ことばの「旗」には…

 自分のなかに他人がいる、またその反対に他者のうちに自己が反映されている、このような事情は長い歴史の経過をたどってきた民族集団には程度の差はあっても認められることでしょう。そしてその集団の構成員に対する規制や束縛が強ければ、それだけこの傾向は濃厚になるともいえそうです。それは単純に否定されるべきことではありません。他者を思いやる情が深いほうが薄情よりいいに決まっているからです。また、自分がうちひしがれているときに、他者がいたわってくれることはまことにありがたいことだから。

 孟子にも「無惻隠之心、非人也」]の言葉がありました。他人の立場に立て、とはしばしばいわれることです。相手の身になって考えろ、とも。このような言い草が以前より頻繁になったかどうかぼくにはわかりませんが、もしそうなら、それだけ自他の分離がすすんだ証拠であるといえかもしれません。自他不分離があいまいなままに終わるとどういうことになるか。自分が何者であるか、他人は自分にとってどのような存在かがわからなくなるのだろうと思います。自己の発見ははっきりした他者との出逢いによるんですね。

 《しかし「ひとは誰でも」というふうに「みんな」という多数派の言葉に身をよせて物言う術というのは、ほんとうはずいぶんあやしげなんです。子どもたちが何か欲しいとき、「みんなもってるよ」という。だけど、その「みんな」というのは、まずたいていはクラスで二、三人くらいだといいます。「みんな」「人は誰でも」といった言葉でいうと、いかにもそのように、またそのようでなければならないみたいにおもえるというふうな物言う術にたいして、へんだという留保をのこしておかないと、「私」と、「人は誰でも」「みんな」とが、だんだん見分けもつかなくなっちゃいます。そうでなくても、言霊のさきわう国柄だから、言葉にたいしてよくよく「私」をむきあわせてゆくことができないと、言葉がすぐ旗になっちゃうのです》(長田弘「一人ひとりの側から」)(長田・1939-2015)

 「みんなが」をかざして物言う術はすでに小さな子どもにも修得されています。これも親や周囲の教育のたまもので、「みんな」がしていることができなければ恥ずかしいでしょ、とのべつ諭された結果です。始末に悪いのは「みんな」をもちだせば、理屈の上では返す言葉がないという事態です。これはなにも子どもの場合にかぎらなくて、「この印籠がみえないのか」と啖呵を切る助さんや格さんみたいなもので、「みんな」「誰でも」といわれれば、二の句がつげないような気分にさせられます。一陣の疾風(竜巻)みたいなもので、息をつめてやりすごしほかなくなります。

 全員一致などとは考えられないのに、多数決もかぎりなく全員一致に近づけたがる風潮が蔓延しています。クラスの二、三人が「みんな」であるような状況はいたるところで発生しています。異論や反論は許さない。それは多数に対する反抗であり、不服従だと受けとられるから。だから、あの人の意見はおかしいなあと思って異見を述べても、ほかの人の聞くところとならない。これが重なると、だんだんと口を閉ざしてしまよう。その結果、またもや全員一致とされてしまうのです。まことにあやういデモクラシーだといわざるをえません。異見・異論を認めることは、多数派を形成したと見なしている人びとが犯すかも知れない過ちを防ぐことがあるんです。

 「わたしはあなたの意見には賛成しない、でも言っていることは理解できる」というようなケースはきわめてまれではないでしょうか。はなから人の意見を認めようとしないのはいかにもまずいことですけれど、自分とちがう意見を出す人とは親密な関係になれないと思い込む人がいることもたしかです。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」というのは、その人が気に入らなければ、その人に関わりのあることはすべて気に入らぬということのようです。ぼくたちの日常生活においては「袈裟が憎けりゃ、坊主まで憎い」といってもよいような、理屈に合わないことがたくさんありそうです。

 相手を認めるというのはどういうことか。好き嫌いで判断することもあるでしょう。でも、好き嫌いをいえば、いったん好きになったらいつまでも好きだ、ということにはなりませんね。情念という動揺つねならぬフィルターをとおしてものを眺めれば、写し出される像はいつもちがって見えるものです。《じぶんとはちがう、だけれども、そこにそういう人がいると知るだけで、おのずと気が開けてゆくということがあります》(同上)

 「こんなことを考える人がいる」という驚きは、自分のものの見方を広げてくれるはずです。自分では思いもよらなかった考えがあるものだという経験は、わたしの視野をたしかに拡大するんです。そのような人や意見に出逢えないのは不運というよりは、不幸の部類にはいるとぼくは考えてきました。「わたし」と「あなた」は別々の「私人」ですが、それが「私たち」となると、「共有・公共」の空間をつくります。それを共同体(community)といっていい。「あなた」を追放・排除するのは、この「共有・公共」空間を壊すことです。「私とあなた」で形成していた「共同体」を破壊することなんです。いじめや虐待、DVなど、あるいは「自粛しないなら」と相手を「脅迫する」のも同じことです。共通の言語をも壊すことになります。

 「国難突破」のため「心をひとつに」という「旗」を振っている愚かしい輩がいます。できるわけはないし、あってはならないですよ。軽薄そのものの「ことば」です。ときには言葉が「旗」に、それが「武器」にもなる、ぼくたちはしばしば経験しているでしょう。「ことばの旗」には猛毒があるのです。その手にじゃない、その旗には摑まらないね。感染しないように、よくよく注意したい。

 「外出は自粛しよう」と「みんな」がいう。「みんな我慢して、自粛しているのに」「どうしてお前だけで遊びに出ているんだ」と、ある市の公園の砂場で「カッターの刃が二十枚。県外ナンバーの車に疵をつける。まるで「鬼滅の刃」(別話の番外編)だったのか。「病院に来ないでくれ」「観光に来ないでくれ」「店に来ないでくれ?」だと。本音か、希望か、それとも、心外ですが、か。「排外」ならぬ「排人」ですね。この風潮・空気こそが「国難」だとぼくは考えるのだ。「旗によりなさんな」、とんでもない怪我をするから。「旗を振れ、振らないと罰則だぞ」という国難だ。「国破れて山河あり」「城春にして草木ふかし」なんだね。

 「STAY at HOME」という掛け声が「旗」になっている。この旗を立てた奴は罪作りだと、ぼくには思われます。言葉が旗に、「この指とまれ」と掲げて、例外が出ると踏みつぶす。「同調圧力」とも「過同調」とも言います。今の状況は、それが張り詰めています。まもなく「破裂」ですね。「軍旗、はためく下に」(結城昌治原作・深作欣二監督、丹波哲郎・左幸子主演。1972年)(「敵前逃亡」の汚名を着せられた「亡夫」の名誉回復を願った妻の物語)、庶民は集え、か。

 だれもが「汚名」を着せられる危険性と隣り合わせ。「着せる」のは「国」であり、「会社」であり、「隣人」であり、…。いまもなお、「汚名着せ」が蔓延中ですね。

 「緊急事態宣言」の再延長だって。根拠も示さず、ほとんど無意味です。というより、暴力ですね。(外に目を向けると、あちこちで休業中止、営業再開。外出は可能と。それを見るにつけ、こちとらも「経済活動を」と「再延長」を「中止」したくてウズウズ。まもなく「宣言解除」ですよ。それも根拠なし。空気で「延長」、空気で「解除」だと。「だれが旗を振っているのやら」

 ぼくはこのことについてはものを言いたくない。最要路に立つ人物が「サイボーグ【cyborg】」であることは明白であるにもかかわらず、それを取り巻き(官僚や政治家どもだけではない、マスゴミもツルンデきた)が悪用して(傀儡〔カイライ〕にして)、食い潰そうとしてきた。相当に食い潰されたと思われます。ために、この島社会はボロボロになりました、身も心も。その正体、それは永田町に置いてはいけない「ロボット〔cybernetic organism〕」でした。

投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。