「家」崩壊からの旅立ち

 「人間の能力は対等ではない。競争して他人をけおとす場合もあるだろうし、力のない他人がほろびるのにまかせる場合もある。だが、能力のちがいのある相手を助けようという気組みが生じる時、家らしい間柄が生じる。その気組みなくして、家はうまれないし、守れない。血のつながりとか生殖という事実は、はじめの動力になるとしても、家をつくり保つための十分な条件にはならない。

 私たちは、それまでにくらべて格段にゆたかになった一九六〇年代以後の日本で、このごろさかんに子ごろし、親ごろし、妻ごろし、夫ごろしの新聞記事を読む。家庭とは、他人をもっとも殺しやすい場であることは、前にのべた。他人の家におしいって殺すよりは、おなじ家の中にいて殺すほうが、はるかにたやすい。殺人のもっともしやすい場にあって殺さないという規約を守り、たがいにそだてる―そだてられるという間柄を長い間にわたって保ってゆくためには、原爆にうたれてにげまどう群衆の中でおとなと子どものあいだにめばえた助け合い、巡礼遍路のゆきかう道ばたの宿屋で生じた助け合いとよく似た気組みが、男女の性交・生殖・血縁をいとぐちとしてあらわれることが必要だ」(鶴見俊輔「世代から世代へ」)

井伏鱒二

 「原爆にうたれて…」というのは『黒い雨』、「巡礼遍路のゆきかう…」は『へんろう宿』という小説で克明に書かれている「赤の他人」の交わりや支えあいのことで、いずれも井伏鱒二(1898-1993)の作品です。一読をすすめたいですね。

 明治以来、あるいはそれ以前の「家制度」が壊れ、家族関係が壊れてしまったのは事実ですが、家や家族関係を成りたたせていた地域そのものが破壊されてしまったことにもっと大きな理由を求めたいと思う。たがいにもやい(舫)ながら、大海に浮かんでいる小舟集団が村なり地域だとするなら、たった一軒・一家だけが安全であるなどということはありえない。好いも悪いも、一蓮托生、それが支えあい、助け合う関係をむすぶという意味でしょう。地域が根こそぎ引き剥がされたというのは、そこに根づいていた文化、それは人間関係をなりたたせる(生活環境)万般を含むものですが、その文化(生活の仕方・土台)が押しつぶされたということです。 

 土地を奪われ、土地に住みついていた人間の生活が奪われるとはどういうことか、それをわたしたちはいまになって思いしらされている。悪質な政治行政の心ない仕業でした。文明開化といい近代化といわれて、多くの人はその行く末に疑問をもたなかった。政治や行政の暴力はさらに加速しています。そのセクターに勢力を与えているのはだれか。

 ぼくはいま、自治行政単位で言うと「町」に住んでいます。本当は「村」や「郡区」ならもっとよかったんですが。つまり、島全体を統治する行政(政府)は明治以降、なんどかにわたり市町村制度を「整理」し、村や町や市をできるだけ少なくする「市町村合併」なる地域社会の破壊を繰り返してきました。その根っこにはいくつか理由がありますが、住民本位ではなかったのはたしかでした。村より町、町より市、市より都市という素朴かどうかわかりませんが、なんかハイカラになった気のする一部住民の一瞬の気分を悪用したんじゃなかったか、とぼくなんかは思ってしまう。地名の無意味な変更もコンビニ感覚で行ったでしょう。それはまるで、イ、ロ、ハだの甲、乙、丙だの、一、二、三だのと歴史を根こそぎ無視するかのような悪質きわまる変更でした。地名を安易な名称で変え、村を町に変えただけではなかった。そこにしか育たなかった文化や歴史までも殺したのでした。柳田国男という人はさかんに「家殺し」「家の自殺」のことをいいましたが、それは今に至っても底しれない痛みや苦しみを民衆に与えているのではないでしょうか。核家族もまた「家殺し」だったのか。これはたんなる家制度のことではありません。 

 学校崩壊 ― 不登校児の大量発生、いじめ(暴力行使による排除)の横行、授業(教室)の崩壊などは、学校にのみ発生する現象なのではなく、学校をくるんでいる地域社会、あるいはそれをも取り巻いている社会全体に生じている状況の、学校内への反映にほかなりません。生徒が教師や同級生などに暴力を振るう、教師が生徒に対して暴力に訴える、それは毎日どこかで起こっている暴力事件が学校にも起きたというだけで、不思議でも異常でもないのです。親が子を殺し、子が親を殺す、これも事情は同じです。

葛(くず)

 家であれ、学校であれ、はたまた地域社会であれ、そこではひとがひとに育てられ、ひとがひとを育てるというしっかりした文化という名の「生の営み」が息づいていたと思われます。それが目先の豊かさ、モノの大量所有・消費に心を奪われた結果、気がついたら取りかえしのつかない荒廃を招いてしまっていたのです。覆水は盆に返らず、ですね。 

 「育てる」と「育てられる」の代わりに登場した、「勝ち負け」を競い合い、「優劣」を比べ合う学校教育が家庭内にまで及んできたことは事実です。学校をとりまく大きな社会に蔓延している競争主義とそこからの脱落を悪(弱)とする風潮が、教師も親も子どもをも取りこんでしまったのです。そこから抜けだす糸口があるのかどうか。歴史を遡ること。

 いったん壊れてしまった家族のかたち、それを旧に復することはまず不可能です。ではどうするか。助け合い支えあうことでなりたっていた家族の関係(かたち)が壊れたという事実から、なにが見えてくるか。なぜこうなったか、を問うこと。

  親から子へ、子から孫へと生の営みの大切な部分を受け渡す機能をもっていた家庭から、その機能が完全に失われてしまった。だから、それに代わる受け渡しの場をどこかで設けなければならないということ。しかし、その機能を学校が担うのはきわめて困難であるということ。これだけはハッキリしています。

 「格差」問題があちこちで取りあげられています。それに関して、少し旧聞に属しますが、こんなインタビュー記事が新聞に出ていました。いつでもこんな問題にぼくたちは直面しているのです。(朝日新聞・07/04/28)

 ― 日本社会はこれからどういう方向に行くのでしょうか。

 「いまは、どこかをまねしたら道が開けるというものはない。自分で考えることだ。おまえはどう考えているんだ、と問いを突きつけられている状況だ。自分は、頼りにならない、ろくでもない政治しかないと思っているから社会や文化の革命はどうしたらできるかを考えているが、日本はまだしばらく、でれでれとしながら行くんだろうと思う。強制力がある政治になればまた別なのだろうが、政治が変に強制力を持っても良い社会になるかどうかはわからない。人が大人になっていくように、他人や弱者のことを考えられる、身近な平等が確保される、そういう成熟した資本主義になっていけば、まだましということかもしれない」(と答えるのは吉本隆明さん)「一人ひとりが孤立し、家族も地域もバラバラというのは米国型社会、資本主義の良くないところも全部まねしたからだ」とも。

 この十年以上も状況は変わらなかったどころか、悪化しています。隆明さんの予言(予見)はみごとに外れたといいますか。いや「予言」なんかしていないし、できなかった。考えなければならないのは、「家」「家制度」そのものであることは明白です。従来言われてきた「家」は崩壊しました。いまではその形骸のみが残存していますが、まだあらたな「家」に代わるものが生まれていないように思われます。「家庭」「家族」「ホーム」「ファミリー」と、それらしき言葉はさまざですが、さて、自分はなにごしっくりときて望ましいのか、もうこの探索の旅は始まっています。

 身近な所から、手近なことから水平・平等を実現するという方向をねらう、はたしてそんな道が開けるか。自分だけが豊かになってもしょうがないじゃないか、と他者の立場に自分を置いてみる。勝ち負けというその発想自体がどうにもぼくには我慢なりませんね。沈没寸前の船の上で「勝った、負けた」と、アホぬかすな。

   山に登れば淋しい村がみんな見える (右は尾崎放哉(1885-1926))

 教育界の不良児

 一人の巨人がいた

 小砂丘忠義(ささおか・ただよし)。この人もまた、いまでは「忘れられた日本人」です。高知県の出身。生年は1897(明治三〇)年。後年、「生活綴方の父」と謳われた人物です。大正二年、高知師範学校に入学。

 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)

 大正六年四月にみずからの出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。たった一学期間いただけで、短期現役制度*により現役入隊(六週間)することになりました。

 *兵役法に定められた師範学校卒業者に対する兵役上の特典。1889年の徴兵令大改正ののち,師範学校の卒業証書を有する満28歳以下の官公立小学校教員は6週間現役に服したのちただちに国民兵役に編入する6週間現役兵制が創設された。当時一般の兵役が現役3年,予備役4年3ヵ月,後備役5年の服役後に国民兵役に編入される制であったことにくらべると大変な特典であった。この制は1918年に1年現役兵に改められた。27年の兵役法により,さらに短期現役兵の制に改められた。

 「イヤナ軍隊。殺風景ナ軍隊。軍隊ハ非常ニ殺風景ナリ。今夕フットカウ感ジタ。上官ハ大声ニカミツク様ニ叱リツケツツ呼バハリタリ。喧タリ。戦友何レモ無造作ニ大声ヲタテツツアリ。価値ナキモ馬鹿言ヲ繰リ返セルナリ。ソレデ平気ナリ。聞キ居ル人モ平気ナリ」(「軍隊日誌」)

 かならず上官が検閲することになっていた「日誌」にこのように書くのです。六ヶ月のあいだそれは一貫していました。中尉からは「日誌ハ最劣等タルヲ免レズ」と酷評されたのですが、時代がよかったのかいっさいのお咎めはなかった。「作字文章共ニ不可 然レドモ永久重宝トナスベシ」と書いたのは連隊長だった。これはどういうことだったのか。かれはいさんで学校にもどります。

   不寝番立ちてたまたま持つチョーク 思い出さるる教え子どもら

 欠点だらけの人間の仕事である

 小砂丘さんの言葉をつづけよう。

 《謝っても謝りきれぬ大きな罪悪を愛する子どもの上に毎日毎日皮をはがしてまでうちつけているかもしれないとは何という残酷な矛盾の多い、情けないことであろう。

 デリケートな感能に生きる子ども達に、涸れはてた荒びぬいた、僻みきった、乾涸した感情を以て大人の吾々がはたらきかけるのが教育だと考えたとき天下幾万ののびゆくものが艾除(がいじょ)されていることを思う時、何として、吾人は平気で仕事ができよう筈がない。(中略)

 自己の行為に対してあくまで責任をもち得るだけに深い生を続けて欲しい。教育精神なるものもここから生まれてこよう》(『極北』二号、1921年2月)

 欠点だらけの人間の仕事、それが教育者の実践だと小砂丘さんは言います。万全(完全)を期すことは望むべくもないけど、「期すべからざる万全を目あてに進む所に生の意義を認めるものである」ともいいます。教育を考えようとする人間がみずからのみにくさを自分にかくさない、その程度には美しくありたいと願った人間の肺腑の言だと読んでみるのです。

 彼は教師になった当初から教育雑誌を作ります。その面では大きな才能をもっていたといえる。「極北」もその一つです。そこに彼は「校長論」を展開します。大正十年頃のことでした。その要点は以下のとおりです。

 「所詮は校長その人に眼ざめて貰いたいのだ。そして今少し教育精神を根強いところから樹立してかかってほしい。師範学校を卒業する迄にお習いした人の道なるものは私にとってはこの上ないあやかしいものだった。そして私は一切合切根本からそれを放り捨ててしまった。そしてそれからこの『極北』が生まれ、これから他に何かが生まれる筈である」 「平素部下にはよいが一度その筋との交渉に及べばグニャリとめげこむ校長もある。自己吹聴のために部下並びに生徒を見せ物扱いする校長もある。きついことも言わぬが、いざと言う段取りになって鎌の切れぬ校長もある。わけはわからずとも其の地方の重鎮とて無闇に何のかのと勿体をつけて議論する校長もある。

 何れ挙げ来れば無数の種類があるだろう。小砂丘式に一括すれば、みんな何かにあやつられている人形である。自己ない自己である」

 あやつられ人形はいたるところにいます。だから校長もそうであっていいのだとはいわない。じゃあ、どうするか。小砂丘さんは校長職に期待したのではなかった。ひとりの人間に期待したのだ。それにしても「自己のない自己」がのさばる(というのも変な表現だが)という風潮に今昔のちがいはなさそうです。

 出る杭は打たれる

 「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」

 「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)

 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底から崩そうとしたからです。

 かれは足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会幹部」がいなかった。

 大正十二年三月、今回はみずからの意向で転任します。妻の父親が病気になったので、その看病の都合を考えてのことでした。その際、視学との間で「契約」を交わします。

 1、雑誌「極北」をやめること(教育界のゴミ掃除のための雑誌でした)

 2、吉良、中島(二人は友人だった)とは絶交すること

 3、頭髪をのばさないこと

 4、中折帽をかぶること

 このような「契約」をどうみればいいのか。同時期に師範学校に在学していた妻の妹に対して学校当局は「小砂丘たちとはつきあうな」と注意したそうです。

映画「綴方教室」
(東宝・1938年)

 さて、小砂丘と義理の妹は、それぞれの「契約」「注意」に対してどう出たでしょうか。

 中休みのつもりで、小砂丘忠義さんの俳句をいくつかを以下に。

 大芭蕉悠然と風に誇り鳴る     破れ裂けし芭蕉葉にふり注ぐ雨

 涸れ沼に崩折れし葉あり大芭蕉   巨葉鳴らし風呑まんずと大芭蕉

 大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ

 いまではまったく忘却の彼方の人となった感があります。これは当然のことで、去る者は日々に疎し、という鉄則のなせる業でもあります。だが、それゆえに、忘れようとして忘れられないという思いに駆られる人がいるのもまた事実です。小砂丘忠義さんに思いをはせる人がいろいろなところにいるのは当然です。

 戦後のある時期までさかんに支持された「生活綴り方教育」も、すでに島社会の教室から姿を消してしまいました。断定するのはまちいかもしれませんが、まったく教育の方法としては昔日の姿や形が消えているのは事実でしょう。それゆえに、このような独り言じみた駄文の片隅にでも記憶(記録)を残しておく酔狂も許されていいとぼくは一人で合点するのです。どこまで駄文がつづくか、まことにあやしいかぎりですが、急ぐ旅でもありませんので、自分の歩幅と歩調でゆっくりと、あちこち寄り道しながら歩こうという魂胆ですね。

 家族のゆくえ

 以下の一文は、民俗学者であった宮本常一さん(1907~1981)が著した『忘れられた日本人』におさめられている「名倉談義」から一部を引用したものです。昭和三五年に愛知県北設楽郡内に位置する名倉の地を宮本さんが訪れた際に土地の老人から聞いた話をまとめたのが「名倉談義」です。そこには、いまではまったくこわれてしまった村社会の姿や人間関係のありさまが眼前の事実として語られています。土地の古老、松沢喜一さんの語るところに深く耳を傾けたいものです。(無断改行の個所があります」

「名倉」は現在、愛知県設楽町の
一部となっています。

 《小笠原のシウばァさんのつれあいは、敬太郎といいまして、子供のときこの家の子になりました。わたしがまだ生まれていなかったと思いますが、そのころ西三河の幡豆郡の方はひろみでありながら、よほど暮しのむずかしいところであったそうであります。それであまった子供をこの方へ連れて来る者が多うありました。敬太郎の家もくらしがまずしうて、その母親が子をつれてやって来ましてな、方々の家へたのんであるいて、とうとう私の家へおいてかえったのであります。

 たのむといいましても、まあ、その家へいって「今夜一ばんとめて下され」とたのみます。たのめば誰もことわるものはありません。台所のいろりばたへあげて、夕食を出して、しばらく話をしていると、そのうちみなそれぞれへやへ寝にはいる。敬太郎のおふくろと敬太郎はいろりのはたにねるわけです。敬太郎のおふくろはそれがかなしうてならぬ。この子は自分がかえってしまったら、こういうように一人でここにねせられるかもわからん。そう思うと、「よろしくたのみます」ということができん。それであくる朝になると、「いろいろ、おせわになりました」といって出ていくと、とめた方も別にこだわることもなく、「あいそのないことで」といって送り出します。

 こうして家々へとまわってみて、親が気に入らねば、子供をあずけなくてもよいわけであります。敬太郎のおふくろも方々をあるいてみたが、どこの家も気に入らなかったようであります。それでわたしの家へ来た。わたしの家には、私の祖母にあたるモトというばァさんがいました。夕はんがすんでひときり話をして、みなへやへはいったが、モトばァさんが、「かわいい子じゃのう、わしが抱いてねてやろう」というと、その子がすなおに抱かれてねました。おふくろはそれを見て涙をながして喜んで、この家なら子供をおいていけると思うて「よろしくたのみます」といってかえったそうであります。

 それから敬太郎はモトばァさんに抱かれてねて大きくなりました。敬太郎は大きくなって親もとへ挨拶にかえったが、ふるさとの者にはならず、この土地のものになりました。私も敬太兄ィといってなにごとにも力を貸してもらいました。はじめはこの屋敷に家をたてて分家したのであります。そうして、わたしの家を本家にして出入りしておりました。シウさんはこの上の加藤の娘で、なかなかのしっかり者でありましたから、二人でかせいで、いまの場所へ大きい家をたてたのであります。

 この村にはもらい子が分家した者が何軒もあります。たいていは西三河の方から来たものでありました。もらい子の奉公人だからというて、むごいことをするようなことはなかったが、やしない養子には財産をあまりわけてやることはなく、跡つぎ養子には財産をゆずりました。

 わたしの家は、この村では古い家でありますが、分家も出したことがなく、たった一軒だけで何百年ほどつづきました。ところがわたしの祖父にあたる富作という人には子がなくて、上津具から国吉という子を跡つぎにもらいました。ところがこれは大して読み書きもできません。子がないのだからどうせもらうならもう一人もらおうということになって田口からもらったのが米作という人で、これがなかなかよくできた人だと富作もこの方にかかることになりましたが、これが私の父親であります。

 しかし国吉も跡つぎにもらったのですから、財産をわけんわけにはいけません。六分と四分にわけて家をたてたのが、いまの貞登さんの家で、血はつながっていないが、親の代は親類としてつきあいました。跡つぎ養子とやしない養子とはそれだけの差がありました。親類というのは祝言や葬いのときによい役がつき、また仕事の手伝いあいをします。やしない養子が分家すると、仕事の上で本家をたすけることが多くなりますが、いまわたしのうちと小笠原はそういうことはありません。祝儀・不祝儀の手伝いあいはいたします》

 家族が血縁関係によって構成されるのは基本ですが、それだけではないのも事実でした。「養子縁組」がそれにあたります。「名倉談義」に示されているのはその典型であるといっていいでしょう。その関係を持続させることで村社会を存続させてきたのでした。詳しくは延べませんが、いまでいうところの「姉妹都市」をさらに濃厚にしていけば、両者(姉妹)の間に婚姻が行われ、親類県警が生まれてくるでしょう。(なぜ「兄弟村」だの「親子町」がないのか、不思議ですね)(「親子の血縁のない者の間に、親と嫡出子の親子関係と同じ法律関係を成立させる法律行為」)(デジタル大辞泉)

 家族のかたちはさまざまです。法律の問題としてみれば、なにかと異論が出そうですが、寄り添って住まうという一点で考えれば、これからもいろいろな形態の「家族」がある可能性を否定する理由はなさそうだと思う。犬やねこなどの「ペット」も家族だという視点から「扶養手当」を支給する企業もあります。この先にはもっと多様な変化が「家族・家庭」に訪れるのではないでしょうか。(つづく)

 平和に生きる権利があるがや

 おくにことば・土佐弁編(高知市周辺)訳した人・山猫母(F) 2007・6・12改

      ---------------http://plaza.rakuten.co.jp/tenamonya/

日本に住みゆうわたしらあは、/ わたしらあや孫子(まごこ)のために、/ こじゃんとココロに決めました。

ちゃんとした方法でわたしらあの代表を決めて、/ ほんでその代表を通じてこれからいごいていきます。

全部の国々となかようしよう、/ 自由の恵みが日本の隅々までいきわたるようにしよう、

お役人らあの勝手で二度と戦争がおこらんようにしよう。

この国で一番えらいがは、わたしらあひとりひとりながやきね / とふとい声でいうちょいて、この憲法をきめるがです。

国政いうがは、国のみんなあの信頼をいちばん大事。/ 権威はもともと国のみんなあのもんやし、/ 権限を使う人はみんなあの代表ながやき、/ みんなあがそれから得た利益を受けるがは当然ながです。

こんなことらあは人間やったら誰でもがわかっちゅう本質やき / わたしらあの憲法はこのやり方でいくがです。

わたしらあは誰がなんと言うたち、/ この考え方に合わんがやったら憲法やったち、法令やったち、/ 天皇さんの命令やったちいりませんということにします。/ そんながは、従わんでえいがです。

わたしらあは、この先ずうっと平和でおりたいいうて / こじゃんと強うに思うがです。

やき、ひと同士の間で絶対大事にせんといかん高い理想を / いっつももっちょくことにします。

わたしらあは平和を大事にしゆう世界中の人らあが、/ みんなあ正直でうそをつかんと信じます。

信じることで、わたしらあは平安に生きることに決めたがです。

わたしらあは平和を守って、/ どっかを支配しちゃりましょうとか、言うことをきかんかったら痛い目に / 合わせるとか、そんなヘゴをこの世から無くすように頑張りゆう

ほかの国々のなかで「日本はしょう頑張りゆうやんか」いうて / 尊敬されるばあの国になりたいと思うがです。

世界中どこの国の人も / 怖がったり、ひもじかったりいう難儀をせんずつ / 平和に生きる権利があるがやと思うちょります。

どこの国も、自分くだけがよかったら / ほかの国はどうでもえいわらあてことじゃのうて、/ 政治のモラルいうもんは持っちょかんといかんと思います。

自律した国として / ほかの国とつき合うときにはこの考えを / 絶対腹にすえちょかないかんと思います。

わたしらあは、日本いう国の名誉にかけて / このげにえい理想と目的をほんとにするように / 持っちゅう力を惜しまんと誓います。

■憲法前文の訳例

 ▽憲法前文(一部)

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 ▽土佐弁・朝倉中訳

あてらぁは、世界中のみんなあが、命がのうなることをおとろしがったり、かつえたり、ひもじかったりせんずつ、平和の中に生きていく権利を持ちゅうことを確認するがです。

 ▽関西弁・今津中(杉嶋亜紀穂さん)訳

ウチらは世界中の人らが、おんなじように恐怖と不足していることから免れて、平和の中で生きる権利があることを確認するわな。

 ▽ルー語+関西弁・同(橋本麻未さん)訳

Weはワールド中がノット恐怖、ノット貧乏のピーポーばっかりが、ピースの中で暮らしていけるっちゅうことをalways思とく。

 ▽青森県の30代の津軽弁

わんどだっきゃ、まるっと世の中(なが)のふとんどが、ふとづにおっかなみもけがじも無(ね)んであづますぐ生ぎでってもいんだやってわがっとぐぉん。

 ▽沖縄県出身の高知大生(22)と母(50代)、祖母(70代)の沖縄方言

わったーや、世界中ぬちゅが、ぬーん恐れず、飢えるくとぅなく、平和な暮らしをする権利があいんと認めやびん。(毎日新聞・10/05/01)

 「読売新聞」の記事中に、「党総裁として憲法改正を実施し、2020年の施行を目指す方針を表明した」とあります。この御仁は自分が「憲法を改正する」というんですよ。

 その他の関係へ

 《青春期のはじめ頃、わたしがいちばん印象深く感銘したのは、太宰治の「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉だった。時はあたかも敗戦直後の焼け跡の混乱期で、わたし自身はいわば徴用動員の工科系学生くずれといった身心のデカダンス状態にあった。(中略) わたしは太宰治の逆説的でもあり、自己劇化の優れた表現でもある「家庭の幸福は諸悪のもと」に感銘しながらも、心のどこかに若干の異和感も覚えていた。この異和感の根拠がどこからくるのか、当時はよくわからなかったが、老年期の現在ではとてもよくわかる気がする。実感だけに沿っていっておけば、「家族」のつくっている小集団である「家庭」にとって、幸福か不幸かという倫理的な課題は第一義の意味をもたないからだ。不幸はどこからでもやってくるし、幸福もまたどこからでもやってくる》(吉本隆明「家庭論の場所」『家族のゆくえ』所収。光文社、2006年)

 家族の問題。どんなひとも「家族」とは無縁で存在できないという素朴な原点を忘れないようにしたい。その家族問題について吉本さんが八十になって悟るところがあったとして、一冊の語り下ろしを公刊した。その根拠になったのが太宰治の家族を負の側面から描いた小説だった。いわれてみればたしかにそうで、太宰の家族論はおおきく偏光した風景にいろどられているようです。

 それはともかく、家族問題を考える視点として、吉本さんはふたつをあげておられます。

 そのひとつは個人に関する点です。家族を構成する個々人の相関関係(「対幻想」なることばで表現できるもの)という側面です。家族モデルということがしばしばいわれますが、モデルを示してなにをいおうとするのか。わたしにはよく理解できないところです。ひとつの家族だけでもつねに変貌しつつあるのですから、それを固定してとらえたつもりになったとして、その実態はかくされてしまうからです。形はいつでも変形し、壊されるものです。

 《…家族もまた、親和と反撥、幸と不幸にあざなわれた巨大な謎だとおもう。家族問題だけに専念できたとしたら、それだけで生涯を費やす大事業になることは疑いない。あなどってはならないとおもう。生理的・性(心理)的なことではなかろうか》

 もうひとつは、社会や国家に関する問題(「共同幻想」ということばで表される)です。

  この点にかかわって、こんにち社会的な関心をもたれているのは結婚しない人びとの増加と少子化という問題です。

《象徴的にいえば、女の人が男をバカにするようになったことだ。つまり「男女同権」 という旗を高々と掲げて―「結婚して出産するなんてわずらわしい」「結婚なんかしなくても経済的に自立できればそれでいいんだ」という考え方が蔓延してきたことである。 「出産拒否」と「晩婚化」といいかえることができる》 

 このような指摘はさらに加速度をはやめて坂道を下っているのか、上っているのか。

 家族の問題をかんがえようとするとき、どのような視点からとらえるか。多様であるようにみえても、じつはきわめて単純なことがらなのかもしれません。他人の始まりが「家族」だし、家族の始まりは「他人の関係」なんだと言ってしまえば身もふたもない話ですが、「家族の関係」に対立するような「他人の関係」、さらにはその他「ハイブリッドな関係」という視点も欠かせない問題として、ぼくは考えてみたいんですね。

 時代がどんなに変わろうと、それは人間が生活する環境にあらわれる表面上の変化であって、個々人の心理や意識の深部(内面)は変わらないというより、変えられないのだといえるかもしれない。とはいっても、見えないところでどんなことが生じているのか。

 親殺しや子殺しの原因、あるいは社会的な背景にはさまざまな要素がからんでおり、いちがいにいうことは適切ではありません。でも、すくなくとも「教育」「学校」「学歴」というものがそれぞれに対して大きな圧力となっていることは否定できないと思われます。

「学歴尊重」という社会現象(問題)がいまだに人心をつかんではなさないということになるのでしょうか。家族や家庭という「育つ―育てる」という場のあり方がそのまま教育(学校)問題に直結しているという点では共通しているのではないか。教育問題が家庭という小さな集団を直撃しているのです。

 そして学校においても「たがいに支えあう」という根本の働き(関係)が失われてしまえば、それはひたすら「学力・成績」や教師の評価を求めるだけの闘争の場とならざるをえない。また、そのような競技場になるためにひたすら猛進してきたのも事実ではなかったか。(つづく)