あまりさへ疫癘うちそひて

 世の中飢渇して、あさましき事侍りき

 「また、養和のころとか、久しくなりておぼえず。二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春、夏日照り、或は秋、大風、洪水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるそめきはなし。

 これによりて、国々の民、或は地を捨てて、境を出で、或は家を忘れて、山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上ぼる物なければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま交ふる者は、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり」

 養和は1181年から82年まで。二年の間、世に飢饉がおこり、すさまじいできごとが続いた。春夏は日照り、秋には台風に洪水、穀物が実ることもなかった。秋の収穫や冬の取入れの賑わい(そめき)はみられなかった。

 民衆は土地を捨て、よそに行く、あるいは家を捨てて山に住んだ。いろいろな祈祷が始まり、特別の修法も持たれたが、効験(ききめ)もなかった。都の常で、何事も田舎を頼りにしていたのがいっかな物資は京に入ってこなかった。「さのみやは操もつくりあへん」恰好ばかりもつけてはおられないので、さまざまな宝物を捨てたり処分したりした。それでも目を止める人さえなかった。たまさか交換が調っても、「金を軽く」「粟を重く」とまるで、この島の戦前・戦後の闇物資の物々交換のようだった。物乞いは路傍に溢れ、憂い悲しむ声が耳を満たすのであった。

 今を去る八五〇年ほど前の京都の惨状ぶりを長明は克明に記しています。よく言われるようですが、長明という人は今のレポーターのさきがけで、天変地異の災害やそれがもたらす苦しみを現場から中継するかのごとくに記録しています。人生のとば口に立つ、ひとりの青年長明は年ごとにくりかえされる天変地異の異様なさまをいかに眺めたか。今風のカメラ目線で、なんともやりきれない場面をさも効果あらしめるように作為(人工)的に切り取るのではなく、いのちのはかなさ、世の政を導く貴人や貴種のどこまでも邪(よこしま)な振る舞いにときにはいかり、ときには諦念を深めながら、眼前の「あさましき事」「世の乱れる瑞相」に心を痛めていたのです。いとも簡単にいのちが選別され、あるいは捨てられるというほかない、昨今の薄情な仕打ちを片方に眺め、さらに長明の時代を遠望してみるのです。いのちの彼我の軽重を計ることはできませんが、ぼくたちは幸せな時代に生きているとは嘘にもいえそうにないのです。

 「前の年、かくの如く、からうして暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまにあとかたなし。

 世人、みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚(いを)のたとへにかなへり。果てには、傘うち着、足引きつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものども、歩くかとみれば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。とり捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや、河原などには馬、車の行き交ふ道だになし」

  昨日(20/04/21)の報道で「行き倒れ」の人があったので、病院に搬送したが死亡が確認されたといいます。死後の検査で「陽性」が認められたという。他にも複数人がいると報じられています。検査にもたどり着けない無数の感染者がいることが多くの証拠をもとに語られている。異様に(とぼくには思われます)多い専門病院の「院内感染」はこの事実(検査を受けていない、隠れ感染者の存在)を知らしめていないか。ぼくがもっとも知りたい数値や情報はどこからも届いてこない。隠されているとしか思えないが、なぜ隠すのでしょうか。木の葉が沈み、石が浮かぶとかいう世の中の異常・非情をぼくたちは眼を見開いて凝視しなければならない。

 長明を読む理由がどこにあるのか、判然としないままに、これまでぼくは何度も読んできました。だが、今回ほど、長明の「方丈記」の視点や視野がまっすぐにぼくに届いたことはなかった。人間の「欲得」は決して死なない。年齢・性別・学歴不問です。名誉欲も権力欲も、かかる人民の苦しみや悲しみのさなかにおいてこそ、むき出しになるのだとすれば、ぼくには語る言葉もない。生命よりも欲得を!生きているうちが花なんだと、あざけりの声が聞こえそうです。

 堀田善衛さん(1918-1998)の『方丈記私記』(筑摩書房刊、1971)はぼくの愛読書でした。何度読んだか。

 「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明の「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ」と、この「私記」を書き出しています。

 「(一九四五年)三月十日の東京大空襲から、同月四月二十四日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった。…/ しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読みかえさせたものであったか。/ それは、やはり戦争そのものであり、また戦火に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、と感じたからであった」(「私記」)

 敗戦前の三月十日、堀田善衛さんは「東京大空襲」に遭遇された。その時の経験が克明に「私記」に記されています。「前の年、かくの如く、からうして暮れぬ」と長明が描いたこの時期、清盛は福原遷都を強行した時期でもありました。青年堀田さんと青年長明さんとの歴史の隔たりを越えた符合を、どのように評するのがいいのだろうか。

 年表風に。1173(承安三)年、親鸞が日野の里に生まれていました。二年後の安元元年、法然は専修念仏を唱えます。安元三年、大火。1178(治承二)年、安徳天皇誕生。治承四年、福原遷都。頼朝、義仲相次いで挙兵。1181(養和元)年、清盛没。養和の飢饉。治乱興亡は人民の塗炭の苦しみをよそに、さらに打ちつづきます。

 「そうして、…安元三年の大火のとき長明は二十五歳であり、治承四年四月の大風と六月の福原遷都は長明二十八歳のときのことである。私自身もまた同じような年恰好であった。二十七歳であったのだ」

 「つづけて養和の大飢饉が来る。養和元年とは、治承五年(一一八一)七月に改元されたものであり、翌年の五月には寿永と、またまた改元されるのであるが、この二年間は実に怖るべき大飢饉・悪疫流行の最悪の年であったのだ。長明二十九歳、三十歳の時のことであり、私自身もまた自分の年恰好と、世の中の有様行末をひきくらべて暗澹たる思いをさせられた。この頃に硫黄島の軍が全滅していた」(「私記」)

  おそらく、人間の生きた時代や社会のどんなところにも「方丈記」は書かれてきたにちがいないのです。

 「朝鮮」という総和を生きる

金石範 もう一言付け加えると、私はね、この戦後生きてきたひとりとしてね、問題は生き方なんですよ。その生き方というのは、彼の場合(金時鐘)は八・十五の解放を原点にして、逆さまなかたちでこれまで一生誠実に生きてきたということ。私の周辺でも必ずしもそうじゃない場合もかなりあるんですよ。そういう意味では、やはり在日する者としてのひとつの誠実に生きる姿が彼の話のなかにでてくるじゃないですか。ただあの時こうしたああしただけじゃない、全体を、ともかく悩みながら一応誠実に生きてきたという。年取るとね、そういう思いが強いよ。そうじゃないすべての人を否定してるんじゃなくて、やはりこういう生き方もあるということですよ。

金時鐘 ぼくの場合は何も誠実に生きたということもないし、そういうかたちで評価してくださる先輩とか知人たちもいますけど、ぼくの場合はね、このような暮らししかできようのない状況を生きてきたというにすぎない。

金石範 それはその人の人間的な資質にもよるかわからんけどね、人間そうじゃない場合が多い。適当に順応して、そうでないように見せながら生きている。それが世の中だろう。私はそのようにできなかった。時鐘もそうなんだよ。

金時鐘 なぜ「朝鮮」籍にこだわるのかというと、たしかに韓国籍をとれば、もっと自由でいられるしな、金先生くらいだったらもっとよくしていられるのにと言ってくれる人もおるけど、そういう方便の問題じゃないんだな。ぼくの場合は、あれほど無道きわまりないことやって作り上げた韓国という国家体制をね、出来あがった体制の過程を身をもって知ってる者としてね、実際的に韓国のこの五〇数年というのは、もし戦争責任というのが厳密に言えることならね、植民地統治下でいい思いした連中らがな、おおっぴらに復権して政財界から芸術、教育界に至るまで重鎮におさまってきたという年月なんだよね。で、日韓関係の友好というのも、日本でも戦争犯罪者に類する連中らが自民党という権力与党の重鎮にすわって何十年来たわけでしょ。ぼくは日本で最初に出会ったのが、幸いにも金石範先生であったり、姜在彦氏といった民族意識の強い社会科学者たちだったんですが、ぼくも民族分断の単独選挙に抗った者として、「朝鮮」という総和を生きるしか方法がない。

 よく、それでお前は人間かっていう手紙を縁戚の人からもらったこともありますよ。ぼくの母の弟になる人が、日帝時に帝国大学出た何人もいないうちの一人なんですけど、お前は人でなしだと、〔韓国に〕帰ろうと思えばいつでも帰れる、私が保証する。親父やお袋が死の床に伏せっているというのに、それほどまでもアカが好きなのかと、公認会計士の叔父は会うたびになじった。ぼくは思想のために行かなかったというより、あんなことを経てきた四・三がありますから、アメリカのごり押しで出来あがった国家に帰依することはできない。では自分がずっと行きつきたかったのが今の北なのかっていうと、かつての南に負けず劣らずくらいの国に今なっている状態があって、なおさら総称の「朝鮮」に固執するわけです。決してぼくが思想が強いとか、そういうことで「朝鮮」にこだわっているんじゃなくて。これはまったく意地です。

金石範 北と南が単独国家体制になっていて、したがって北の共和国国籍とか南の大韓民国国籍とかになっているけれど、それは分断された祖国の「かけら」としての「国籍」、「片割れ」の「国籍」であって、本来的なもんじゃない。「分断の象徴」なんだ。勿論、国家体制というのがあるから、それは現実的な法的強制力をもっています。しかしそれは絶対的なもんじゃない。その現実をこえて本来的なものを求めるのがわれわれの想像力。私が「在日」をカバーする祖国統一を前提にした連邦的な準統一国家を考えるのはそのためです。私には「北」も「南」も祖国ではない。したがって「北」の「国籍も「南」の「国籍」も取得しない。統一祖国が私の祖国なんです。

金時鐘 自分で合理化できるものがあるとすれば、幸か不幸か詩をやったということでしょうかね。自分の意識を「支配」というと、物理的な気がしてぼくはいつも観念的な心情的な「差配」という言葉を使いますけどね。ぼくの意識を差配していた言葉が日本語で、自分の国の言葉は日本語を介して、プリズムが色を分けるようにして紡がれてくる。ぼくにとって「解放」とは何かというとやっぱり自分の言葉の問題ですね。だから意地があるとすれば、詩をやることであり、非人道的なことをやってできあがった国家に、今なお同調できない。ぼくは金先輩にも文京洙にもすまなく思うけど、ぼくはね、済州島好きじゃないねん、愛してるけど。(金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』編者文京洙・平凡社、2001年)

●金石範(キム・ソクボム)1925年、大阪生まれ。主な著書に、『鴉の死』、『火山島』、(大佛次郎賞、毎日芸術賞受賞)、『海の底から、地の底から』、『満月』、評論集に『転向と親日派』などがある。

●金時鐘(キム・シジョン)1929年、朝鮮・元山市生まれ。詩集に『新潟』、『猪飼野詩集』、『光州詩片』、『化石の夏』、評論集に『「在日」のはざまで』(毎日出版文化賞受賞)などがある。

●文京洙(ムン・ギョンス)1950年、東京都生まれ。現在立命館大学国際関係学部教授。主な著書に『ハングル教本』、『現代韓国への視点』(共著)、『アジアの人びとを知る本』第五巻(編著)など。

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 ここでいわれる「朝鮮」籍とは「韓国」籍に対応するものではありません。あくまでも総和としての「朝鮮」という国籍です。日本の敗戦後の四七年、外国人登録令によって、当時の「在日」はすべて国籍は「朝鮮」とされました。翌年、大韓民国が成立するに及んで韓国籍をとる人もいました。しかし五二年の講和条約発行前に、日本国は在日朝鮮人の日本国籍を剥奪したのです。以来、「日韓条約」締結まですべての朝鮮人は無国籍状態に置かれることになるのです。今日まで日本政府は北朝鮮を国家として認知していないために「朝鮮」籍は国籍とは認められていません。

 いまなお、「在日」問題はぼくたちの日常に厳として横たわっています。ことあるごとに、それは「差別」の根源にある歴史のなかの消えることも消すこともできない課題としてこの島社会の核心部に貫通しているのです。いずれ、このテーマについても稚拙な持論(自論)のようなものを書いてみたいと考えています。

 教室のなかでの解放感

「未来につながる教室―群馬県島小学校」

 《日本じゅうの数しれない小学校の、どの校長先生が、文部大臣の参観申しこみを、にべもなくことわる勇気をもっているだろうか、そして現職の堂々たるコワモテ文部大臣のかわりに、ひとりの若い作家を歓迎するだろうか?

 今日の日本の様ざまな状況に、大臣たちをおくりこんでルポルタージュさせるという企画がたてられた。はじめ文部大臣に、地方のひとつの小学校に行ってもらうことになったが、連絡をうけたその校長先生は、かたくそれをことわった。文部大臣の参観がとくに意味をもつわけでもないだろうという判断があったわけだ。そこで、ぼくはいわば文部大臣のかわりの役割をつとめることになった。(略)

 ぼくは村の国民学校で解放されていなかった、と思う。また教室は教師を鵜匠とし、子供たちを鵜とした鵜飼のようなもので、子供ひとりひとりと教師とのあいだに束縛とにたつながりはあっても子供たち同士の横の自由なつながりはなかった。その二つが両立するなど思ってもみることはできなかったものだ。横のつながりを子供仲間でつけること、それはひそひそ内緒話をすることにすぎなかった。それはむしろ教室の敵だった。

 教室のなかでの解放感、子供どうしの横のつながりが、先生との縦のつながりをさまたげるどころか、かえってそれをおしすすめるという感覚、それだけでも、もし島小学校が日本の戦後の初等教育の一般につうずるものなら、ぼくは戦争中の国民学校教育に怯えて暗い生活をおくったものとして、戦後の新教育の小学生たちを祝福したいのである。戦後の子供の世界には暗さの種がひとつだけは少ないのだから。

「未来誕生」

 これらのことは島小学校だけの独自のものというべきでないかもしれない。しかし、僕が斎藤さんと一緒に利根川を渡し舟でわたり分校に行ってみた六年生の国語の授業には、まさに島小学校の面目があった。

 分校の六年生二十人は女の先生の指導で、チエホフ作・神西清訳「カシタンカ」という三十ペエジほどの童話をよんでいる。すでにその前の時間までに、言葉の解釈とか文章の理解とかの段階は終っている。そして、この段階までがぼくらの小学生のころの国語の授業だったのだが、島小学校での真の授業は、そこからはじまるのである》(大江健三郎「未来につながる教室」)

 作家の大江健三郎さんが島小学校を訪れたのは昭和三十七年五月で、斎藤さんが島小に着任して十年が経過していました。そして斎藤さんが境町東小学校に移られたのは翌年のことでした。斎藤さんは、この大江さんの参観とルポについて書いておられます。「作家の大江健三郎氏は、昭和三十七年五月に、雑誌『文藝春秋』の企画で二日間島小学校を参観した。そして『文藝春秋』七月号に「未来につながる教室」というルポルタージュを書いた」(斎藤喜博『可能性に生きる』)

 「教室で困ってしまい考えこんでいる先生を美しく感じた体験はこれがはじめてだった」

「未来誕生」

「なぜクラスの子供たちがこのように生き生きと組織されているのか?自分の意見がのりこえられても、なぜその子供は屈辱感とともに黙りこまないのか?つねに黙ってにこにこしながら発言する子供をみまもっている、いわば陽かげの子供たちに、疎外感がないのはなぜか?」

 大江さんは数々の感嘆と驚嘆を交えてこのルポを書かれています。たくさんの教師たちが公開授業に参加していました。そのなかに明星学園の「絵の先生」がおられ、大江さんにつぎのような島小批判をされたそうです。

 「明星では授業のあいだに、先生が芸術や学問、専門の分野にすすんで自分を肥やすことができる。しかし島小学校の教師たちはモラリッシュで犠牲的な精神にみちている」

 教師はもっとエゴイスティックであるべきで、「子供のために、という考え方は古いし、このままだと島小学校の先生たちはしだいに自分を貧しくしてゆき、斉藤さんがいなくなれば永つづきはしないだろう」

 「参観の教師たちすべてが去った二日目の夕暮、子供たちが校長先生や自分たちの先生の躰にちょっとさわりにきたりしていた解放的な教員室で、斎藤さんをかこんだ先生たちとぼくはしばらく静かに話す時間をもてた。斎藤さんのいう良い教師の条件とは、頭の良い、育ちの良い、美しい教師ということだそうだが、そこに集まっているおだやかな先生たちには、確かにその印象があった。これらの島小学校の教師たちは、その全生活を教育に投入しているのだ、と斎藤さんはいった。教材を研究するために熱情をかたむけ、仲間、校長、専門家に協力をもとめ、そのうえで子供たちと格闘している教師たちなのだと。そして明星学園の先生が不安に感じたことにたいする斎藤さんの回答はじつにはっきりしていた、島小学校の先生の精神が貧困であるものか、現場で自分をつくりあげることのほかに教師になにがありえよう?」(大江)

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 ここで戦中から戦後にかけて、日本の学校教師はどのように生き抜いてきたのかという問題に逢着します。斎藤さんが言われているように、大半の教師たちは「戦争のあやまりであることを少しも知らなかった」のではなかったか。これを別の言い方で表せば、時流・時局に乗っていたということです。戦争が間違いであるということも、この戦争が無謀であるということも、ほとんどの教師にはわからなかったと思う。あまりにも深く体制のなかに入り込んでいたからです。  

 戦争中には「聖戦」に心身を捧げ、戦後になると「平和と民主主義」に命をかけた(つもりになった)のだろうと思うばかりです。それでなんの問題があるものか、という気分だったかもしれない。にもかかわらず、戦中も戦後も時局や時流に流されず、おのれの仕事に専念した教師もいたでしょう。いずれにしても、他人の言動を、後からとやかく言うことは避けます。

 斎藤さんの、まことに奇妙ですが正直でもある(と、ぼくには思われる)回想です。

 「昭和十九年になると、村にも空襲警報が出されるようになった。そのうちに銀色の美しいB29が一機、村の上空をゆうゆうと通っていくのがみえるようになった。軍部の話では、日本は力があるから敵機の一機や二機はかまわず飛ばせておくのだということだった。大本営発表も大戦果の発表ばかりだった。だから愚かな私は、ほんとうに敵機の一機や二機はかまわずにおくのだと思っていた。

 しかし年老いた私の父はそうはいわなかった。「いくさに勝っているのなら敵の飛行機がくるはずがないではないか。負けてるからくるのだ」といいきっていた。(中略)

 このことは、私にとってはのちに痛い教訓となった。田舎にいて、しかも教師という狭い世界にいて、ツンボ(ママ)桟敷におかれたということはあるが、ツンボ桟敷におかれたということは老人たちも同じである。ところがその人たちが、みごとに事実で判断していたのに、私にはそれができなかったということは、私がまだいかにも教師であったということである。教師としての思いあがりであったということである」  

 ことさらに戦時中のエピソードにふれましたが、特別の意味があるわけではありません。普段の行動が戦争中にもそのまま出ただけだということをいいたかったんです。非常時だから、非常時用の行動があるわけではない。平常時の「教室」でやっているそのままが非常事態の「教室」でも行われるのだということです。たくさんの先輩教師が戦時中にとった行動を知れば知るほど、そのようにいえるようです。それならば、ぼくたちの生きている現在は「非常時」なのか、「平常時」なのか。

 大江健三郎さんのルポは立派な教育論であり、授業論だと、ぼくはくりかえして読んできました。ここではほんの少しばかりの引用になりましたが、詳細は「未来につながる教室」を読むほかありません。「明星の先生」が出てきます。彼は高名な教師でしたが、斎藤さんは遠慮なく批判し、大江さんも同調するのです。この時期は「明星学園」がとても元気は時代でもあったのです。(蛇足 もう何十年になりますか、大江さんに来ていただき、いろいろな話を若い人といっしょに伺う機会がありました。それ以前にもなんどかお会いし、教えられたことがありました。今は昔の話です)

 ここにもまた、一枚の「教師の残映」が記録されていました。

 学校はだれのものか

 「緊急事態」だからと見逃され(許され)ているのですけれども、二月末に時のPMが「全国一斉休校」を打ち出し、なんの異議も意義も見いだせないままに、「休校状態」はいまだにつづいています。これはどういうことなんだという嫌な気が今もしているのです。(公立)小中学校は、基本的には地方自治体の設置学校です。したがって、その機能停止や改廃を決める権限も一義的には「地方公共団体(教育委員会)」にあるはずです。にもかかわらず「一斉休校」という、根拠も効果も検討も検証もされないままに打ち出された「無謀な政策」は「憲法違反」に当たるというほどの問題だとぼくには思われます。(「教育の機会均等を侵す」行為、さらには…ととれますから)

 そこまでするのは大げさだという人もいるでしょうし、休校措置は妥当であったという人もいるでしょう。「休業自粛」とは趣が異なるかもしれませんし、結果として「休校」やむなしということであっても、それをほかでもない「PM」が宣言し、それに無抵抗で島全体がしたがうとき、いったい「自治体」とはなんでしょうか。政府や中央官庁の下請け行政に甘んじていること自体が「自治権」の放棄であり、「教育権」の蹂躙だというほかないのです。三割自治と揶揄されてきましたが、そんな上等なものではなかった。無自治体というアホらしい嬌態ですね、これは。「税収権」も奪われたままです。痴方交付税という「おためごかし」でお上から「いただいている」始末です。

 いったい、学校はだれのものか。子どもが学ぶ場所、子どもを教育するところ、いや教師の職場である、とんでもない、国が発展するために作られた制度だと議論は沸騰するのかも知れません。じつに奇妙な話です。学校教育が始められてから一五〇年も経過しようというのに、いまだにこのような疑問がときとして大まじめに出されるのです。(議論されるならまだしも、今ではほとんど暗黙の裡に、国家の管轄下にあるのです)

 考えてみれば、こんな疑問は不思議でもなんでもないのかもしれません。だれかのものと決めつけようとすることこそが奇妙だといえます。ひとそれぞれに、自分の立場にたって、「学校教育」を論じようとするのですから、だれもが納得する結論がでることはないといってみたらどうか。ようするに、どのような視点から学校を見る(論じる)かが重要だといってみたくなります。

 子どもの成長や発達を願う立場からみれば、学校は子ども(その関わりでいうなら、親たち)のためのものだといえます。教師がいてこそ、子どもの成長や発達に資する教育が可能となる(そのように懇望してやまない)というなら、それは教師がいなければなりたたない組織(教師の職場)であると考えられます。しかし、子どもの成長を可能にする教師の役割を容認するにしても、けっして個々人の努力や情熱だけでは一日だって維持できないのはいうまでもありません。それがじゅぶんに達成されるためには莫大な経費や施設・設備が欠かせない。

 ここまできて、学校はけっしてだれだれのものと、一義的に所有者を特定できないことがわかります。そんなことはあたりまえだといわれそうですが、この国における学校教育がつねに問題をかかえており、ときには驚くばかりの愚劣な議論が政治の領域でなされるのをみるにつけ、学校は「俺のものだ」という我が物顔の主義主張がまかり通ってきたともいえるのです。現に、通っている。

 問題は「学校」という言葉で何が含まれているかということでしょう。建物も土地も「学校」だし、教室の仕事も、子どもの学習(教育)も「学校」に含まれます。内的・外的要素を誰かが「独り占め」することは許されないという意味で、だれのものでもないというのです。

 教育の政治的中立性とはどういうことか。いかなる党派であれ、ある種の政治権力が学校教育を、どのような方法を使おうとも、支配することをいさぎよしとしない、民主主義社会のためのひとつの原理を示すものだと考えられます。国家権力であれ、一人ひとりの教師のそれであれ、はたまた子どもや親たちの意向であれ、それらが学校教育をかたよった方向に導かないためにはこの原理をないがしろにしてはならないことを教えています。

 ではなぜ、このような原理が大きな価値をもつのか、もたされているのか。いうまでもなく、特定の権力(勢力や党派といってもいい)が学校教育を牛耳り、そのあり方をきわめていびつなかたちにゆがめてしまうことがあったからです。その具体例はあげるまでもないでしょう。学校教育をみずからの思想や教義や利益のための道具とした事例は枚挙にいとまなしです。明治以降の学校教育史とは、一面ではまさしく学校・教育が政争の具とされてきた歴史でもあったし、その流れは今日においてもまったく変わりません。はからずも今回、隠されていた問題が一瞬にしろ、表に浮上したと思われたのですが、だれも何ともいわない。

 「何か(コロナ)の事情」で「休校」せざるをえないときもあるでしょう。でもそのためにはバカが「勝手に」突然「宣言」していいことにはならない。こんなことを認めていたら、次は何をしだすか。(散々今までしてきたではないか)おのれの不法行為は一切認めないという「傍若無人」の行状を一刻も早く阻止しなければならないのではないですか。「始末に負えない」ではなく、「始末に負える」としなければ。

 奇怪で魔訶不思議な国の「オキナ」の気分にぼくはなっています。

 偶像は壊されるものだ

 山びこ学校を生きた「卒業生」の証言

 《私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです。たとえ、試験の点数が悪かろうと、頭のまわり方が少々鈍かろうと。私たち四十三名は、ほんものの勉強をさせてもらったのです。それが証拠には、今では誰一人として、「勝手だべ。」などという人はいません。人の悪口をかげでこそこそいったりする人はいません。ごまかして自分だけ徳をしようなどという人はいません。/ 私たちが中学校で習ったことは、人間の生命というものは、すばらしく大事なものだということでした。そしてそのすばらしく大事な生命も、生きて行く態度をまちがえば、さっぱりねうちのないものだということをならったのです》(佐藤籐三郎「答辞」1951年3月22日)

 《当時、われわれの間に一つの偶像が存在していたわけだね。無着先生は農村教師なんだ、農村を改革する教師なんだ、という一つの偶像だったわけだ。「無着先生は東京へ行ってもっと勉強して、地方へ帰って先生をするだろう」という考えがあったわけだね。ところが、先生自身のあれからの生き方を追求していった場合、しだいに疑問に思うようになった》《「山びこ学校に耐えられない」から飛び出したといっても間違いじゃないという気がするんですがね。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を「耐えられなかった」とはっきりいえる。やまびこ学校のああした教育の中で生きてきたんだといわれるごとに、おれは耐えることができなかった。はっきりさせ、訣別するためにおれは『25歳になりました』を書いたわけだ》(佐藤籐三郎「朝日ジャーナル」1960・3・27号)

 証言:「山びこ学校」の生徒で答辞も読んだ農民作家、佐藤藤三郎さん(掲載時、76歳)

 私たちの小学校(国民学校)には、校長と教頭と教務主任ぐらいしか正規の免許を持った先生はいませんでした。先生は軍事体制と敗戦の渦中ですぐ代わるし、教科書を墨で塗って、卒業まで本格的な教育を受ける機会はなかった。/ ところが中学に入って無着先生の型破りな授業を受けて、こんな先生もいるのかと驚きました。教科書も使わず、授業は横道にそれることが度々あり、「自分の頭で考えろ」「何でもなぜと考える人になれ」と言われ、全員が「無着イズム」にすっかりひかれた。/ 子どもと一緒に無我夢中で生活したいわゆる熱血先生で、バランスに欠けていたことも事実ですが、それ以上のものもあった。中学卒業後、私は定時制高校に進みましたが、英単語を覚えるとか、漢字を書くとか、そういう学力を高める教育は受けてないことに気付き迷いました。知識の量には他の生徒と大きな差があった。確かに「なぜ」と考えるのはすべての学問の基本ですし、社会に疑問を抱くことも、書くことも大切だと今も思います。

 でも、自分たちの生活を見つめるあの教育だけでは結局、世の中の経済第一主義には勝てなかった。村でいくら頑張っても生活は豊かにならず、過疎化の流れに勝てなかった。母校の閉校は、寂しいなんてもんじゃない。過疎を導いた社会への怒りですね。(朝日DIGITAL・12/04/23)

*佐藤藤三郎(1935年生まれ) 昭和後期-平成時代の農民,評論家。昭和10年10月26日生まれ。山形県山元中学で無着成恭(むちゃく-せいきょう)に教えをうけ,昭和26年文集「山びこ学校」に生活記録がのる。上山(かみのやま)農高定時制に在学中,農民詩を発表。以後,農業のかたわら著作活動をつづける。上山市教育委員,上山市農協理事。著作に「底流からの証言」「まぼろしの村」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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《東京へでてきてからのぼくは、〈無着はにげだしたのだ〉とか、〈無着は退歩した〉とか、〈なにもやっていない〉とか、もっとひどいものになると、〈無着は有名になるために『山びこ学校』をつくったのだ〉とか、〈無着は『山びこ学校』をふみ台にしただけだ〉などというひなんめいたことばをきかされつづけてきました。そのようなときでも、そういうことばになるべく耳をかさずに、「ほんものの教育とはなにか」という問題を考えるように努力してきました。その結果のひとつがこの本です。

 この本には『続・山びこ学校』という名まえをつけました。それはなぜかといえば、この本も、まえの本も教師としての無着成恭が自分の教育理念を主張するために編集したものだからです。つまり、この本にも、まえの本にも無着成恭がいるという意味で、しかし、『山びこ学校』からはじまって『続・山びこ学校』にいたるまでのあいだ、教師としてのぼくはおおきな変革をしいられてきました。しかたのないことだったのです。ここのところだけは、読者のみなさんにぜひとも語っておきたいのです。

 『山びこ学校』は、戦前にはじまった生活つづり方運動が、戦後の解放的なムードのなかで、いっきょに開花したものであるとか、戦後民主主義教育のピークであるとか、文学としてもよむにたえるものであるとか、さまざまに評価されてきました。いずれも一面の真理をついていて、ぼくはこのような評価を否定しはしません。だが、教師としてのぼく自身はこの『山びこ学校』を戦後の生活経験主義的な教育の所産であるとみています。

 …ぼくは、「社会科でもとめているような、ほんものの生活態度を発見させる、一つの手がかりをつづり方にもとめて」子どもに作文をかかせたのでした。つまり、子どもたちが自分の、そして自分をとりまく人びとの生活を観察し、考えあって、行動までに発展させていくための素材として作文をつくらせたのでした。

 ぼくは社会科は、すべての子どもが自分たちの生活をただしく認識するためであり、生活をただしく認識すれば、そのさきはおのずから問題解決の方向がでてくるはずだという仮説のもとにおこなわれたわけです》(無着成恭編『続・山びこ学校』麦書房、1970年)

 1954年4月、無着さんは山元村を出て、上京。駒沢大学仏教学部に編入学します。(生家は禅宗の沢泉寺)1956年3月、明星学園において、彼は寒川さん(道夫。1910-1977)(生活綴り方を実践した教師、この人についてもいずれは駄文を書く予定)に出逢う。その時の明星学園校長は照井猪一郎という、秋田出身の人でした。

 1970年、明星学園小学校長を最後に寒川さんは退職。1977年病気のために亡くなられました。その後、無着さんは同学園小中学校の教頭となり、遠藤豊校長と「明星教育」をつづけますが、1983年には相次いで辞職(追放というべきか)。遠藤さんは「自由の森学園」を作り校長となる。無着さんは教師を辞め、僧侶生活に入ります。(無着氏のその後については、別のところで書いています。機会を設けてさらに「山びこ学校」に関する駄文を書く予定です)

*(明星学園=大正13年5月15日、成城学園の教師であった、赤井米吉・照井猪一郎・照井げん・山本徳行の4人によって、井の頭の地に創立された。昭和3年4月5日、上田八一郎を初代校長として迎え入れ、旧制中学校を設立、併せて旧制高等女学校を設立する。昭和22年4月、学制改革により、新制中学校、高等学校に改組し、小学校・中学校・高等学校からなる、12年一貫体制を築き今日に至っている)(同学園の旧HPより)(https://www.myojogakuen.ed.jp/about/history

 失敗をおそれず、自分で判断を

 何度でもくりかえしたいとぼくは考えているのですが、いったい自分はどういう人間であり、どんな人間になろうとしているのか、それをまずこころの根っこにすえておく必要があると思うのです。そのうえで、ぼくたちはどんな時代、どんな集団や社会に生きているのかという状況判断をつねにていねいに点検することが求められます。そのさきに、どんな「国家」にぼくたちは囲繞されているのかという課題に直面するはずです。

 初めに国があるというのはまずいんじゃないですか。ぼくたちは国家に生まれてくるのではないし、ましてその国家のために生き死にするのだという虚構を見据えなければ、自分の座るべき位置がいとも簡単に覆されてしまうでしょう。まず自分です。この「自分」を育てるのが生活における大半の仕事になるともいえるのです。以下に引用するのは、すでに紹介したものですが、なんどでも吟味する値打ちがあると同時に、そうする必要があると考えるのです。

 《私たちは、両親や小学校の先生から「注意しなさい」(ペイ・アテンション)と言われて育つ。子供の頃より、この同じ言葉を強くあるいは優しく命じられながら、大人になっていく。やがては慣れて聞き流すようになるかもしれない。だが、人生においてこれは非常に大事なことである。なぜなら、注意を払うとは、心のエネルギーをどう使うかということであり、このエネルギーの使い方の如何が、自らをどのような自己へと育てるのか、どのような人間になることを学ぶのかを決めるからである。何かに一生懸命に注意を払っているとき、本気で取り組んでいるとき、私たちは、知性、感情、道徳的意識のすべてを動員している。仕事でも、遊びでも、大事な人との交わりにおいても、同じことが起きている。このとき、私たちは、行っていること自体に没頭しているので、自分のことは忘れている。それは楽しいひとときであるかもしれないが、私たちがそれを行うのは、楽しさを求めてではなく、それが広い生の文脈において自分がほんとうにしたいことだからである。つまりそれには「意味が感じられる」。自分という意識は極小になる。しかも、その目的は楽しみにひたることではない。にもかかわらず、私たちが真に幸せに感じるのは、こういうときである》(ベラー他『善い社会』既出)

R.Bellah

 現下に生じている「パンデミック」問題について、さまざまな意見や論評がなされていますが、あまりにも科学や疫学(医学)の内容にかかわるもので、ほとんどはそれを受け入れる準備がない。一方的に流される報道に惑わされ、当局から出される指示などに従うほかないという事態になってしまう。だが、行政や政府から流される「情報」は当事者の発信にもかかわらず、その真偽はまず疑わしい、というよりは、なお誰かの「受け売り」だとぼくたちは考える。言わされているのか、言われたままを流しているのか。

 《私たちは専門家や専門的意見を必要としている。…専門家の意見をどう評価するかを学ぶというのは、市民教育の基本である。…ともかく、専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない。さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである。この点において、家庭や地域共同体のなかで注意を払うことを身につけた市民は、それを一般化して、より広い問題に適用することができる。家庭が民主主義の学校であり、学校が民主的な共同体であるとき、こうした知恵は、すでに学ばれたということである》(同上)

 残念ながらこの指摘に関して、ぼくたちはまだまだ、その道筋の端緒にもついていない状況にある。「専門家」がこもごも、勝手なというか、自己の思い込み(持論)を言っているとしか考えられないようなことが多すぎるし、また「そうかな」と疑問を持つにもかかわらずほとんどが同じ議論のくりかえしに遭遇する。素人目で、奇妙なことを言っているなといいたくなることが多すぎる。こまかいことは言わないが、「外出自粛」が要請され、たしかに「混雑」が見られなくなったように見えるのに「なぜ、感染者数が減じないのか」、「感染者を特定する検査数がどうして増えない(ふやさない)のか」「全国一斉休校の結果はどうであったのか」等々。データもなければ、検証結果も知らされない。これでは何をどうするかという判断材料は皆無だから、当局の指示・命令に従えばいいのだと、ぼくは諾々と受けることはできないのです。大量の情報には「真偽」がいりまじり、専門家の意見には議論の余地もある。そんなとき、ぼくたちはどうすればいいのか。「当面(当分の間じゃなく)の間」が感染状態です。

 ぼくはただいまの「困難な事態」にあって、何よりも指摘したいのは「マスゴミ」報道には気をつけよう、しっかりと「眉につば」をつけておこう、可能ならば、一切黙殺するのも手であろうという姿勢をとるという点です。「マスゴミ封鎖」です。ほとんどが権力(当局)側の広報・宣伝媒体じゃないかとさえ思われる。さもなければ、反(半)体制の立場でしか報じないという偏狭さ。言われるままか、何でも反対か。「中立」はないのは当然で、ありたいのは「中庸」なんです。揺れながら、迷いながらの手探り状態をしばらくはつづける。そのあたり(揺れ揺れ状態)から、始めたい。  

 さらに重要なのは、以下の視点です。

 《責任をもって行動するためには、何が起きているのか、何が私たちの応答(レスポンド)を求めているのかを問わなければならない。神学者のR.H.ニーバーは、著書『責任を負う自己』のなかで次のように論じている。…たいていの場合、私たちは、自分にたいして起こされた出来事を漠然と受け入れるか、周囲の出来事には関わるまいとするかのどちらかの行動をとる。しかし、私たちは、出来事を「解釈」しなければならない。とくに、ここで自分と関わりのある他人が何を考えているのか、その意図を解釈しなければならない。「応答」「解釈」に次ぐ三つ目の要素は、自分の行為が他人に及ぼす働きである。ニーバーはこれを「アカウンタビリティ」と呼んでいる。ところで、私たちが何か行為を起こすとき、たいていそれは、自分とそれまで連続した関係を全然もっていなかった人間や物と、そのときだけ出会って終わりというようなものではない。その文脈はたいていパターン化されたものであり、そこには「社会的連帯」の要素もある》(同上)

 他国では「都市封鎖」「ロックダウン」「外出禁止」などという強制・強硬措置が実施され、「違反」には罰則がともなう。ひるがえって、この社会では「自粛」がお上から「要請」され、やがてそれは「自己規制」に広がり「他者監視」に移行する。「コロナ」は「怖くない」、「正しく恐れよ」といわれて、たかをくくっていた。「五輪開催は既定路線」とまで「コロナ」はなめられていた。だが、一向に事態は改善せず、他国では猛烈な勢いで状況が悪化しているニュースが流されてきた。「五輪開催は無理」と他国からいわれだしたとたんに、「延期(来年も無理じゃ)決定」。その瞬間に「ウイルス」が「蔓延」しだした、これはほんとですか。だれかの作為が働いているんじゃないですか。各国で死屍累々の惨状で、「体育の祭典」もないでしょう。IOCという金と名誉の亡者集団は即解散とはいくまいが。

 他人に指摘されるまでもなく、ぼくは「偏見」から自由ではなく、「偏見」によって生きるほかないと自覚している。でも、どこまでもその「偏見」から解放される「知識」をさがし求めるという「姿勢」、これを貫くことは至難の業ですが、それを中断するわけにはいかないとも考えている。でなければ、この「社会」は「国家」に浸食されるに任せ、いつまでたっても特権(政・官・財)が幅をきかし、人権は危機の淵に置かれつづける。現状はまさにその典型例です。ぼくたちはどんな自治体=社会にしたいんですか。(一億が構成する「自治体」なんて想像すらできない)「そんな面倒なもの(公共)はいらないよ、いきなり国家でいいじゃん」「命令して(マスク・十万円)くれるものが必要なんだ」「動くより、動かされたいのが人間なんだよ」というのが当節の風潮なんですか。

固定は安定

 「われわれは、怠け者なので、固定というものを常に求めてるんです。固定がほしいんです」(鶴見俊輔)

 偏見を持たないことはすばらしいが、それは「人間の分際」では、まずありえない。まちがう危険性をおそれずに、自分流の「判断」をくりかえし下すこと、「試行錯誤」から何が生まれるのか、この「まちがいながら」の態度がぼくたちに求められています。「自分の」「自分で」判断を!「まちがえたっていいじゃないか、人間だもの」(みつを?)

 「さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである」