平時も緊急時も「虐待」はつづく

 〇児童虐待:乳児を殴って死なせた父親に懲役3年 盛岡地裁

 生後4カ月の長女を殴って死なせたとして、傷害致死の罪に問われた岩手県雫石町板橋、会社員、高橋拓也被告(23)に対する判決公判が15日、盛岡地裁であった。卯木誠裁判長は「親としての自覚に著しく欠ける」と厳しく指摘し、懲役3年(求刑・懲役5年)の判決を言い渡した。

 判決によると、高橋被告は昨年12月16日午後9時ごろ、当時住んでいた盛岡市内のアパートで、年賀状の写真用に桃々(るる)ちゃんと長男(1)を撮影しようとしたが、桃々ちゃんがぐずって思い通りに撮れなかったことに腹を立て、頭を拳で2回殴った。桃々ちゃんは頭の骨を折り、約1カ月後に脳の機能障害で死亡した。

 高橋被告は事件の1カ月半前から、あざができるまで桃々ちゃんの顔や背中をたたくことがあったという。【苅田伸宏】(毎日新聞・2004年6月15日)

 〇虐待?一家の子供5人保護、4人栄養失調…東京・町田

 東京都八王子児童相談所は23日午後、町田市で子ども5人が、両親から虐待を受けている疑いがあるとして、児童福祉法と児童虐待防止法に基づいて一時保護した。4人は栄養失調の状態で入院、うち2人は歩行が困難なほど衰弱しているという。

 同相談所は病院での検査を待ち、父親(52)と母親(38)の告発も検討する。

 保護されたのは小学校3年と2年、6歳、4歳、1歳6か月の男児2人と女児3人で、1歳6か月の乳児を除き4人が入院した。4人は食べ物を十分に与えられていなかったとみられ、小学校3年と2年の子どもはほとんど小学校に通ったことがないという。

 同相談所は2002年12月、児童が学校に来ないと小学校から通報を受けて、調査を始めたが、両親に面談を拒否され、子どもたちの状況を把握できないまま、一家は昨年、同市内で引っ越しをしてしまった。同相談所は行方を捜していたが、今年3月、市民から「近くに住む子どもたちが虐待を受けている」との通報があり、この家族と分かったことから、警視庁町田署員とともに子どもたちの安否確認の立ち入り調査を実施し、一時保護に踏み切った。(読売新聞)(2004年6月24日)

 今年度版「青少年白書」が公表されました。詳細は別の機会に譲りますが、それに関する報道がありましたので、以下に掲載しておきます。

 〇児童虐待相談、困難な事例増加=関係機関の連携不十分-青少年白書

 小野清子青少年育成担当相は22日午前の閣議で、2004年版「青少年の現状と施策」(青少年白書)を報告した。それによると、02年度に全国の児童相談所に寄せられた児童虐待に関する相談件数は2万3738件と前年度に比べ、微増していることが分かった。児童虐待防止法が2000年に施行された後、急増していた相談件数の伸びがようやく鈍る結果となったが、白書は「質的にも困難な事例が増加してきている」と指摘。関係機関が「十分に対応し切れていない」と厳しい認識を表明している。 

 相談の内訳では、身体的虐待が46.1%で最も多く、育児などの怠慢・拒否37.7%、心理的虐待12.8%、性的虐待3.5%と続いた。被害者を年齢別に見ると、零歳から小学校入学前の乳幼児が半数を占めた。

 白書は今年1月、大阪府岸和田市で中学3年生が餓死寸前で保護された事件にも言及。予防から早期発見、保護、アフターケアまで、児童相談所や福祉施設などの連携による切れ目のない施策を求めている。

 相談件数は、同法施行前の99年度は1万1631件だったが、01年度は2万3274件とこの2年間で倍増していた。(了)(時事通信)[6月22日10時31分更新]

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 現在、劣島全体に「緊急事態宣言」なるものが発令中。警戒警報のようですが、強風や豪雨、あるいは台風のそれとはちがい、人間であることをいくばくか制限されて、ひたすら「蟄居」(「自粛」ともいう)を余儀なくされている状態にあります。かかるとき、「Stay Home 週間」とだれがひねり出したのか、ぼくにとっては不快な「合言葉」で、上を下への大混乱、でもないか。(みずからの状況判断の重大な誤りを誤魔化す、目くらまし作戦でしかないよ、罪深いね痴事さん)「旗」「ことば」「符丁」がこんな時期にはきっと出されます。「旗の下に」全員集合と鼓吹し、それに背を向けると白や黒の目が射抜かんばかりに攻撃してくる。例外は許さないというのは、まことにいやな風潮。安っぽいコンクリートのように、固まるんですね、緩むのも早いかも。

 自粛で自宅に、だから「DV」が増加し、児童虐待が増加する。ホントか。常時「暴力」は生じているから、「今でも」起こっているのでしょう。暴力(虐待)は物理的な力ばかりではない。嘘も改竄も、捏造も汚職も、「汚いマスク配布」も、突然の「全国休校」も、ぼくに言わせれば、立派な「暴力」ですよ。人民に対する暴力、人民への虐待ですね。人民を無知と決め込んで好き放題のタカリ根性こそが「暴力」であり「虐待」じゃないですか。「自宅待機」も虐待そのもの。ここには「誠実さ」が微塵もみられない。普段から「不誠実」である証拠だね。

 政府も行政も「自分のいのちは、自分で守れ」といいいたいのなら、もっとはっきりと「宣言」すべきですね。「我々は何もしない」「我々は自分のいのちは自分で守る」から、「人民諸君も、ね」と。見殺しにされないように。ぼくたちはどこまでも、注意深くありたいですね。

 ぼくは「政治家や官僚」なんかに聖人君子であることを求めない。そりゃ、無体というもの。まるで太陽が西から出るのを求めるようで、地球が消滅しても、それはあり得ないからだ。無理は言わない。ちょっとした「当たり前の感受性」をわきまえてくれというばかり。「ホシノゲン」とのバカコラボもボーリョクだった。

 《首相は24日の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、学校休校や外出自粛によって児童虐待やDV(ドメスティックバイオレンス)被害のリスクが高まっているとして、防止策を強化する考えを明らかにした。/ 首相は「家庭内での暴力の根絶や被害者支援に向けて、政府を挙げて取り組みを強化していく必要がある」と強調。児童虐待に関しては、地域のネットワークを総動員し、子どもや家庭の状況を定期的に把握すると説明した》(時事・20/4/24)

 「あんたに言われたくない」という気分がわくばかり。「政府を挙げて取り組みを強化」するから、まちがえるんだ。また「マスク」でも配ろうというのかしら。「イチハヤク」はだれに言うのか。(「君にこそ、いいたいね」)

 男の法と女の生と

 原理というものは、現実なくしては存在しえません。一見、特定の社会現象の痕跡を完全に消し去ろうと努力したかにみえる、もっとも高度な抽象性を備えた法律上の概念も、実は社会生活のなかから生まれています。それは特定のグループ間の交渉のなかから、我が身の安泰に疑いを抱かない支配階級の思い上がりのなかから、現実の残虐行為の傷を通して、声なき、疎外された人々の犠牲によって、権力なき人々の ー たいていの場合は妥協による、しばしば多大の犠牲を伴う ー 勝利として、生まれているのです。

 法は三段論法式に否応なく誕生するわけではありません。それは支配と支配に対する挑戦という社会的論理に駆りたてられ、変化と変化に対する抵抗との相互作用によって練りあげられます。法の生命は経験であって、論理ではないという事実はコモン・ローに限ったことではありません。すべての法の陰には人間の、もしあなたが注意深く読めば、その血が行間に流れていることがわかる人間の物語が隠されています。条文が条文を生むのではありません。人間の生活が条文を生むのです。問題の核心は ー 政治と歴史の問題、つまり法の問題の核心は ー だれの経験がどの法のもとになっているかにあります。(キャサリン・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」既出)

 マッキノンはミシガン大学の法学の教授であり、もっともラディカルなフェミニストとしても知られています。日本にも何度か来日しています。(文末に略歴を出しておきました)

 「問題の核心は…だれの経験がどの法のもととなっているかにあります」もっと直接的にいえば、男性の権利や人権が語られるとき、それはまちがいなく女性を排除したままでなされるという意味です。人類の半分を占める女性が不在のままで「人間とはなにか」とか「権利とはなにか」とかが規定されているのが現実だということでもあります。これはこの島社会にも明確に見て取れる「法の性格」です。今日の国会の勢力分布や男・女議員比の状況を見れば、どんなに目をふさいでいたとしても、成立した法律がいかに偏頗なものであるかが分かろうというものです。この数年に起こった、一連の「安保法制」制定過程に限られないことです。

 「人類の半分を形成する人々の尊厳、不可侵性、安全、生命などへの制度的、組織的侵害に対して適用されない人権の原理を認めるということは、いったいどういうことなのでしょうか。それは他者の尊厳を侵害することによって自分たちの尊厳を守り、他者の不可侵性を侵害することで自分たちの不可侵性を保ち、他者の安全を侵害することによって自分たちが安全になることなのです」とマッキノンはいいます。「だれの経験がどの法のもとになっているか」

 人権を考える視点をどこにすえるか。けっして簡単な話じゃないことだけは確からしい。私たちに求められているのは、これまでの人権観念ーそれはマッキノンによれば、男中心の、男だけが人間であると自己認識した、きわめて偏った人権論でしたーをベースにした平等論や公平論の拡大や強化などではなく、あらたな人権文化にむけての決然とした一歩を踏み出すことではないでしょうか。新たな医療技術の展開によって、これまで人類が経験したことのない生命の新段階ーたとえば、生殖補助医療がもたらした人工授精、代理母出産、出生前診断とそれによる「生命の選別」などーを迎えた今、わたしたちはまったく生命や人権に係わる未知の領域に一歩を進めてしまったと言わざるを得ないからです。

〇 Catharine A. MacKinnon 弁護士,法学者 ミシガン大学ロースクール教授 米国

・生年月日1946年10月7日 専門フェミニズム

・学歴スミス大学〔1969年〕卒,エール大学ロースクール〔1977年〕卒

・経歴エール大学ロースクール在学中から弁護活動、立法活動などフェミニストとして実践に携わりつつ、社会変革のための理論構築作業を続ける。1979年の著書「働く女性のセクシュアル・ハラスメント」で、職場での性的嫌がらせ(セクシャル・ハラスメント)は公民権法で禁止される雇用上の性差別に当たると主張し、一躍フェミニズム法学の旗手となった。’89年ミシガン大学ロースクール教授。また、ボスニア・ヘルツェゴビナで集団強姦された女性を支援し、代理人として裁判を提起するなど弁護士として法廷で活躍。他の著書に「フェミニズムと表現の自由」(’87年)、「フェミニストによる国家論をめざして」(’89年)、「ポルノグラフィと性差別」(’88年)、「ポルノグラフィ―『平等権』と『表現の自由』の間で」(’93年)がある。(出典・日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」)

 人間らしく生きるって…

 《人権が語義どおり「人」の権利であることが、なにより問題なのである。身分への帰属でなく、人一般としての個人ゆえに権利の主体とされるようになったこと、そのことに、人権の近代性がある。(中略)

 「人間の尊厳」というふうに、はなしを緩(ゆる)やかに一般化すれば、おそらくすべての文化が、それに同意するだろう。しかし、何をもって「人間らしく生きる」生き方と考えるかで、ふたたび態度が分かれるはずである。神の求めや共同体の利益に身をささげることこそが、「人間らしさ」の完成と考える文化もあるだろう。もっと身近なところでいえば、「こと挙げせず」「まわりと溶けあって」「持ちつ持たれつ」やってゆくくらしの方が、自分自身のものの考えや心情にこだわって生きるより「人間らしい」と考える人は、少なくないはずである。いずれにしても、そうした文化からすれば、「人」権は、自分たちの文化的アイデンティティをこわすもの、呼び方によっては「エスニシティ殺し」(ethnocide)にほかならないだろう。こうして、「相違への権利」が主張される。ただし、その「相違」は、西洋中心主義に対するかぎりで主張されるのであって、自分自身の共同体内部での「相違」は、端的に禁止されることが多いのだが。

 いま、私たちはもはや、単純に西洋近代をモデルとして想定された普遍主義の立場をとることはできない。しかしまた、単純な文化相対主義に助けを求めることもできない》(樋口陽一『一語の辞典 人権』三省堂刊。1996年)

 「人権思想」とは「西洋中心主義」の人権(男の優越)思想であるといっていいでしょう。文化や文明の程度を測る尺度は無数にある―という意味は、ほとんどないということでもありますね―そのようにぼくは考えてきました。

 何かが進んでいる・遅れている、あるいは優れている・劣っているなどといったところで、それは一定の尺度で測らなければいえないことです。1メートルは100センチという共通の尺度でしか、長短が測れないのと同じことです。車が何万台あるから進んでいるというのは寝言みたいなもので、それだけのこと、見方を変えれば、車を所有しないことはきわめて先進的かもしれませんでしょ。

 人権論にも同じような状況が見られます。意味がわからないからこそ「般若心経」がありがたいと人は感じるんでしょうか。「人権」の意味や価値がなんであるか、あまりうるさく詮索しないで、わからないなりにありがたいということになっていないかどうか。「鰯の頭も信心から」という俚諺(俗信)がありました。「人権尊重も信心から」なら、「人権蹂躙も信心から」であるとすれば、さてどうしますか。「鰯の頭」の類があまりにも多すぎやしませんか。学歴重視や学歴信仰などはその代表格か。

 男の人権、女の人権、老人の人権、子どもの人権、…と人権の範囲が広がってきました。そして、人間の人権から、犬や猫の人権、魚の人権、ゴキブリやウィルスの人権…。際限のない「人権の海」の深みにはまることで、「人権」思想があまりにも「人間中心主義(エゴイズム)」である(あった)ことに気づかされるのは大切なことだと思います。

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 《しかしながら、人間対動物の区別は、人間の規範としての私たちが、自分たちを境界線上にある人たちから区別する三つの方法の一つにすぎません。二番目の方法は、大人と子供の区別を持ち出すことです。無知で迷信深い人々は子供と同じだ、と私たちはいいます。彼らは適切な教育を施されてはじめて真の人間性を獲得します。もし彼らにそのような教育を消化吸収する能力がなさそうなら、それは私たちのような教育によって進歩しうる人間とは違う種類の人間だという証拠です。アメリカや南アフリカの白人の意識のなかでは黒人は子供と同じなのです。だから黒人男性はどんな年齢層でも「ボーイ」と呼ばれました。(男に対して)女性はいつまでたっても子供っぽい、と男性はいいます。だから女性の教育などに金をかけず、その社会的進出の道を閉ざすのは当然なのだ、と。

 しかし、女性に関しては、真の人間の範疇から彼女たちを除外するもっと簡単なやり方があります。たとえば、「マン」という言葉を「人間」という言葉と同義語として使うのです。フェミニストたちが指摘しているように、そのような言葉遣いは、平均的な男性の女に生まれなくてよかったという気持ち、同時に究極的な格下げである「女性化」に対する恐怖を助長します》(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)

 ここに伺われるのは「男中心」に地球、いや宇宙は動いているのだという傲岸不遜なマッチョ主義(macho model)に対する、ローティの嫌悪です。「人権」観念やそれが機能する「原理」は男社会にあって、男が固持していた権力や権威を、絹のハンカチに包んでカモフラージュした代物なんです。男並みになるというのは、だから根拠もなにもない話だと言いたいね。

*Richard McKay Rorty(1931-2007)アメリカの哲学者。『哲学と自然の鏡』『偶然性・アイロニー・連帯』『文化政治としての哲学』など。

 「(男並みに)女に人権を」とか、「(大人並みに)子どもに人権を」とか、「(人間並みに)動物に〇権を」というのは時代遅れ、いやどうしようもない偏見にまみれているのだと思うんです。「男=人間」中心主義に、です。あるいは「男根ーロゴス中心主義」(ジャック・デリダ)という偏見に、です。  

 ここまできて、さてどのようにして「ぼくたち」は(「わたしたち」、と言い換えるべきですか)新たな「人権文化」の第一歩を踏み出しますか。

 男と女の世界はいま…

 …ひとが男であるか、それとも女であるかということは、人が雄性であるか、それとも雌性であるかということとは、まったく別のことなのである。ジェンダーとは、いうなれば、ひとが四角形であるか円であるかのどちらかを意味するようなものであるが、これとちがって性役割というのは、他の種々な役割がその上に作られる土台に似ている。たとえば人によっては、自分の皮膚が、あたかも女性用または男性用の下着として選べるものであるかのように、それを身体につけて、外皮と可塑性をそなえた自分自身を皮下に感じる人がいる。また人によっては、自分の性役割を、両親からジェンダー不在の性の衝動を押しつけられたコルセットのようなものとみなす。これこそ、自分たちがユニフォームやドレスをその上に重ねて、それを変えたり、時として捨てたりすることのできる土台にほかならないというわけだ。ヴァナキュラーなものとして、ひとは生まれ、そして育って、男となり女となる。これにたいし性役割は、後天的に獲得されたものである。〈割り当てられた〉性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。(イリイチ『ジェンダー 男と女の世界』)

(*vernacular 【@】バーナキュラー、【変化】《複》vernaculars.【形】(言語が)自国の、自国語の、その土地特有の、自国語で表された[書かれた]、現地語で表された[書かれた]【名】土地の言葉、方言 1.その土地特有の,(言語が)自国の,自国語(現地語)で表された, 2.母国語(one’s native language))

 ジェンダー論は、一時の勢いを失ったように見えますが、時にはかなり活発に、あるいは異常に興奮した雰囲気の中で議論されることもあるようです。イリイチの本は1982年に書かれたもので、このテーマに関しては比較的早い段階の登場でした。そんなことよりも、彼がとらえようとした「ジェンダー」が独特の理解に基づいているということのほうが、ぼくにとっては興味を引くところです。カギになるのは「ヴァナキュラー」という概念ですね。

 通常は「生物学的性別・性差」をセックス(sex)とするのに対して、社会的・文化的な脈絡のなかで「作られた性別・性差」をジェンダー(gender)と理解しています。それ自体はとりたててどうということのない話で、問題はその先にあることになります。ジェンダー論もけっして一筋縄ではいかないようです。

 刊行時にも大いに誤解され、あるいは批判されたイリイチの『ジェンダー』をいま改めて読みなおすのはいかがでしょうか。けっして無意味じゃないどころか、むしろ人間の社会史・生活史において「男と女」はどのような関係を結んできたのか、これからいかなる関係を結ぶことになるのかを再考するいい機会だと思うほどです。

 「ジェンダーとは実体=実在的なものである。この概念は、経済的中性者としてのセックスには当てはまらない。中性者の視座からすると、性(セックス)は、二次的な一属性、一個人の特性、人間的存在の形容的=非実在的特性、である」

 「たいていの人は、性役割を変更のしにくいものと考えている。だから女性は、自分たちが性役割を抑圧的なかたちで押しつけられているものと心得ている。だがそれを好もうと好むまいと、ある性役割をもつということはーそれが受けいれられたものであれ強制されたものであれー、あるジェンダーに所属するということ以外の何かを意味するのである」(同上)

 さらに腰を据えて、このジェンダー論を考察する必要がありますが、残念ながら、ぼくには少しばかり時間が足りません。この季節は「タケノコ」の収穫?期で、老齢にはなかなか骨折りです。すでに何日かはそれに充てたりしたのですが、まだまだ残されています。つまりは竹藪の整理をしておかなければ後で大変な目に合うというのです。また、雨が降る、やたらに成長する。少しでも手間を省くと雑草のなかに拙宅は囲まれて、あるいは埋まってしまう。という具合で、時には「竹取の翁」であり、また時には「草刈りマサオ」の役割がぼくに課せられます。これは「ジェンダー」か、男だからしなければと、思われているのか。

*https://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/news/2018/9/definition-gender

「ジェンダー(Gender):ジェンダーとは、男性・女性であることに基づき定められた社会的属性や機会、女性と男性、女児と男児の間における関係性、さらに女性間、男性間における相互関係を意味します。こういった社会的属性や機会、関係性は社会的に構築され、社会化される過程(socialization process)において学習されるものです。これらは時代や背景に特有であり、変化しうるものです。

また、ジェンダーは一定の背景において女性・または男性として期待され、許容され、評価されることを決定します。殆どの社会では、課せられる責任や負うべき活動、資金・資源へのアクセスと支配、意思決定の機会において、女性と男性の間に違いや不平等が存在します。ジェンダーはより広範な社会・文化的背景の一部でもあります。社会・文化を分析する上で(ジェンダー以外の)他の重要な基準として、階級や人種、貧困レベル、民族や年齢などがあります」(UNWOMEN 日本事務所の HPより)

 学校にゆかないのに、莫迦か

 今の教育は、旧教育の反動的大勢からその手段方法の上には完全に近いまでに改革されつつある。学校教育あって以来、かくも児童の生活が重大視され愛護されたことはあるまいとさえ思われる。然しながら一歩を深く考察する時は、いかに完全な大仕掛な設備で愛し護られているにしても、畢竟児童は現代文明の奴隷として仕立てあげられているものに過ぎない。

 全てにわたって児童の環境(教育資料)に対して無批判である。様々な教育方法の優劣を証するものは、その実験の結果であり、その実験の結果の優劣は唯いかに児童が現代文明の奴隷として、大人でさえも驚くばかりに彼等がよく仕上げられたかに過ぎない。

 「教育とは過去の文化を伝達することなり」を嫌がった処で、まるで違った進んだらしい方法で装ったりしても事実は依然としてやっと伝達である。かくの如き教育にどうして現代資本主義的文明の生活を改造する様な人間の育成が期待されよう。資本主義的文明の奴隷として仕立てられた人間が創造するものはやっぱり資本主義的文明の繰り返しにすぎない。これではいつまでたっても人は学校へゆかない事をむしろ得意にし、「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦(バカ)なのか」という反語がいつまでも生きるであろう。 (上田庄三郎『大地に立つ教育』著作集①国土社刊。1978年) 

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 この著作(「大地に立つ教育」)が出版されたのは昭和十三(1938)年でした。時に、日中戦争の最中のこと。上田庄三郎。今ではよほども物好きでなければ「忘れられた日本人」です。高知の幡多郡出身の小学校教師であり、その後には教育批評家として先鋭な論陣を張った方です。

 彼の教育論、土の教育論とは「労働・教育」論でもありました。(これは、すでに触れたことでありますが、現在の平凡社の創立者である下中弥三郎さんの教育論にも通じるところです。また下中さんはこの島で最初の教師の労働組合「啓明会」を立ち上げた人ですが、上田さんはそれを土佐において積極的に支える活動をしたのでした)

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 「高等科の生徒とともに、村の土運びを請負いでやったこともあった。労働の間に子供たちとともに、土にまみれた手で、駄菓子を食べたり、お茶を飲んだりする間に、教案にも細目にも書かれていない、真の人間教育が行われるように思った。いっしょに働くという生活態度の中でのみ、行いの教育は実現される。教師と児童の対立では、教育はできない。教師と児童とが、より高いものの前にならんだ時、はじめて教育的関係がなりたつのである。労働という行いの前に、師弟がたちならぶ時、教科書の前に師弟が立ちならぶ時、はじめて教育的関係が成立つ。自分はすでに完成された教師であるぞというような自覚ができればもう、教師ではなくて、教育政治家になったのである。青年教師時代には、それがなかった。子供との近似生が多分にあり、特に労働の前にならんだ時は、教師などはまったく子供の労働者にすぎない。自ら水に入はいってはじめて水泳の授業ができるのである。子供の野性の中にとびこむことのできるのが、青年教師の強みである」(同上)

 上田さんの父親は「木挽(こびき)」(木材をのこぎりでひいて用材に仕立てること。また、それを職業とする人)(デジタル大辞泉)だった。彼は小学校を終えると深い山に入り、父の仕事を手伝った。教師の支援で上級学校に進みんだが、師範学校在学中も休暇になると、炭焼きをしていた。彼にとっては生活そのものが労働だった。まさしく「野性味」にあふれた時代を生きていたのです。だから、この「野性味」を奪われてしまったら、青年教師にはなにが残るというのか、それが上田さんの出発地点でした。

ミレー「木挽き」

 土に生き、自然とともに生きる教育、それはどんな教育だったか。

 「入学試験と云う四字(死字だ)の前に青息吐息で子供を苦しめて教育と称し愛と称しているのが唯今の都会地の親と教師だ。親は一番二番という囚人宜しき成績順番という虚名にありつきたい為に、教師は入学率という学校の虚名の為にだ。そうしてそれ等虚名の為には本尊たる子供は神経衰弱になろうと、肋膜になろうとてんで頓着しない狂態である。どうしてそんなに一番二番があり難いのか。仮に女の子で女学校の一番ならいい嫁の口があるとでも云う事にして見る。今でさえそうだのに子供が成長して嫁にゆく頃まで、自分の心眼で女を選ぶことが出来ず、履歴書を引張りださねば結婚しないという様な、時代おくれの婿を今からさがして置く気であろうか。そういう馬鹿げた男に言って置こう。今の様な学校で成績の一番の女とでも結婚したら木石や修身書と暮す程にも味がなく潤がなくそれでいて、帳面で拵えるまごまごした料理に小半日も待たされて然も水に醤油をかけたよりも不出来なご馳走に我慢させ続けられることを承知せねばならぬ」(上田庄三郎「教育のための戦い」上田庄三郎著作集②国土社刊。1977年)

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 上田庄三郎さんがこれを書いたのも、先に引用したものとほぼ同時期でした。これをみるに、この島で学校教育が開始されて以来、常にかわらず、教師や子どもが常在していたのは「比べる教育」、「競う教育」のアリーナであり、闘争の場でした。かかる「反教育」「非教育」の万世一系は今に続いているのです。学校教育の本質は「競う」「比べる」というところにあるということです。大事なことはその「本質」を外れた地点に立つという姿勢であり態度です。それをぼくは「思想」といいたいのです。その意味では、上田さん(小砂丘さんはもちろん)は十分に「本質」を外しています。

 「学校存在の根本義は決して入学試験の準備などという様なちっぽけな情けない表皮問題にあるのではなくて、吾が最も天真なる原人の要求を培育し現代文化を至純な愛の源より見直して行こうとする処にある」

「入学試験の成績をよくする事を考えるよりか入学後卒業後迄に漸次頭角を現してゆく事を親も子供も考えねばならぬ」

 大正末期に茅ヶ崎に理想の学校をうちたてんとして土佐から上京。ものの見事に返り討ちにあう。しかしその後に、上庄さんの本領はますます発揮されることになります。以後は「プロレタリアジャアナリスト」として筆法も舌鋒もいよいよ鋭く、敵を選ばずに過激な教育批判、学校批判、政治批判をつづけました。

 高知時代には十二年間の小学校教師(十回ばかりの不意転、上司のいうことに耳を傾けなかったというかどであちこちに回された。まあ、明らかな「島流し」(いやがらせ・いじめ・人権侵害)です)を経験し、弱冠二十八歳で校長になりました。彼に校長としての管理能力があったのではなく、彼を使いこなす校長が群下には一人もいなかったからというのが、校長就任(校長にならされた)の理由だった。師範卒以来、徹底した反時代的・反権威主義的な小学校教育を実践しました。

 大地の教育を標榜しただけでなく、それを実際に「田舎」でやってみたし、都会でもやろうとして乗り出したのが茅ヶ崎での「児童の村小学校」の経営でした。子どもが十二、三人で、たった一人の教師が上庄さんだった。

 「なんと云っても人間は自然の子である、真に自然を視る目のないものは人生の落伍者である。聡明なる親はその子に貯金をしてやるよりも自己の少しの不便にたえて子供の為に絶好の自然の豊富な土地に居住して子供の肉体と精神とを剛健にし生涯の悪戦苦闘にたゆる生命力を逞しうする覚悟が必要である。さしあたり我が学園はあらゆる意味に於て子供の国としての理想郷だと云える」(同上)

「(茅ヶ崎)児童の村小学校」はこの地上にほんの一瞬だけ存在した学校ですが、その「存立の理想」「教育への願い」はいつでも求められていたものでしたし、今でも求められています。いうまでもなくこれからもまた、少しでも子どもの幸せのために「教育」に期待するものならだれでも絶やせない「灯」であるにちがいありません。

 上田庄三郎・小砂丘忠義の二人を交互に紹介する風情で「生活綴方」教育のなにがしかを述べようと愚論を重ねています。いろいろと語るべき事柄があるように思われますが、ぼくの知性という才能が著しくかけているうえに、努力するという本当の才能が皆無ですので、なんとも情けない仕儀に至っております。まあ、ほんのしばらくですから、もう少し続けてみましょう。この駄文のなかでも、ぼくがもっとも驚くというか、特筆すべきだと思うのは、二人は(高知師範学校の先輩後輩ですが)、弱冠二十歳前から教職を開始し、文字通り「若気の至り」で強烈は教育実践を敢行しようとしたことです。教育委員会の古だぬきたちが音を上げるほどの抵抗ぶりを示したのは、二人に共通する「正義感」でしたが、それはいったいどこから生まれたのか、ぼくにはもっとも関心のあるところです。教育に寄せる彼らの「義務感」はどんなものだったか、それがすこしでも解き明かせたら、望外の幸運ですね。(写真など、いずれ当時のものも含めて、新たに掲載したいと考えております)

 学校優等生の標本だ

 「優等生論」

 さて、僕が赴任してまもなく子供達の間にパン(メンコ)が流行りだした。パンとは厚紙の表面に絵がいてあり、それを地面に叩きつけて相手のやつを扇ぎ倒しくらをする遊戯である。これにウソクといふのとホンクといふのとあつてホンクといへば、勝つた方が負けた方の札をとるのである。

 その札をとつたりとられたりするのが賭博に似ているからとあつて僕らが子供の頃には学校で禁止せられ、もつてる札はすつかりとり上げられ、小山の如く校庭につみあげられてむざんにやきはらわれたことがある。 

 そのパンが流行してゐるといふことは僕らは知らずにゐた所へ前々からのその学校の優等生が、忠勤顔をして僕につげにくるのだ。

 「先生、××さんはパンをうつてをります」

 「さうか、やつてもいヽぢやないか」

  するとその取まき連が口々に説明して、事情にうとき新任の教師に古来の遺風を知らさうとする。

 「パンはとめられてゐます」

 「パンはばくちのはじめだと前の先生がいひました」

 「先生、とりあげておしまひなさい、前の先生はとりあげて焼いてしまひましたよ」

 僕は前任の山の中の学校にゐた頃は、はなたれ小僧や髪をぼうぼうのばした子供や泥と垢にまみれた子供と一緒だつたのだ。それらの子供が、猿のやうにすばしこく、手も足も血だらけにして山の中をかけまはつてゐた頑健さと原始さとは身体中、手にも顔にも表はれてゐた。

 今日の前に囀つてゐる子供の顔の何とのつぺりしてゐることか。おまけに着物の袖に手をひつこめて、ふうふういつて身体を前屈みにしあがつて、いやにへらへらと先生に親しげに笑ひかける。正しく学校優等生の標本だ。

 「ところで、君たちはパンをしたくないのだね」

 「えヽ、ちつともしたくありません」

 「さうか、したくないのならしないがあたりまへだ。だが××君らはそれが面白いから、したいのだらう」

 「でも、先生、パンはとめられてゐますもの」

 「なぜ、とめられてるのだね」

 「パンは、バクチのはじめだから」

 「おや、君たちはバクチといふものを知つてるのかね」

 「知りません」

 「なんだ、知らないのか、知らないのに、そんなに恐ろしいのか」

 「けれど、先生がさういひました」

 「あヽさうか、だが考へてみたまへ。本当はしたくないならいヽが、したいけれど先生がとめたからやめるといふのは僕はきらいだ」

 それから僕は、バクチが投機、射倖的な遊びであるに対し、パンは角力や剣道と同じく技術と力量とで堂々と戦ふ勝負ごとであることを話してきかした。

 「ぢや、先生、僕らもやつていヽのですね」

 「おや、君たちもやつてみたくなつたのかね」

 「やつてかまはんなら、僕らもやりたいです」

 子供たちの次には村会議員といふ村の長老からも抗議があつたが、それがみんながみんな「バクチのはじめ」をふりまはして来るのだ。「バクチのはじめ」といふやうなお札の空文句で僕らは動くものではない。

 自分の生活を極度に節約圧縮して、先生のきもちを巧みに忖度し、うまくさきまはりして愛くるしい笑顔をし、忠実な犬となりきれば学校優等生といふものになる。一度び 学校優等生といふものになれば将来学校優等生といふ立場を失ふまいとそれのみに固定してしまつてますますへんなものになつてくる。全く仕様のない存在である。

 だれかの機嫌をとり、だれかの御用をつとめることより教へてゐなかつた昔日の学校にこのいやな優等生がゐたことは当然の話である。といふのは、この話はもうよほどの昔のことなのだ。(小砂丘忠義「綴方生活」1931年1月号)

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 小砂丘さんの生家は貧窮の極みでした。父親の仕事(木こり、炭焼きなど)のために広い山野を遊び場にして暮らしていました。小学校を終えると、ひとえに教師の勧めで高等小学校へ、さらに師範学校へと進みます。1913(大正2)年に、高知師範学校に入学しました。(その二年先輩だったかに上田庄三郎さんがいました)

 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)

 1917(大正6)年4月、郷里の出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。師範学校の四年間はけっして快適なものではなかった。また杉小学校時代も周囲の理解を得られなかった。それはあまりにも彼が自尊独立の気概が強かったからでもあるし、逆に「教育の世界」が因循姑息を絵に描いたように頽廃していたからでもあった。いつに変わらぬ学校教育の風景があったのです。

 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底からつき崩そうとしたからです。そのために教師になったというのですから。

彼は足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。その実、無理にも変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会の役人)がいなかったのです。