
木々の緑が目にまぶしい季節が続く。五月晴れの光に輝く緑もよければ、雨にぬれるしっとりした緑も鮮やかだ。この時期に旅先の車窓から眺める田んぼの緑も楽しい▲植えたばかりの細い苗が風に揺れている。遠目からは、一枚一枚の田んぼが薄緑色にくくられて、まだ苗のない代田と絶妙なコントラスト。目を凝らせば苗の列がくっきり線条となり、これまた見事な幾何学模様を作る▲長い列島、田植えの時期はそれぞれだ。沖縄県の3月初旬から始まり、ちょうど今は北海道が最盛期に入る。稲の品種や二毛作との関係で6月までかかる地域もある。そもそも、5月を「さつき」と読むのは、田植えをする「早苗月」からきたという▲田植えと言えば、かつて棚田を借り苗を1本ずつ手植えしたことがある。水ぬるむ田に地下足袋姿で腰を曲げ、という昔ながらの体験で、最も感動したのは、何とも心もとない2、3枚のひょろひょろした葉が太陽と水と土の力で十数本のたくましい稲に分けつ(枝分かれ)していく過程だった▲もちろん、自然の力に頼るだけで良き収穫は望めない。適切な除草や水管理があってはじめて実りの秋を楽しめる。それ以前に、まだ冬の終わらぬうちから田を起こし、あぜぬりし、堆肥(たいひ)を入れ、田打ちをし、水かけ、しろかきをする。この基本動作が欠かせない。(略)(毎日新聞・10/05/24)

このところ、近辺の田植えはほとんどが済んだようです。早苗の美しさには例えるものがない、独特の清新さがあるので、ぼくはときにあぜ道に降り立ち、早苗の風に揺らぐ姿を眺めることがしばしばです。「揺らぎの姿勢」はぼくのもっとも好むスタイルであるのです。好きな言葉じゃないのですが、「ブレる」のがわが流儀なんです。

その昔、田植えは「早乙女」という若く明るい女性たちの晴れ舞台でもありました。田植えは、稲を運んだりしている男どもが好みの相手を見つける(婚活の一種だった)ための行事でもあったのです。今はほとんどが機械化され、細部の始末だけを人手でするのです。遠目にも老夫婦らしい二人が苗を植えています。うんと昔の「早乙女」の横に、それを見染めた「昔の嵐君」が寄り添うように植えていました。(興ざめするのは、その早苗田の横の休耕田、草が生え、荒れ放題の混沌状態にあります。稲をつくらなければ補助金、作れば罰金という悪政治をどれだけ続けてきたことか)
その田植えや早苗を見る時期になると、ぼくはよく想い出します。芦田恵之助さんの次の言葉を。彼はほんとうに気宇壮大な教師だった、壮大すぎるところがあった。ぼくには、まるで幻影の教師でした。

「私が近頃面白くてたまらないように思うのは、教室が国家の苗床と見え出したことです。日本の水田に植えつけられた稲の一本々々を調べてみても、一本として苗代田で育たないものはありません。それと同じく、日本国民といわれるものは、誰一人小学校という苗床で育たないものはありません。日本国民一億万、その中に特殊の事情で初等学校を経由しないものがあるとしても、大多数は小学校に於て、国民たるべき教育をうけたものです。中等教育、高等教育、大学教育となると、その数が次第に減少するけれども、小学教育ばかりは、義務教育として強制しているのだから、国民の苗床といっても、さしつかえないと思います」(『教式と教壇』昭和13年)

(芦田恵之助(1873~1951)(あしだえのすけ)=教育家。兵庫県生れ。号は恵雨。東京高師付小訓導。岡田式静坐を学び,東洋的行の立場から〈自己を綴る・読む〉教育,随意選題による作文教育を提唱。退職後地方教壇行脚(あんぎゃ)を重ね,雑誌《同志同行》発行。著書《国語教育易行道》《静坐と教育》など)(マイペディア)
《教育の本義とはなんぞ、これは一口にいえば「育つ」ということです。子供にむかっていう時には「育てる」ということです。育つとはだれが育つのか、それが子供だけだと考えたらいけないと思います。子供も育ち、父母、教師も育つ。父母、教師も育ち、子供も育つ、育つという気持ち一つになれば、教育するものと教育されるものとが一つに触れ合うことは、当然のことであります。
こういうことは理屈の上からいうのでありますが、なんのことかわからんけれども、なるほど理屈でそうなるのならば認めてもよいと仰せられるのではないかと思います。教育のほんとうの意義が子供も育ち、父母、教師も育つ、その育つ喜びを感じた時にきわめてなめらかなる教育の空気というものがつくられるのではないか》(青山廣志『法楽寺の芦田恵之助先生Ⅱ』大阪恵雨会)
「ともに育つ」、それはどんなことをさすのか。「理屈の上からいうのであります」と芦田さんは述べるのですが、実際にはこんなことがありました。ある子どもが運動会で獲得したメダルが教室でなくなった。それを知って職員室へ行き、別のメダルをもってきた。それを盗まれた子に渡し、盗んだ子の親からメダルを返してもらって、その母親を呼んで、つぎのようにいった。

「教師としての自分も盗んだことがあるといい、母親もきっと盗んだことがあるから思いだしてほしいとたのみ、おたがいに盗んだことがある人間として子の盗癖を直すようにこれから外部の誰にもこのことを公にすることなく、努力していこうという。ともに育つとは、このような心ぐみを含んでいた。
そういう努力を、芦田はつねにかくしており、彼が生徒たちに印象をのこしたのは、そのいつもかわらざる快活な態度だった」(鶴見俊輔「めだかの学校」鶴見俊輔集8所収、筑摩書房刊、1991)
メタル
五月の第二土曜日は、春の運動会の日です。やつと学校生活になれたばかりの一年生が、一人もころばず、泣かないで、徒歩競争をしてくれるようにと祈つていました。
開会、間もなく尋一の徒歩競争が終つて、私の学級にも、金メタル三つ、銀メタル三ついたゞきました。さあ控え所は大へんです。喜ぶ者六人、うらやむ者はその他でした。私は何か知ら、おそろしい予感がしたので、
「そのメタルは全部先生があずかつておいてあげよう」

「いやだ、いやだ」
「では、教室にしまつておきなさい。落とすと行けないから」
これには六人とも、すなおに従いました。
午前の部がおわつて、食事のために、全児童が教室にはいつて来ました。つきそつている母もありました。この時突然、
「メタルがない‼」
と一人がさけびました。つゞいて二人、三人ついには六人。
「メタルがない‼」

といつて、泣かんばかりです。母親たちも不振の目を見張りました。
私は今更に予感をおぼえながら、とにかくこの場をまとめなければなりません。うそも方便です。
「あれは先生があずかつておいた。失えるといけないから、まつていたまえ、今もつてくるから」
と賞品室へいつて、予備のメタルの中から、金三つと銀三つを持つて来て、
「これだろう。おべんとうがすんだら、メタルはみんなおかあさんに預けておきなさい」
といつて渡しました。(略)(出典は?、今はぼくの「メモ書き」のままに写しておきます)

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自分の弱さ、欠点を子どもの前で隠さない教師でありたい。この島社会では「聖人君子」(知識や徳の優れた、高潔で理想的な人物」(デジタル大辞泉)であることを求められ、自分でもそのようにふるまいたくなるのが、教師稼業でしょう。電車に乗っているときも、飯を食っているときも、寝ているときも「教師であれ」とは、ちと窮屈すぎます。おちおちしていられません。親鸞じゃないけれど「悪人」で結構と割り切ってしまわなければ、いつでも自分を偽ることに汲々とするばかりです。弱い、という自覚は人間を強くしてくれます。芦田さんの強みは弱い自分を、自他に隠さなかった点にあります。存外、それはむずかしいのですが。
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石楠花の 紅の蕾の ゆるみたる 椎花
早苗とる手もとや昔しのぶ摺 芭蕉
早乙女の下り立つあの田この田かな 太祇