大学は何をする場所か

 「閉じ込め」の制度

  いまやこの社会おける大学という教育制度は根本的にその性格を変えてしまったようです。いわば伝統的な大学観の命脈は夙に尽きたのだとぼくには思われるのです。その理由はさまざまですけれども、従来容認されてきた「知の伝達(伝播)」がほとんど機能不全に陥ってしまったといいたい。もちろんこのような指摘は誰もがすることで、数十年以前から声高に叫ばれていたことでもあります。その大半は大学の外部からでしたが。

 しかるに大学が教育制度としての体裁を維持し続けるかぎりでは、自己の内部に蓄積される矛盾や錯誤を自覚することははなはだ困難であり、それゆえに大学それ自身(大学を構成する教職員・学生はいうまでもなく、大学にあいかわらずなにがしかの幻想を抱くすべての存在を含む)は変化に対してきわめて鈍感であり、ときには外部からくる変化への要請に心ならずも抵抗しさえするわけです。自分のことは自分が一番よくわかっているのだから、というわけです。ますます大学はその性格を変えられていきます。

 大学の教師の仕事とはどのようなものだったのでしょうか。

 言葉による、それも社会の他の部門ではあまり見られない独特の言葉を用いて行われる「知」の伝達、それが大学教師の仕事ということになっていましたが、大学という制度内で行われるこの仕事はまったく時代遅れになった。完全に過去のものになってしまったのです。表面的には過去の遺物として教授の学生に対するある種の「権力」関係―教える教師対教わる学生が共同で産み出す秩序の幻影はかろうじて残存していますが、形だけで内実はまったく空虚です。学生は教師にいささかの権威も認めていない。認める素振りすら見せていないのです。これは悲劇なのか喜劇なのか。その意味では、大学は劇場に似ています。劇場こそが大学だというべきかも知れません。―このようにいって演劇を貶めるつもりはありません。

 そこに現出するのは見せかけの世界であり、社会から切断された時間と空間が支配する世界でしょう。教師は自分の語ることばが威厳をもって学生に届いていると信じている、信じたいと願っている。まるで悪い冗談みたいな話ですが、まぎれもない事実です。その証拠に試験制度を挙げてみましょう。教師が語ったことがどれだけ正確に学生に伝わったかを検査することがその要諦になっているのが試験というものです。ほとんどの試験は何も見ないで、ということは記憶に頼ってという意味ですが、行われます。そこで価値ありとされるのは「知」の内容なんかではない。「知」の水準はまったく問題外です。話されたことの再現(記憶力)の程度を検査すること、これが大学(にかぎらず)教育の核心部分をなしてきたのです。経験を伴わない、経験に裏づけられない記号の支配する「私見」の横行(強制)ではないでしょうか。

 大学教育が機能しなくなった一番の原因は「知」そのものの一般化です。専門・特殊な知識そのものが広く社会に開かれたという状況(知のインフレーション)が進行し、その結果、大学がもっとも価値あるものとしていた学術価値の効力が失われることになったからです。当たり前に通用していた専門性をもった「知」はもはやおいそれとは通用しない、大学を除いては。だから、無意味とさえ思われる試験制度がいまもなお持続しているのです。

 大学の教師に(かぎらず)なにがしかの権威があったとされるのは、彼・彼女が扱う「知」に一種の権威が認められていたからです。多くの教師は自らが持っていると錯覚していた権威を「知」が有する権威と混同していただけなのです。しかるに「知」そのものの効力が失われた以上、必然的に教師の権威(もともと定かではなかった)も失墜して当然であるにもかかわらず、その自覚が働かないままに形骸ばかりを後生大事に守ろうとしてきたのです。では、「知」の権威が失われたのはなぜかという問は大学の教師から発せられはしませんでした。「知」の伝達や伝播が有効性を保てなくなったとき、大学教師に残されたのは権威ぶった風を装うほかないことになります。

 ある時期までは、入学試験が過度に激しくなったのもこのことと無関係ではないとぼくは思います。つまりそこで用いられる原理は「検査」「ふるい分け」ということです。与えられた「知」に価値があるかどうかより、それをいかに真面目(を装って)に受け入れたか否かを「検査」することに意味があるというわけです。能力主義とか競争原理といった今につづく現象は、前もって「能力」を限定した上での「検査」に由来するものでした。能力=学力は高いけれども、判断力はいたって弱いという奇妙な存在が絶え間なく生産されて今日に及んだという次第です。政治家や官僚も例外なく、大学出の印を顕著に有しています。

 大学は社会から排除された(者を収容する)境界、それも社会にとって必要とされた装置なのです。もし、大学が社会に不必要は存在ならこんなに長く続かなかったはずです。そして大学が排除された(する)境界であるなら、教師も学生も社会から排除されていることになります。大学(学校)とは学生にとって「モラトリアム」の時・空間であるとしばしばいわれます。正確にいえば、学生時代とは社会からの排除(隔離)の期間だということです。一定の期間をかぎって排除されていればいるほど、その期間が過ぎれば社会にわれ先に同化しようとします。もうたくさんだ、自分一個の始末は自分でするよ、といわぬばかりにときには過剰に同化します。社会に同化するためにこそ排除されているのだということができるのです。(ある精神科医は大学は「膨大な金を使った失業対策事業」だといったことがあります。その意味は?)

 教室の風景は「詞章記誦ノ末ニ趨リ空理虚談ノ途ニ陷リ其論高尚ニ似タリト雖トモ之ヲ身ニ行ヒ事ニ施スコト能ハサルモノ少カラス」(「学制・前文」)という先祖返りに見られます。一方では、その極北にある実用・実学主義の目に余る趨勢です。英語(会話)の過度の重用は何を示しているのか。実用と非実用の奇妙な同居?同床異夢というのかしら。

 春三月に卒業、四月には入学や進級、このユカシイ年中行事はどこかに吹き飛ばされ、いまだに「学校(授業)再開」は完全には果たされていません。「授業のない学校」はどんな組織・制度なのか。「一斉休校」の必然性はなかったと、ぼくは今でも考えています。(オンライン授業などといいますが、それで、何がどこまでできるのか。それで足りるのなら、「放送学校」ですね。それも可ですかな)

 さまざまな困難を抱えている大学制度、ひいては学校制度が存在理由を示すのはどこにおいてなのでしょうか。

投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。