頭はいいけど利口ではない

 頭がいいってのは、なんだよ。足したり割ったりを覚えるだけではないか。それで人生を渡っていけると思うのかよ。会社に入ったって大事なのは計算ではない。人間関係でみんな苦労するんだ。会社をクビになっても生きていけるけど、家族と心が通わない、友人もいない、そんな人生になんの意味があるんだ。足し算引き算は学校で習うけど、人との付き合い方は親から学ぶものなんだよ。

 今の大企業の経営者も、頭はいいけど利口ではないのばかりですよ。計算はうまいけど、人の気持ちが読めない。だから間違うんだ。コマセを撒かないで魚を釣ろうってやつばっかりなんだよ。意味は自分で考えてくれよな。俺は解説したくない。俺はそこまで言いたくないよ。(岡野雅行・松浦元男『技術で生きる』)

(こませ= 釣りで、撒(ま)き餌。また、それに用いる小魚など)(大辞林)

 岡野雅行さんのものです。墨田区の小さな町工場の代表社員(社長)。幼少時の遊び場は向島(墨東)だった。彼はどのようなことを言っているのか。また、学校教育をどのようなものとしてとらえているのか。

 教える、教えすぎる教師はくさるほどいる。でも、子どもにむかって真剣に質問する教師は驚くほど少ない。おおくの教師は自分では「質問している」とおもっているだけ。そのじつ、自分が作った「正解」をかくして「これはなんですか?」と聞く場合がほとんどです。答えを知っていながら(知らないふりをして)、子どもに「質問する」というのは子どもをみくびっている証拠です。そこには真剣さがみられない。

 そんなことばかり強制されると、出された問題には「正解はひとつ」で、それを「知っているのは先生だけ」だという日常生活ではありえない「神話」を子どもは信じこまされるようになる。どんな問題にも「正解はひとつ」などということはありえないのに、です。この不思議なからくりは教師の側の事情による。「正解はひとつ」ときめれば、採点はかんたんだし、それに対して文句をいう生徒がでないという安心感が生まれます。一種の権威主義から、さらにはご都合主義からの手抜きです。

「頭はいいけど利口ではない」のを作るのが学校なのでしょうか。「意味は自分で考えてくれよな。俺はそこまで言いたくないよ」

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 お化けの寅って知ってるかい

 その昔、東京は下町、墨田、足立、江東あたりの金型(かながた)が地場産業の町工場地帯では腕が勝負の職人は、安定もなければ束縛もないという勝手気ままな生業(なりわい)だったんだ。つまりあっちふらふら、こっちふらふら。往々にして極楽トンボでよかったんだよね。雨が降ったら仕事を休み、夕日を拝む前から酒を飲み赤ら顔。そのまま深酒をして翌日体調が悪けりゃまた、仕事は休み。さーて、次はいつでてくるやら…。

 こんなぐうたらはこのあたりじゃ、普通の男たちで、勝手気ままな輩(やから)のことをお化けの寅といったんだ。

 なぜ、お化けの寅かって?

 寅は一日千里を走るといわれるだろ。今度はどこに出てくるのかわからないような渡世人だから寅といわれたのさ。

 寅は不真面目のようだが、この不真面目なのが実はいいんだな。

 どうしてって、不真面目な男は真面目になれるだろ。

 だけど、真面目は不真面目にはなれないんだよね。これ性根(しょうね)の問題だから。 世間では不真面目というと聞こえは悪いが、寅は世間体など気にすることなく、自由きままに人生を愉しむ術を知っていたんだよね。

 さて、似て非なるものが不真面目と莫迦(ばか)。

 利口は莫迦になれるが莫迦は死ななきゃ直らない。

 職人ってのは腕に覚えさえあれば、自由気ままに生きることができる勝手気ままのものだったんだよね。(岡野雅行『あしたの発想学』リヨン社刊2003年)

 1933年東京墨田区に生まれる。45年に向島更生国民学校卒業後、家業の金型工場を手伝う。72年父から家業をお受け継ぎ(実際には「乗っ取り」でした、岡野工業株式会社に。携帯用の小型電池「リチウムイオン電池」、世界最細(直径60ミクロン)の「痛くない注射針」などの製作にあたる。

 岡野さんに代表される最少学歴保持者でかつ職人さんをつぶさに見てみれば、いったい学校教育は人間を賢くしているのか、あるいは弱くてどうしようもない人間を作りだしているのか、実に不思議とも奇妙とも思える感情が湧いてきます。

 「勉強は大嫌いだった。その代わり、誰よりも遊んだよ」というのは岡野さん。こんなセリフを吐きたくても吐けないように仕立てられたのはだれでしょうか。埼玉県につくられた「ものつくり大学」が物議(政治家への賄賂(贈与)事件)をかもした時期でしたか、そこに呼ばれていった岡野さんは「五年や一〇年で職人は育ちません」と言い切ったそう。彼がしょっちゅう通っているある天麩羅屋の職人は「お客の前で揚げるのに十五年以上かかるという」それ以上をめざすなら、十五年では足りない、そんな世界が存在してきたし、いまもなおあるのです。

 4年で職人をつくる大学とは、いかにも罪作りではないですか。

 学歴を積み重ねるという意味はどこにあるのでしょうか。教えられることになれてしまうと、自分の足で立って歩くことができなくなるのではないかと心底から心配になります。ぼくはこの「小卒」の大先輩に「魅せられて」歩いてきました。

 「魅せられて」(ジュディ・オング・https://judyongg.com/) ジュディの唄はすごいですよ。「女は海 好きな男の腕の中でも 違う男の夢を見る」(阿木燿子詩、やっぱり)だと。(この部分は、岡野さんとはまったく関係ありません。駄文の中身とも)

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)