「憲法について」、今昔物語

 憲法制定当時の、官僚の狼狽ぶりは、いま思い出しても、コッケイ極まるものでありました。新憲法はたしかに、占領軍から押しつけられたものであります。そのことは、ゲインの暴露を待つまでもなく、制定当時から、だいたい想像がついていたことでした。これは問題になることでありますが、同時に、他の一面、それが官僚の独善的憲法の作製を破砕すべきものとして現れた、ということも忘れてはならない点だと思います。さればこそ官僚は、必死の妨害工作が失敗したと見るや、俄然、手のひらをかえして、そして、あたかも新憲法が自分のイニシャティブで発案されたかのような粉飾を見せたではありませんか。そして、それによって新憲法が人民の手に渡るのを防いだのであるが、もともと不本意に呑み込んだものだから、実行する気など、はじめから毛頭なかった。表面を取りつくろって、時をかせげばよかった。そして今日、時至れりとばかり、公然、憲法無視の態度を露骨に示し出したと見るべきでありましょう。

 今日の権力者の憲法無視は、ほとんど議論の余地のない、明々白々の事実であります。再軍備は申すまでもなく、国民の基本的人権をジュウリンし、学問の自由を奪い、集会、結社、言論、出版の自由を侵し、国権の最高機関である国会の機能を不具ならしめ、一方において社会保障の増進に努めず、象徴である天皇を神格に復せしめようとしております。まことに、至らざるなき有様です。しかも、みずからこれを認めようとせず、たまたま尻尾をつかまれれば「失言」と称して逃れ、あるいは居直って国民を威喝し、その傍若無人ぶりは、手のつけようがありません。民主主義とは、かくも藤原朝に似た寡頭専政を作り出すものでしょうか。(竹内好「憲法と道徳」一九五二年五月号『世界』初出)

 大小を問わず、権力は傲岸であり不遜です。引用した文章は吉田茂総理の時期のものですが、権力を握っている連中の行動パターンが時と所を変えて、しばしばくりかえされるのはなぜか。時の為政者はいつでも憲法を守るフリをしてきたが、それはフリであって、真のすがたではない。守ろうという魂胆は少しも持たないのが権力者の資格でさえあると言った方が当たっているのではないか。(もちろんわずかな例外はありました)憲法を変えて、国民をそれによって縛ろうというのだから、無知は悪(暴力)であるというほかなさそうです。まるで、憲法につばをする不逞な行為であります。権力の無法・不法な振る舞いをこそ縛るのが憲法の大義です。以下の樋口氏の述べるところを、とくと吟味したいですね。

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 「民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。

 近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです。

 今から120年も前、大日本帝国憲法の制定にかかわる政府の会議で、伊藤博文がこう語っています。/「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」/ 憲法をつくるとはこういうことです。伊藤は、いわば模範解答を残した。憲法によって国家権力を縛るという「立憲主義」の考え方を理解していたことがわかります。

 明治から昭和のはじめにかけて、立憲改進党とか立憲政友会のように「立憲」の名を冠した政党がいくつもありました。それほどなじみのある言葉だったのです。では、現代の政治家たちはどうでしょうか」(「いま、憲法を考える」朝日新聞・12/05/02)

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 首相「憲法改正、必ずや成し遂げていく」 緊急事態条項創設訴え

 安倍晋三首相(自民党総裁)は3日、ジャーナリストの櫻井よしこ氏らが主催する憲法フォーラムに寄せたビデオメッセージで、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、憲法を改正して「緊急事態条項」を創設する必要性を訴えた。憲法フォーラムは、新型コロナの影響で集会の形を取らず、動画投稿サイト「ユーチューブ」で中継した。

 「今回のような未曽有の危機を経験した今、緊急事態において、国民の命や 安全を何としても守るため、国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えていくべきか。そして、そのことを憲法にどのように位置付けるかについては、極めて重く、大切な課題であると、私自身、改めて認識した次第です。自民党がたたき台として既にお示ししている改憲4項目の中にも『緊急事態対応』は含まれておりますが、まずは、国会の憲法審査会の場で、じっくりと議論を進めていくべきであると考えます」

 「そして、憲法第9条です。今回の新型コロナウイルスへの対応では、延べ1万7千人を超える自衛隊員が対応に当たり、この瞬間も、各地の自衛隊病院などで、感染症患者の救護に当たるとともに、空港での検疫、自治体職員などへの感染予防のための教育支援を行っています。そして、一連の対応を通じて、従事した隊員からは、これまで1人の陽性者も出していません。事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める。私は自衛隊の最高指揮官として、彼らのプロフェッショナリズムに常に胸を打たれています」

 「3年前のこの『憲法フォーラム』でのビデオメッセージにおいて、私は、『2020年を新しい憲法が施行される年にしたい』と申し上げましたが、残念ながら、いまだその実現にはいたっておりません。他方、この間、先の参議院選挙において、われわれ自民党は、国民の皆さまから『憲法改正の議論を前に進めよ』との力強い支持をいただき、また、各種の世論調査においても、『議論を行うべき』という回答が多数を占めてきております。憲法改正への挑戦は決してたやすい道ではありませんが、必ずや皆さんとともになし遂げていく。その決意に揺らぎは全くありません」

 「憲法改正の主役は、国民の皆さまです。どの項目をどのように改正するの か、あるいはしないのか。国民投票によって国民の皆さまが決めます。ですから、多くの国民の皆さまが憲法改正について、自らの問題として大いに議論をし、理解を深めていただきたい。本日のフォーラムが、その大きな役割を果たすことを期待しています。憲法改正に向けて、引き続き頑張ってまいりましょう」(産経新聞・20.05.03)

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 論評はしません。ぼくはいつでも、この「ソーリ」はおそらく憲法を丁寧に読んだことが一度もないと、確信に近い印象を感じてきました。「少しも尊重していないな」と。「印象」などと、いい加減なことを言うなと非難されそうですが、多分まちがっていないという「印象」をいだいています。日頃の「会議」の「首相発言」も自分では問題の所在をつかまないままに、喋らされていると思われます。つまりほとんどのことに彼は関心も責任感も有していない、おのれの「占める地位・座る椅子」だけが気がかりなんだと断言、これはできます。「真情」があるのか?不実の上にも不実だ。

 驚くべき、稀に見る「厚顔かつ醜悪さ」(impudence、shamelessness)で、ますますその度合いに拍車がかかってきたと思われます。いささかの「名分」(死ぬ理由)もなく、「いぬ‐じに【犬死に】[名](スル)何の役にも立たない死に方をすること。徒死。むだじに」(デジタル大辞泉)をせざるを得なかった(政治の不作為により、させられた)、数多の人々に一片の惻隠の情すら見せない(持てない)人間がいるという、底なしの恐怖です。生活の糧さえ失った無量の人民の困苦に意識が及ばないという非人情。人民の「徒死」や「塗炭の苦悩」に責任の一端(どころではない)があるとは考えられないという鉄面皮です。(左上の方もなかなかの曲者、紛い物。都の自己宣伝相なんだ。薄情そのものだね。Cairo大卒とか)

 憲法は「なんとかマスク」ではありません。汚しても、汚されてもならない。(ぼくは現行憲法の改正については、それは「不磨の大典(「大日本帝国憲法」の「美称」)」とは少しも考えていません。どこを変えるべきかを考えます)

 忘れえぬ教師

 《小学校で、私は二人の教師を記憶している。一人は、四年生の担任の野田先生、もう一人は、三年と五、六年の担任の元木先生である。私は東京都千代田区(当時は麹町区)の富士見小学校を大正十二年に卒業した。(中略)

 たぶん野田先生は、そのころ赴任したてではなかったかと思う。四年生ともなれば、教師の動静にかなり敏感である。その生徒の目から見て野田先生は、異色があった。まだ若い、学校を出て間もないらしい、フチなし眼鏡をかけた野田先生が担任になったことを、ひそかに誇る気分がクラス全体にあった。どういう異色かというと、一言にいってハイカラという印象である。今にしておもうと、野田先生は自由主義教育の雰囲気を身につけていたらしい。そしてそれを与えられた制限のなかで生かした。学校は案外おもしろいところだという気がして、積極的な勉学の意欲がかき立てられたのは、野田先生の授業からだった。  

 沈んだ記憶をよびさまそうとして筆をおいているうちに、ふと思い出した一つの小さなことがある。それは野田先生が、授業時間中の見回りのとき、私のシモヤケの手をなでてくれたことである。私は子どものころ、毎年冬になるとシモヤケをひどく患った。いまでも右手にその傷跡の一つが大きく残っている。赤くふくれて、傷からウミがホータイにしみ出ている私の手を、両手にかかえるようにしてのぞきこんでいる野田先生のフチなし眼鏡をかけた小柄の顔が目にうかぶ。それがどんなに当時の私にうれしかったか、どんなに精神の飢えを満たしてくれたか、今わかるような気がする。

 野田先生は、私の文才をはじめて認めてくれた人としても、私の記憶から消えることはない。私は作文がおもしろくてたまらなかった。課題作文のほかに自由作文を書かせることも、野田先生からはじまった。私は次第に長い文を書くようになり、しまいには原稿用紙で十枚くらいのフィクションを綴ったと記憶している。野田先生はそれに添削して、長い批評をつけて返してくれた。私が自分からすすんで添削を乞うたのは、前にも後にも野田先生きりである。その年のおわりに、作文集を手製の合本にして、表紙をつけて、先生に題字の揮毫を願った。先生は「思出の種」という、当時の私から見ていかにも気のきいた、しゃれた題をつけてくれた。その字を父が見て、うまいとほめた》(竹内好「忘れえぬ教師」)(上の写真、富士見小学校は明治十年創立です。西南戦争の年でした。)

 竹内好(よしみ)さんは文学者。とくに中国文学(魯迅研究等)において大きな足跡を残された。1910~77。右の文章の初出は57年です。

 「この文集に和歌数首が掲載されていたが、すべてを忘れてしまった。(文集は中学四年のときに、井の頭公園で焼却したという)たまたまうる覚えの一首、「ケキョケキョと藪鶯のなく声を(以下四字忘れた)にきく初春の野辺」があった」

 「これは課題作文で…この歌がいいとは思えない。子どもらしいひらめきが少しもない、いやにひねこびた歌である。私の中にある俗物根性、優等生根性の面がそっくり出ていて、自己嫌悪を感ずる。しかし、こう言うと弁解じみるが、当時の私もこれは快心の作と思っていたわけではない。いわゆるうまい歌に反逆したくて、何首かは型やぶりをやったが、それだけでは先生に悪い気がして、先生の気に入りそうな歌を添えた中の一首がこれなのである。そして、これが最高点で入選した。私の経験から帰納した定理の一つは、学生はつねに教師に迎合する、というのである」と教師経験者でもあった竹内さんは語っています。(「元木先生」についてはいずれ機会を見つけて)

 「ともかく私は野田先生がすきだった」

 だれもがおなじように長い学校生活を経験します。その間、いったいどれほどの教師たちと交錯(交差)してきたことでしょうか。かぎりないほどの出会いをくりかえしながら、その実、ほんの数人が記憶に残れば勿怪のさいわいというほかありません。もちろん、記憶に残るといっても、早く忘れたくなるような教師との出会いもありますから、竹内さんのような僥倖は宝くじにあたるような、希有のことだったと思われます。

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 朝日新聞社編『ほんとうの教育者はと問われて』(朝日選書36)

*こんな質問に対してあなたはどのように答えますか。答えられますか。「ほんとうの」という尋ね方はどうですか。「ほんとうの」って。それに応える人も人ですが。

 いまは亡き哲学者の田中美知太郎さん(1902-1985)は、以下のように述べておられます。先生はこの島社会における「ギリシア哲学、とりわけプラトンやソクラテス思想」の道を切り開いた人として、ぼくも親しく学んだ記憶がある方でした。どこかで駄文を書いてみたいと思っているほどです。

 《本当に学ぶ者の立場からすれば、先生というものは、あらたまって何かを教えてくれなくても、いっしょに勉強してくれるだけで、あるいは自分が学問していてくれるだけで、わたしたちの師として十分なのかも知れない。何も教えないと言ったソクラテスが、最も偉大な教師であったということである》とされています。万感の思いをこめて、ぼくもそのようにいいたいほどです。

 なんとも悲しいことですが、ぼくには学校時代に「恩師」とか「忘れえぬ教師」というような人に出会ったことはただの一人(一回)もなかった。なぜだったか。その理由はわかるような気もしますが、まるで謎でもあるといいたい気もします。もっとも大きな理由はぼく自身が「人に頼る」「人に頭を下げる」ことが死ぬほど嫌だったからです。「どんなことでも、自分でやってみる。そうでないと気が済まない」と、ほとんどすべてを「我流」で通したと言って、自慢するのではありません。ある意味では不幸なことだったと、正直に思います。悪い意味での天邪鬼。三つ子の魂百まで。

 どんなことでも自分流で通そうとしたから、人の何倍も失敗し、苦労したと思います。挫折したことはなかった。挫折するほど、物事に真剣に取り組まなかったという、最悪の姿勢が身についてしまっていたからです。今だから言うのですが、失敗や苦労こそが「ぼくの教師」だった。「経験から学ぶ」というのがわが学習法でした。躓いたり転んだり、「起き上がりこぼし(小法師)」みたいなもので、とにかく揺れに揺れた人生でした。ブレないというのではない生き方、それがぼくの流儀に、いつしかなっていました。

 竹内さんはよく読み、全集も横に置いていた時代もありました。「一人の英傑」であると考えちがいをしていた期間が長かった。読書していてわかったんですが、「60年安保」の一場面で、異常に興奮した彼を知って、「なんと軽薄な」と興ざめをしたのでした。「人民政府」ができるとでも思っておられたのでしょうか。ぼくのアナーキー(anarchy)の芽生えだったかもしれない。それは別の話で、好さんの「魯迅」に関する翻訳も文章もいまだに溺愛しています。

 「竹内好の文章の魅力は,自分を消して状況を見るという見方をとらず,自分のいる状況から離れずに文章を書いたことにある.自分をその外に置かない視野の形成.「一木一草に天皇制がある」(「権力と芸術」,講座『現代芸術』第二巻,所収).天皇制に捉えられた状況の中にいて天皇制にあらがう,そこに竹内好の文章の力がある.それは失敗の中から力を汲み取る方法を示し,自分の,そして日本国民の,さらには人類の生き続ける道を指さす」(鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫、2010)