教師自身が解放されなければ…

 ここにも、何人もの「教師の影」がありますよ。

 「もしも、意地悪の録音家がいて、先生のコトバを、こっそりと、そっくりそのまま録音したとすれば、どんなことになるのでしょうか。わたくしは、あるとき、こんなことを考えて寒む気をもようしたことがありました。

 ―何なにしてはいけません。

 ―何なにするのはいけないことです。

 ―それはダメです。

 ―しなければなりません。

 ―するものです。

 ―したらいいでしょう。

 ―するように注意しなければなりません。

 ―しなさいよ。

 教師のコトバの語尾というものは、どうして、こうも、禁止や覚悟や命令義務感や道義に関係するもので結ばれるのでしょうかしら…

 あまりにも芸術性に乏しい、概念のコトバのら列とその終結にわれながら驚くということもしばしばありますので、外国映画の画面のすみにかかれる日本語訳のみじかい、気のきいいた文章に、思わず心うたれて、ハッとするというようなこともありました。

 生きた子どもたちと、魂の触れあいをしているところが学校の教室なのですから、どうにかもう少し感動的なコトバのとりかわしを、わたくしたちはできないものでしょうか。このこともまた、わたくしたちの古い型からの解放のために、ぜひ自覚してみたいことだと思われます」(国分一太郎『君ひとの子の師であれば』東洋書館刊、1951年)

 国分さん(1911~85)は山形の出身、もと小学校教師であり児童文学者でもありました。戦前・戦後の「生活綴方」実践の第一人者と自他ともに認めていたひとです。

 国分さんの指摘はけっして教師にだけあてはまるものではなさそうです。親もそうだし、警察官もそうです。たいていの大人は子どもに対して、そのような口をきくのではないでしょうか。まあ、すべてが命令口調なんですね。ホントにいやになるほどです。

 さらに国分さんはつづけます。

 「また、教師のコトバには、よく「だから」とか、「それだから」とか、「そのために」とかいうコトバが出てきます。けれども、よく聞いていると、そのコトバも、どうして「だから」なのか、何のために「そのために」なのか、どうだから「それだから」なのか、よくわからないことが多いようです。

 つまり、教師たちが、ほんとうにわかっていて、事実をつみかさねて、「それ故に」というコトバを使用していないようなことさえ多いことに気がつくのです。そのくせ、子どもたちに対してだけは、「もっとはっきりといいなさい」とか、「正直にいいなさい」とか、「どういうわけで、そうなのか、よく考えていいなさい」とか、勝手な注文をしているときが多いようです」(同上)

 他者とていねいに話をすることは、殊の外、むずかしいようです。たとえ、それが生徒であっても子どもであっても、相手に言いたいことが伝わるというのは簡単なことではありません。決まり文句、それしか言わないのは教師や親で、聞かされるほうはうんざりするほかないのですね。「早くしなさい」「静かにしなさい」と親も教師もそれしか言えないのかとおもわれるほど、この文句を言うのです。

 それを「注意」と勘ちがいしてるんだね。子どもに注意する、生徒を注意するといいながら、ようするに「命令」し「禁止」し、「文句」を垂れるだけなんだ。これを「お為ごかし」といいます。

(お為ごかし=おため‐ごかし【▽御▽為ごかし】 表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。じょうずごかし。「お為ごかしの親切」「お為ごかしを言う」デジタル大辞泉)

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  汽笛               (秋田県金足西小学校4年生)

 あの汽笛          

 たんぼに聞こえただろう

 もう あばが帰るよ

 八重蔵 泣くなよ

 「これが北方教育の叙情だ」といって、たくさんの東北の教師たちの前にこの詩をつきつけたのは山形の国分一太郎さんでした。その国分さんは昭和九年十一月、仲間をさそって「北日本国語教育連盟」を結成。翌年には機関誌「教育・北日本」を創刊することになります。

 《その(生活の困窮・疲弊)ため、子どもたちは生活の危機にさらされ、かつかつの生存権の確保のため、学習の権利をすら奪われがちである。このような状態から子どもたちを救い、彼らの将来の幸福を保障するためには、子どもたちの教育の上でも、現実におし流されてしまう子どもをつくるのではなく、どんな状態のなかでも生き抜いていく意欲の旺盛な子どもを作らねばならないし、この現実を変革していく方法を追求する知性をもった子どもに育てなければならない》(国分一太郎「北方性教育」『生活綴方事典』所収)

 国分さんについてもこの後(ブログ)で、「北方(性」教育」の実践家の一人として、その活動を概観していきたいと考えています。まぎれもない「生活綴り方」教育の展開をさらに進めた功績者でした。東北地域(方)における学校教育の一側面を「北方(性)教育」という名で呼ぶとすれば、さしずめ上田庄三郎さんや小砂丘忠義さんたちの教育実践を「南方(性」教育」を称することもできます。だとすれば、「中央(性」教育」というものもあっていいんでしょうね。はたして、それはどんな教育実践だったか。

 作文または綴り方(閑話)

〇小学校に教科目として綴方(作文)が設けられたのは明治二十四年(文部省令)

小学校教則大綱(抄)(明治二十四年十一月十七日文部省令第十一号)   

*「第三条 読書及作文ハ普通ノ言語並日常須知ノ文字、文句、文章ノ読ミ方、綴リ方及意義ヲ知ラシメ適当ナル言語及字句ヲ用ヒテ正確ニ思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼ネテ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス/ 尋常小学校ニ於テハ近易適切ナル事物ニ就キ平易ニ談話シ其言語ヲ練習シテ仮名ノ読ミ方、書キ方、綴リ方ヲ知ラシメ次ニ仮名ノ短文及近易ナル漢字交リノ短文ヲ授ケ漸ク進ミテハ読書作文ノ教授時間ヲ別チ読書ハ仮名文及近易ナル漢字交リ文ヲ授ケ作文ハ仮名文、近易ナル漢字交リ文、日用書類等ヲ授クヘシ」

小学校教則

 明治三十四年冬に書かれた尋常小学校四年生の綴方を以下に掲げます。題して「擬戦の記」とあります。

 明治三十有一年十二月九日、当校の四年級一同、白赤の隊となり、列を組み、午前八時十五分過に門を出て、整々堂々雉子橋を渡り、竹橋を入り、気象台の橋前を出で、麹町より四ッ谷門を過ぎ、内藤新宿に着き、それより分かれて、甲州街道を進み、玉川上水の架橋を渡り、暫くして左に曲がり、林に添える道にて軍歌を唱えて進み行きしに、其声天地に震いて、実に勇ましかりき。それより田畝に出でて見渡したるに、はや洗浄見えたれば、白隊は八幡山に陣を取り、赤隊は赤旗山に陣を布きて控えたり。折柄回線の用意を告げければ、伊藤君分隊を率いて前進す。時に敵陣のうち、高浜君一隊を引きつれ来るを見、此にあたり、ふんぷんとして戦い居たるに、敵兵林中より雲霞の如くああらわれければ、我が隊田畑の中を進み、適の左翼を打たんとせしに、之を知られければ、其こにて暫く血戦したるが、遂に破られて打死す。此時白軍勢鋭くしてて、赤悉く死して陣を取られたり。(以下略)

 次は大正三年のものです。同じく尋常小学校四年生が作者。

 まちにまったぎせんの日が来た。こんどは四年生だから、しっかりやろうと、腕に力こぶをいれて、学校を出た。初夏の風にふかれて、ヶ敷のよい道をあるいていったのは、こころもちがよかった。すこしくたびれたと思った時は、もう目の前になつかしい落合の原が見えた。

 よろこんで三分隊にはいると、やくわりがきまって、かいせんのラッパが野山にこだましてひびいた。

 それと同時にたまがぴゅうぴゅうととびかいはじめた。

 あっちが破れ、こっちがやぶれして、出るけっしたいのこゑもいさましい。そのうちに白がおしよせていって、赤の軍旗をぬいてもどって来たら、そばまでむかいにいった。第二回はかち、第三回はまけた。それからべんとうになった。べんとうをあけてほうばった時は、実にうまかった。すんでから一度あり、さいごの合戦となると、大さわぎmわいわいといってたたかった。そのうちにおわりのラッパがなって、白のかちとなった。白のよろこびのこえは、耳をやぶって、わあっと天地にひびいた。(「擬戦」大正三年春尋四)

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  おやのおん                               尋常二年男 ○ ○ ○ ○   

 私のきものは、お母さんがこしらへてくださったのです。学校へくるのは、お父さんやお母さんのおかげです。うちでは私をかはいがってくださいます。このおんをわすれてはなりません。おんをかへすのにはお父さんやおかさんのいひつけをよくきいておやにしんぱいをかけないやうにして、学校ではせんせいのおしへをまもるのです。それでおんはかいせるのです。(明治四十三年度各学年綴方優作集 白金尋常小学校) 

 およそ百年前の尋常小学校二年生の綴方です。「いひつけをよくきいておやにしんぱいをかけないやうにして、学校ではせんせいのおしへをまもるのです。それでおんはかいせるのです。」この部分には傍点(二重丸)が付されています。親の恩を忘れないどころか、それをかえすための処方を求めた課題であったと思われます。

 じつに紋切り型ですね。この「作文」の筆者はだれでしょうか。こんな見え透いた文章を書いていたのか、詰まらない。ぼくはがっかりした記憶があります。(あるいは作者は、作文の課題をよく呑み込んでいたので、「模範文」を書いたかも、と考えたりもしたのですが)それにしても「親孝行」というのはこんな陳腐なものであったのかね。教師はこれを書かせるために腐心していたのですね。書いた人は、文芸評論の領域を開いたとされる小林秀雄(1902-1983)さんでした。

 まさしく「閑話()」でした。(閑話= むだばなし。 心静かにする話。もの静かな会話)

 学歴は洋服みたいなもんだ

【学歴】●academic background●academic qualifications●academic record●educational background●history of schooling

【学歴社会】●society in which one’s schooling counts●society which places excessive emphasis on academic records●society which places undue emphasis on academic records●society which sets a greater value on the academic career of an individual than on his real ability

【学歴偏重】●education-obsessed●excessive valuing of academic background●putting undue emphasis on educational background

【学歴偏重社会】●academic background-oriented society●education-obsessed society●society where undue respect is paid to academic background●society which places excessive emphasis on academic records●society which places undue emphasis on academic records(英辞郎)

【学歴】学業についての経歴。どういう学校を卒業したかという経歴。「―がものを言う」

【学歴社会】人の社会的地位や評価などが、学歴によって決められたり、判断されたりする学歴偏重の社会。(大辞林)

 学歴とか学歴社会という言葉は、社会学的には「ニュートラル」なものですが、けっしてそのようなとらえ方がされないのはどうしてなのか。大学進学率が何年度は40%で、三年後には45%にあがったというのは事実です。その事実をどのように解釈するか、人によってさまざまです。事実を社会問題として理解しようとするなら、その方法があるはずです。

 「学歴」に過度の意味や価値を含ませるのはどうしてか。学歴が高いか低いかというより、履歴書に記される「学校名」に関心があるからです。大学を出たという、単なる事実以上に、何大学卒かが物を言う(物を言わない場合もある)社会の現実があるからです。いまでも、かな。ぼくはいつでも「学(校)歴」は洋服見たいなもの、着脱可能で、それ自体に好みや流行はあるけれど、それを着けている中身(身体や脳体には無関係)だと考えています。 

(厚労省調査)

 何を学んだ(学ばなかった)かという経験や実績より、どの大学を卒業したかに比重がかかるのは、大学や当事者にとってはいいことなのかね。受験、入学、在学、卒業という単語が重視されることはあっても、それぞれの名詞を構成する動詞(経験)がほとんど問われないのは、いかにも不自然だし、その不自然さを意識しない(させない)社会の風潮こそが、学校教育を空洞化させてきたのだとおもうのです。「入学」と「卒業」が短絡してとらえられ、その期間に何を学んだり何を学ばなかったりしたかが問われないとしたら、まことに異常ですな。自分の経験に照らしてみても、何年間は在学していたが、そこではついぞ学ばなかったのですから、それを看板にするという破廉恥はできないと銘記しているのです。

 ある特定の大学を出れば、卒業生はみんな同じ色に染まるということはあり得ないにもかかわらず、一色に染めて(染められて)しまう傾向が(世間には)濃厚にあります。学歴というものより、学校歴がより多くの関心を抱かれる所以です。つまらんことよ。

 A大学を出たとか、B大学出身ですといったり、わたしはS高校卒ですなどという、その事実が示すものはなにか。それこそがA大学やB大学、あるいはA高校と、それぞれの個人との関わりをあらわすにちがいないのです。よく言われることですが、どの大学卒かというよりもその大学で何をしたのかということの方がはるかに大事です。でも、どんな大学を出たところで、似たり寄ったりのことしかしない(あるいはいうほどのこともしなかった)ということであれば、やはり、どの大学卒かに関心が赴くのは仕方のないことなのかどうか。ぼくには学校に対する不信の念は半端じゃなくありますから、この島社会の体制(政治・行政・企業など)が歪められ、偏頗なものにされている多くの責任は「大学卒」にあると確信しています。今日、マスゴミの「堕落」「不作為」が非難されますが、大半がいまどきの大学出なのだから、そうなるのは当然であると、ぼくは経験からおもっている。こんな人やあんなやつが書く新聞なんか読めるかよ、といいたいほどのものですよ。官庁や企業、政界にも友人・知人がたくさんいるから、なおさらそのようにおもいますね。

 「人の社会的地位や評価などが、学歴によって決められたり」するのが学歴社会だというけれど、はたしてホントにそうでしょうか。あからさまにA大学卒、B大学卒、V大学卒では給料がちがうというのは、明治時代以降にはありました。それを最初にしたのが官僚界です。卒業大学による差は著しかった。国立と私立、さらに大卒と高卒でも差はあった。今もあるでしょう。だから、すこしでも高い給料が欲しいからと学歴上昇が進んだのは事実です。でも、何をするか、というたしかなちからがもとめられないなら、その社会(会社)は何なんですかといいた。

 《オレは学歴もコネも地位もない。技術しか人に勝つ方法はないんだ。当たり前のことをやっていたら、だれも相手にしてくんないよ。いつもそう思っているから、これが自分の活力になるんだよ。いま?いまだってそうさ。コンプレックスのかたまりだよ、オレなんてのは》と語るのは岡野雅行さん。町工場の経営者でした。今でも現役ですね、確か。国民学校卒でした。(詳細はどこかで)

 学歴も地位もコネもないという自覚が、人をどんな風に育てるかということですし、反対に学歴もコネも地位もあるという意識が人間をどこまでも傲慢にかつ無責任にしてしまうかということの反証みたいな啖呵だと、わたしは岡野さんの言葉をうけとめました。(昨年秋にノーベル賞受賞の吉野彰さんと組んで、リチウムイオン電池の開発に貢献した人でもあります。「携帯」進化の親です)

 自分が作るならどんな仕事も面白いし、その仕事は人間を育ててくれるということをほんとうに経験したいものですね。そして、はたらくのは「何のため」か「だれのため」かをいつも考えていたい。

 心の中の美しい夕日

 マニラの夕日

 1959年、小さなスクーターを貨物船に積み込み、23歳の小澤さんはヨーロッパを目指しました。寄港地のマニラでのことです。(1935年、旧満州生まれ。父は歯科医師。板垣征四郎と石原莞爾の一字ずつから命名されたという)

 「マニラに着いた時に寒暖計を見たら、三十八度もあるのには驚いた。暑いはずだ。その代わり夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。夕焼けを見ながら、戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなって来る。この辺は激戦地だったそうだ。夕焼け小焼け あした天気になあーれ」(小澤征爾『僕の武者修行』新潮文庫)

 「僕は、五十九年に六十三日かかってヨーロッパに行ったのですが、最初に舟でマニラに寄ったとき、マニラのイロイロという港で夕陽を見ました。(中略)そのときはもうもう肝をつぶすくらい、赤さといい、大きさといい、圧迫力といい、日本で見たことがない、少なくとも僕は生まれてから見たことがない夕陽だった。その印象があまり強いんで、これは何か美しいもの、だれが見ても美しい眺めなんだと思った。夕陽というのはどこの国で見ても美しい眺めだけどマニラは特別だと。夕陽というものに対して非常に目を開いたわけ」(小澤征爾・大江健三郎『同じ歳に生まれて』中央公論新社)

 2001年11月、小澤さんは合唱団「城の音」といっしょに東京医科歯科大学付属病院で音楽会を開きました。難病・重病の子どもたちを前にしてのことでした。

  「赤とんぼ」(三木露風作詞・山田耕筰作曲)(昭和二年)

三木露風(1989-1964)

 1 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ

   負われて 見たのは いつの日か

 2 山の 畑の 桑の実を

   小籠に 摘んだは まぼろしか

 3 十五で 姐やは 嫁に行き

   お里の たよりも 絶えはてた

 4 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ

    とまって いるよ さおの先

 子どもも親も医者も看護婦さんも、みんな目に涙。顔を涙でぬらしながら、小澤さんは一人ひとりの子どもの手をとり、励ましたのです。

 「戦争があったり、大人でも参ってしまうような難病と生まれながらにして苦しい闘いをしている子どもに会ったりすると、『音楽なんてやってもしょうがないじゃないか』と本当に思うことがあるんです。…でも、それは違うみたいね。ぼくらの音楽を一生懸命に聴いてくれる一人一人がいるじゃないですか。そういう姿を見ると、こっちの気持が伝わったのかなと思いますね。何かを感じてくださるものがある。それだけで音楽をする意味がある」

バーンスタインと

 「たとえば夕陽が沈むじゃないですか。五人も十人も集まって缶ビールでも飲んでわいわいやっていたら、夕陽はちっとも美しくないですよ。一人で、しかも集中力があって、自分に対して『自分は自分だ』というのがわかっている時に、夕陽を見ると美しいんですよね。しかも、忙しくほかの何かをしている時は自分がないから、あまり美しくないわけ」

 「自分の精神が、気持が落ち着いていて、何かに集中できる時に心の中に美しい夕陽がある。それは大抵、心の中がとても静かな時なんですね。いい音楽は、音楽会にお客さんが千人座っていても、音楽やっている人と一人一人ですから。ぼくはいつもそう思う。たとえ客席でぼくといっしょに家族が座っていても、ぼくはぼくで聴くわけ。一人一人が音楽を聴いている。たくさん聴いていても、音楽は個人的なもんじゃん」(同上)

 「インスティチューションよりも個人のほうが絶対大事なんだ、というのが僕の信念だと、だんだんわかってきました。ところがインスティチューションに入っちゃうと、お金もかかるし、いろいろ道のりもあるし、その人があるポジションに就くまでに時間がかかったりするので、えてしてインスティチューションのほうが自分より大事だとなりがち。そうじゃないと僕は思うんですね」  小池真一『小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽』(講談社+α新書) 

 ここでいう「インスティテューション」とは「音楽学校」ですね。それよりも「個人のほうが絶対大事」という「信念」。左の写真は1961年、N響の指揮者になるが「感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任」(wikipedia)日本では指揮台に立たないと決意したとされます。

 その後の活躍はご承知のとおりです。(左上の写真は恩師になるバーンスタイン氏(NYPhil.の常任指揮者)と。

 

 窓は開いているか

 窓の外からことばがはいってきました。

 二人の奥さんが道ばたではなしています。

「もう眼も駄目ね。頭も駄目。ならってもすぐ忘れてしまう」

 もうひとりはあいずちをうちます。

「でも、勉強ってたのしいわね。さようなら」

 この人は五十七、八歳くらい。相手の人は五十五歳くらいでしょうか。二人とも、私は回覧板をもってゆくときに会って、知っています。

「ならってもすぐ忘れてしまう。でも、勉強ってたのしいわね。さようなら」

 このことばは、私には達人のことばのように思えます。(「鶴見俊輔「わからないことば」)

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 大正のはじめに、官立の小学校の国語教師として国定教科書を型どおりに教えていて、ゆきなやみ、神経病にかかった芦田恵之助が見出したのも、この一回かぎりのことば(子どもそれぞれの状況からはえでる)を見出そうという方向でした。そこから、随意選題という綴り方教育の方向があらわれました。

 文をつくるもとには、このような一回かぎりのことばへの模索がはたらいています。

 文をつくることは、〇☓式教育ではつかみきれない力で、それゆえにいまの教育体系では排除されました。大阪大学医学部では、

「条件反射について書け」

 という試験問題を医学部学生にだしたら、多くの学生がまったく書けなかったということです。〇☓をつけることになれた学生は、自分の知識にまとまりをつけて、自分の言葉で書くことができなくなっていました。

 こういう教育制度は、いっぽうで大量の大学卒業の優等生をつくるとともに、戸塚ヨット・スクールにおいやられる子どもたちもつくっています。(同上「一回かぎりのことば」)

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 「でも、勉強ってたのしいわね。さようなら」ホントにわくわくしませんか。おしいことには、いまは隣近所もなければ、言葉が入ってくる「窓」も閉ざされてしまっています。少しばかりの連絡路である「窓」が四方に向かって閉じられている状況は、今日の社会生活における人と人の関係を象徴しているように思えます。障壁のある関係。

 「おぼえなければならない」といわれたとたんに勉強はつまらないものになります。忘れても忘れても、かまわないんです。忘れることがたのしい、となれば達人です。自分の娘に対して「おはようございます。どちらさまでしたか」という母親もまた達人だね。世に、これを「認知症(アルツハイマー」」というそうです。繰りかえしの精神がぼくたちにはほとんどといっていいほど、育てられていないと、ぼく自身は実感し、痛感しています。

 「戸塚ヨット・スクール」のことをご存じですか。きわめつけの「スパルタ教育」(暴力とまちがえられることもあった。校長の戸塚さんは「傷害致死」罪等で有罪になっています)で、まさに「問答(ことば)無用」の身体教育を実践。それは、この国の教育にもっとも欠けている部分だと指摘する人たちがおられます。(このスクールに関しては、さまざまな批評がなされてきました。現在もつづいています。いまも「教育活動」をされています。その内容などについては、自分の目で確かめられることをお勧めします)(スクール問題は映画化されました。「スパルタの海」主演は伊東四朗さん。原本は上之郷利昭著『スパルタの海 甦る子供たち』です) 

「一回かぎりのことば」とは、だれに対しても(あるいは、犬や猫に対しても)使われることばとは、正反対のことばです。その場でしか使う値打ちのない言葉というものがあるのです。

 ずいぶん昔の話。国語教師だった大村はまさんが中学生を担当していたときのことです。その学校では生徒の喫煙(教師のではない)が生徒指導上の大問題になっていた。生徒指導の教師、なかにはもちろん国語教師もいました、かれらは喫煙している生徒たちを見つけると「おまえら何をしてるんだ」「いいかげんにしろっ」などと大声を張り上げ、どなっていた。大村さんはそんな教師たちの言動を見ながら、「自分にあんな指導はできない」「国語教師として、どなることはできない」と思いながらも、問題の生徒たちにはなすすべをもたないままでした。

 あるとき、授業のために職員室をでて教室に向かっていくと、廊下に数人の生徒がたむろし、これみよがしにたばこをふかして大村さんを挑発するのだった。どうしよう?

 そのとき、一人の生徒に「〇〇君、この前の発表はよかったよ。この次もお願いね」といった。その瞬間、かれは手にもっていたタバコを後ろにかくしたというのです。

 たぶん、ぼくの記憶ではこれだけの話だった。でも、ぼくは大村さんの行為に感動した。ことばなんて、というがよい。「一回かぎりのことば」がでるためには、相手に対してどんな思いをもたなければならないか。わからぬ人にはいっても無駄だ。(左の写真は「禁煙」指導の場面だそう)

 綴り方という方法

 あるとき、小砂丘さんが妻からシャツを「買ってきて」と頼まれたのに一ヶ月も忘れていたら、妻は自分で買ってきた。それをみせびらかしながら、「これでやっとせいせいした、頼んだって買ってくれないんだから」といった。小砂丘さんは冗談交じりに「それはすまなかった。おかげで寒いめにあったね」と相槌をうった。ところが驚いたことに、妻は「寒ければいいのだが、ずっと冬物で、暑苦しくてたまらなかった」といったそうです。

 「シャツがなければ寒いだらうとは我ながら迂闊であつた。ないために却つて暑くるしいことさへあり得ることに気づいてゐなかつたのだ。かういふ認識不足をしでかしがちなのを是正したさにこそ殊更に〈地方性〉を考へなおさうとしてゐるのだつた」(「綴方生活」第七巻 第五号・昭和十年五月発行)

 概念でものをいう、概念に振りまわされる、こんな姿勢を木っ端みじんに砕こうとしたのが彼のやろうとした「綴方」の実践でした。これはプラグマティズムそのものでした。実践主義とも生活経験尊重ともいうべき態度でした。

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 「生活綴方」とはどんな教育だったのか。再び芦田恵之助(あしだえのすけ)さん(1873~1951)の登場です。日本における「生活綴方」の源流に位置するひとりです。

 随意選題の提唱

「私の随意選題による綴り方教授は、当時漸く抬頭して来た自由思想の影響をうけたのではありましょうが、その根抵をなしたものは、従来の綴り方教授、即ち課題によるものが、自分でも興味がなかったし、担任学級に課してみても、児童が少しも喜ばなかったという事実でした。興に乗っては、何事にも夢中になる児童が、いかなければ生ける屍のごとく、その苦痛をすら訴え得ぬことをしみじみあわれに思いました。何とかして児童をその拘束から脱して、文を綴る喜びに浸らせたいと思いました」(『恵雨自伝上』)   

 教師によって決められた「題」を与え、決められた形式の文章を書かせようと「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かん」それならいっそのこと、「お前ら書きたいことを勝手に書け」となったというのです。押しつけではなく、強制でもない作文教育の方法は窮余の一策だった。行くところまでいって、その先一歩も進めないときに、道は開かれたのです。道元の言葉だったでしょうか、「百尺の竿頭、進一歩」というのがあります。ながい竿の最先端まで登っていき、先のないところをさらに一歩を進めよ、というものです。無理難題なのですが、万策つきる地点までいたらなければ、なにかがうまれるはずもないのです。窮余の一策でした。

 「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かんです。これほど骨折っても書かんなら、お前ら書きたいことを勝手に書け ― こう突っ放しました。すると、五、六年の学級が一心に書き出しました。実におもしろい文がたくさんできました。題を与えても、系統立てて、すっかりお膳立てして書かせようと努力した時には到底得られなかったようない きいきした子供の生活を書いた文が生まれました。わたしはこれに打たれました。子供の作文は結局この方法だと思いました。爾来わたしの綴方の時間は、おまえさんたちが 自分で題をきめて、書きたいと思うことを、好きなように書け ― そういうやりかたをして二年目の冬の高等師範の附属の講習会に随意選題の綴方教育というように発表をいたしました。すると芦田は外国の自由思想をとり入れて自由作文をはじめたといわれました」

 綴り方とは?

 今では作文といわれますが、その授業の意義を芦田さんは以下に言う。

 「綴り方教授の意義 綴り方とは精神生活を文字によって書きあらわす作業で、綴り方教授とは綴り方に関する智識を授けて、之に熟達せしむる教師の努力と、学習に関する児童の努力をあわせたものである」

 「綴り方教授の立脚点 精神生活は或いは之を声にあらわし、或いは之を筋肉にあらわし、或いは之を文字にあらわす。一を談話といい、二を動作といい、三を文章という。綴り方教授において取り扱うのは文章である。談話・動作・文章は各その形式はちがうけれども、精神生活を外界に発表するものであることは同一である。発表は人間自然の慾望で、吾人がもし心中に不平を生じ、又は満足を感ずれば、之を知己に語り、之を朋友に伝えて、共に喜び、共にかなしまずにはおかぬ。もし何等かの事情のために、この発表が妨害されると、吾人は殆どその苦痛にたえぬ。綴り方教授はこの人間自然の強き要求の上に立脚するものである」(芦田恵之助『綴り方教授』大正二年)

 芦田さんとほぼ同時期に児童のための芸術教育に新境地を開いたのが鈴木三重吉(1852~1936)さんでした。三重吉は広島市(現・広島市中区大手町2丁目1の13)に生まれた。東京帝國大學英文科在学中の明治38(1905)年、短編小説『千鳥』を書き上げた。『千鳥』は夏目漱石によって高い評価を受け、漱石門下生として活躍を続けた。大正7年(1918)年には森鴎外(1862-1922)らの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせた。

 雑誌はおよそ二年間の休刊期をはさんでその死に至るまで継続されたのでした。当時すでに高名であった作家や詩人、音楽家や画家などもそのサークルに誘いながら、結局はたった一人で、全国から集まってくる児童の綴方を読み、雑誌に掲載しながら、一時代の児童の芸術教育運動をリードしたといえます。

 「多くの人々は、綴方の作品が伸びにくいのをこぼしている。しかし、或人々の場合には、作品が伸びないというのには、まず第一には、児童には到底書けないことを書かせようとかかっているような、根本の無理が手伝っている。まずその点を反省しなければならない。つまり題材の問題である。われわれにしても、物を書くといえば、所詮、じぶんが実さいに見、聞き、感じ、考えたことしか書けるわけがない。要約すれば、われわれ自身が経験した事実でなければ叙出できない」(三重吉『綴方読本』1935年)

 「事実は書ける、概念、観念は書けない。書けても没個性的な、共有性のものに終わるのみで、作品としては何等の価もない」(同上)

  生活綴方教育(運動)は、その後に各地で大きく渦を巻きますが、中央に『赤い鳥』があってはじめて力を得たという側面を忘れてはならないでしょう。その意味では児童教育の隆盛に向かう方向を決めたという点で、三重吉さんの貢献ははなはだ大きいものだったというべきでしょう。「赤い鳥」についても、どこかで触れてみたいですね。

 ふたたび、小砂丘忠義(ささおかただよし)さん。1897(明治30)年~1937(昭和12)年。本名笹岡忠義。高知師範学校を卒業後、県内各地の小学校教員・校長として働きながら、「極北」「蒼空」などの多くの機関紙・文集を発行した。今でいうところの、「学級文集」のもっとも最初期の実践家だったといえます。この一事でも、貴重な仕事をされました。

 その後上京して、1931(昭和6)年に郷土社をつくり,雑誌「綴方生活」「綴方読本」を発行し、生活綴方運動を全国的にひろめた。以下、略年表風に。

1897(明治30)年4月25日 長岡郡東本山村に生まれる

1917(大正6)年、高知師範学校を卒業し,大杉尋常高等小学校訓導となる

1920(大正9)年、土佐郡旭尋常高等小学校,翌年土佐郡行川高等小学校に転ずる

1922(大正11)年、土佐郡梅ノ木小学校(鏡村)に転じ,翌年長岡郡岡豊小学校(南国市)に

1924(大正13)年、「地軸」を出版し、翌年長岡郡田井第一小学校(土佐町)校長。12月上京

1927(昭和2)年、文園社編集部に入り「鑑賞文選」の編集をする

1931(昭和6)年、郷土社創立

1937(昭和12)年、10月10日肝臓肥大症で、東京にて病没。満40歳。