忘れえぬ教師

 《小学校で、私は二人の教師を記憶している。一人は、四年生の担任の野田先生、もう一人は、三年と五、六年の担任の元木先生である。私は東京都千代田区(当時は麹町区)の富士見小学校を大正十二年に卒業した。(中略)

 たぶん野田先生は、そのころ赴任したてではなかったかと思う。四年生ともなれば、教師の動静にかなり敏感である。その生徒の目から見て野田先生は、異色があった。まだ若い、学校を出て間もないらしい、フチなし眼鏡をかけた野田先生が担任になったことを、ひそかに誇る気分がクラス全体にあった。どういう異色かというと、一言にいってハイカラという印象である。今にしておもうと、野田先生は自由主義教育の雰囲気を身につけていたらしい。そしてそれを与えられた制限のなかで生かした。学校は案外おもしろいところだという気がして、積極的な勉学の意欲がかき立てられたのは、野田先生の授業からだった。  

 沈んだ記憶をよびさまそうとして筆をおいているうちに、ふと思い出した一つの小さなことがある。それは野田先生が、授業時間中の見回りのとき、私のシモヤケの手をなでてくれたことである。私は子どものころ、毎年冬になるとシモヤケをひどく患った。いまでも右手にその傷跡の一つが大きく残っている。赤くふくれて、傷からウミがホータイにしみ出ている私の手を、両手にかかえるようにしてのぞきこんでいる野田先生のフチなし眼鏡をかけた小柄の顔が目にうかぶ。それがどんなに当時の私にうれしかったか、どんなに精神の飢えを満たしてくれたか、今わかるような気がする。

 野田先生は、私の文才をはじめて認めてくれた人としても、私の記憶から消えることはない。私は作文がおもしろくてたまらなかった。課題作文のほかに自由作文を書かせることも、野田先生からはじまった。私は次第に長い文を書くようになり、しまいには原稿用紙で十枚くらいのフィクションを綴ったと記憶している。野田先生はそれに添削して、長い批評をつけて返してくれた。私が自分からすすんで添削を乞うたのは、前にも後にも野田先生きりである。その年のおわりに、作文集を手製の合本にして、表紙をつけて、先生に題字の揮毫を願った。先生は「思出の種」という、当時の私から見ていかにも気のきいた、しゃれた題をつけてくれた。その字を父が見て、うまいとほめた》(竹内好「忘れえぬ教師」)(上の写真、富士見小学校は明治十年創立です。西南戦争の年でした。)

 竹内好(よしみ)さんは文学者。とくに中国文学(魯迅研究等)において大きな足跡を残された。1910~77。右の文章の初出は57年です。

 「この文集に和歌数首が掲載されていたが、すべてを忘れてしまった。(文集は中学四年のときに、井の頭公園で焼却したという)たまたまうる覚えの一首、「ケキョケキョと藪鶯のなく声を(以下四字忘れた)にきく初春の野辺」があった」

 「これは課題作文で…この歌がいいとは思えない。子どもらしいひらめきが少しもない、いやにひねこびた歌である。私の中にある俗物根性、優等生根性の面がそっくり出ていて、自己嫌悪を感ずる。しかし、こう言うと弁解じみるが、当時の私もこれは快心の作と思っていたわけではない。いわゆるうまい歌に反逆したくて、何首かは型やぶりをやったが、それだけでは先生に悪い気がして、先生の気に入りそうな歌を添えた中の一首がこれなのである。そして、これが最高点で入選した。私の経験から帰納した定理の一つは、学生はつねに教師に迎合する、というのである」と教師経験者でもあった竹内さんは語っています。(「元木先生」についてはいずれ機会を見つけて)

 「ともかく私は野田先生がすきだった」

 だれもがおなじように長い学校生活を経験します。その間、いったいどれほどの教師たちと交錯(交差)してきたことでしょうか。かぎりないほどの出会いをくりかえしながら、その実、ほんの数人が記憶に残れば勿怪のさいわいというほかありません。もちろん、記憶に残るといっても、早く忘れたくなるような教師との出会いもありますから、竹内さんのような僥倖は宝くじにあたるような、希有のことだったと思われます。

*****

 朝日新聞社編『ほんとうの教育者はと問われて』(朝日選書36)

*こんな質問に対してあなたはどのように答えますか。答えられますか。「ほんとうの」という尋ね方はどうですか。「ほんとうの」って。それに応える人も人ですが。

 いまは亡き哲学者の田中美知太郎さん(1902-1985)は、以下のように述べておられます。先生はこの島社会における「ギリシア哲学、とりわけプラトンやソクラテス思想」の道を切り開いた人として、ぼくも親しく学んだ記憶がある方でした。どこかで駄文を書いてみたいと思っているほどです。

 《本当に学ぶ者の立場からすれば、先生というものは、あらたまって何かを教えてくれなくても、いっしょに勉強してくれるだけで、あるいは自分が学問していてくれるだけで、わたしたちの師として十分なのかも知れない。何も教えないと言ったソクラテスが、最も偉大な教師であったということである》とされています。万感の思いをこめて、ぼくもそのようにいいたいほどです。

 なんとも悲しいことですが、ぼくには学校時代に「恩師」とか「忘れえぬ教師」というような人に出会ったことはただの一人(一回)もなかった。なぜだったか。その理由はわかるような気もしますが、まるで謎でもあるといいたい気もします。もっとも大きな理由はぼく自身が「人に頼る」「人に頭を下げる」ことが死ぬほど嫌だったからです。「どんなことでも、自分でやってみる。そうでないと気が済まない」と、ほとんどすべてを「我流」で通したと言って、自慢するのではありません。ある意味では不幸なことだったと、正直に思います。悪い意味での天邪鬼。三つ子の魂百まで。

 どんなことでも自分流で通そうとしたから、人の何倍も失敗し、苦労したと思います。挫折したことはなかった。挫折するほど、物事に真剣に取り組まなかったという、最悪の姿勢が身についてしまっていたからです。今だから言うのですが、失敗や苦労こそが「ぼくの教師」だった。「経験から学ぶ」というのがわが学習法でした。躓いたり転んだり、「起き上がりこぼし(小法師)」みたいなもので、とにかく揺れに揺れた人生でした。ブレないというのではない生き方、それがぼくの流儀に、いつしかなっていました。

 竹内さんはよく読み、全集も横に置いていた時代もありました。「一人の英傑」であると考えちがいをしていた期間が長かった。読書していてわかったんですが、「60年安保」の一場面で、異常に興奮した彼を知って、「なんと軽薄な」と興ざめをしたのでした。「人民政府」ができるとでも思っておられたのでしょうか。ぼくのアナーキー(anarchy)の芽生えだったかもしれない。それは別の話で、好さんの「魯迅」に関する翻訳も文章もいまだに溺愛しています。

 「竹内好の文章の魅力は,自分を消して状況を見るという見方をとらず,自分のいる状況から離れずに文章を書いたことにある.自分をその外に置かない視野の形成.「一木一草に天皇制がある」(「権力と芸術」,講座『現代芸術』第二巻,所収).天皇制に捉えられた状況の中にいて天皇制にあらがう,そこに竹内好の文章の力がある.それは失敗の中から力を汲み取る方法を示し,自分の,そして日本国民の,さらには人類の生き続ける道を指さす」(鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫、2010)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。