教師の「教育実践」は、一面では教育の実情(現実)に対する挑戦でもあったし、それはまた狭い範囲に閉じこめられた学校教育の可能性を大きく開こうとした闘いでもあったのです。(いうまでもなく、このような教師とは正反対に、子どもの行動を抑え込む学校・教師もいたのはいうまでもない)
そしていま、わたしたちはひしめきあう都会の群衆の一人として、苦悩にさらされていないかどうか。「三蜜」という呪術信仰がさかんにふりまかれています。人心を煽る一方の、束の間の邪宗ですね。「都市封鎖」をした欧米の諸都市では、なぜ「感染」は猖獗を極めたのか。その挙句に、都市生活が崩壊の際に瀕しているのか。はっきりとしたデータが存在する。(ここでは省略)根拠のあるデータによらず(いい加減なデータにより)、情緒的な対応に齷齪している政治当局者の、言いようのない退廃にぼくは打ちひしがれそうになっています。


たしかに、「学校教育」は時代や社会に迎合するという局面をもつことを否定しません。しかしその反面で、時代の要求や社会の要請をこえて、ひとりの人間(自分自身)を育てる、それも社会(集団)に属し、それ(過同調の強制)と対峙しながら、他者と協力するちからを育てるという、困難な課業をもはたさなければならないのです。そのような教育はいつの時代でも、どんなところにおいてもかならず求められているのですから。(この項、つづく)