出る杭は打たれる
「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」

「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)
一日、学年末おし迫って、郡役所で視学と会って話した。用件は私の転任問題についてゞである。
「小砂丘君、全くやりきれない。僕は今日で、三日三夜、碌に眠っていないんだよ」
といって、椅子を三つ接ぎ合わせて、物だるげにその上に横になり、肘を深く首の下に曲げた。はたげた胸のあたりから小形の蟇口が、カチリと床にすべりおちた。拾い上げながら話し出す。
「君、眠くって仕方がない。一寸失敬するよ」
私は神妙に卓を隔てゝ、その如何にも億劫げに見開いている睡眠不足の眼を見ながら、にこにこして話を聞いているうちに、せんでもいゝ苦しみをしている彼をかわいそうにさえ思った。

「兎に角、うんとやってくれたまえ。君は人並以上やれる男だということは誰も知っている。けれども、誰一人君を採用しようという校長はないというんだがね。だから今度中々骨だよ」
私が足掛九年の教員生活中、学校をめぐること七回という浮き草振りを発揮した中、この時がたった一度、自分から、というより余儀なくされて転任を申出でた時の話である。その言う処では、一つ当りをつけて交渉中だが、条件によっては採用してもいゝという校長があって、今日の私の態度如何をそれとなくその校長がのぞきに来ているというまるで、身売りの下見にひき出された恰好である。(小砂丘忠義「転任漫談」「教育の世紀」1927年3月号)
転任を申し出た理由は病父の看病だった。そこで出された条件は、前にも触れました。「中折帽をかぶれだとか、髪やひげを伸ばさぬこと、校長の悪口をいわぬこと、私のやってる雑誌の発行をなるべく止めてほしいといった、要するに人並になってやれという」「むしろ馬鹿げきったものばかり」だった。教師は光であればいい、それが小砂丘さんの心情だった。一年おれば一年の光がある、二年、三年いなければ光らないような性質のものではないというのです。
「教師は何等かの光であればよい。恰も、航行者に於ける灯台の如きものである。日中でさえも船は難破することもあれば、衝突することもある。まして暗夜のことだ。しかしそれらは灯台の罪でも、元より手柄でもない。灯台は黙々として、あらん限り光っていればいい」

師範卒業の前に博物の教師は「小砂丘は一番さきに校長になる人間だが、部下には信頼されそうもない」といわれたが、その易者みたいな予言はあたらなかった。部下にも友人にもたいそう好かれたからでした。しかしどういうわけか、「校長や視学、教育界の重鎮なるものが、私を目の敵にしていた」のです。
八年何ヶ月かの教師生活中、なんと七度も転任を命じられたというのは驚きです。ついに、彼は愛想を尽つかしてしまった。
「私には、如何に新しがっていてもどうすることも出来ぬ校長の頭の加減と、追われるが至当だと澄まして傍観している同僚の友愛さが手にとる様に読めてみれば、此上は私がさっさと出てゆく外ないと思われてくるのであった」
そのような覚悟を決めかかっていたところへ新視学が呼びにきた。
「就職口があったから、今度こそ、今迄の態度を改めてやってくれ。君はどこまでも、人の誤解を受ける様にするからいけない」
「十年近く、やってもやっても、誤解されるというならば、私はそれで結構です。その誤解されているまゝの男が、私の全てゞしょう」

「その言葉がいけない。誤解されて平気でいるということがあるか。それを解くべく努めなければならぬ。心を入れかえなければいけない」
「心を入れかえるといって、そう簡単に入れかえ得る心をもってはいない。…だから私は毫も心を入れかえる必要を認めない。…心を入れかえるなんて、馬鹿げたことは、子供にいうことであると思う」
私の友は「小砂丘を使う校長がいない」といった時「彼を校長にする視学がいないのだろう」とその視学にいったことがある。真相はこゝにある。真実みんなが人間になれば、も少しみんなの生き得る転任があるだろう。真実彼らが人間としての真実を持たないが故に、不純な気もちの転任を命ずる。そんな時、あくまで是に対抗するということは必要である。(中略)

私に比べると、私の妹は確かに勇敢である。妹は師範を卒業すると山奥の学校へやられた。所が妹は頑として応じない。
「私はそんな所でやれないことを知っている。そこへ困りにゆくことは私には出来ない」というのである。その為にうけるべき制裁は喜んでうけるといって、本人が赴任しないものだから、おかげで、校長も、視学も、師範の校長までも、少からずいじめぬかれていた。(同上)
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いろいろな意味で、「教育にひとを得る」という問題をぼくは小砂丘さんらの処遇などをみていて強く感じます。現場(教師)と行政(視学・教育委員会)の関係に代表されるテーマです。内容や実情を詳しくな知りません(まったく無知ということではありませんが)。なん人かの校長だった友人や知人がいたし、それなりの交友もありましたから、それぞれがたいへんであるということは感じていました。現場と現場監督のあいだならまだ事情は互いに理解もできるし、納得もできるでしょう。同じ土俵に立って批判しあうという、改善・向上の余地もあるのだろうと思われます。
そもそも、土俵がちがうんですね。かたや「丸い土俵」なら、こなた「四角い土俵」です。勝負にならない。

だが、現実には小砂丘さんが嘆いたような事態はいつでもどこにでも多く見られるのも確からしいのです。子どもたちと教師たちの共同作業である「教育」をクロコに徹して条件整備する、その役割に専念すれば問題の起こる余地もうんとすくなるだろうに。残念ながら、見つめる方向がちがっているのだから齟齬をきたすのが当然です。ある人曰く「同じ穴の狢でいいじゃん」別人はのたまう「おれは嫌だね」と。いつまで続くぬかるみぞ。

「真実みんなが人間になれば、も少しみんなの生き得る」道も開けてくるのです。誰彼の善悪をいっても始まらないという気もします。結論など出ようはずもないのですから。「ひとを得る」といいましたが、これは一面ではないものねだりで、すでに「ひとを得ている」とも思われますから。妙な言い方ですが、はたして小砂丘さんの能力や資質を評価し、思う存分に活躍の場を支えてくれる行政側の人間がいたとして、彼に代わる新たな(別の)人物が来てもそうなる保証はどこにもありません。また彼(ササオカ)は評価に値しないという言い分も「一理」かもしれないと思わせるのが教育界というところでしょうから。毀誉褒貶は人界の常、人事の常態です。
みもふたもないいいかたですが、ようするに自分の思うところを成し遂げようとし、それを阻害するものが出てきたら闘うしかないのです。(あくまでも現場における実戦で、教師は武闘派であるべし。それは嫌だ、という教師がいてもいい)どこまでも「子どもの側」に立ちつづければ、きっとあちこちから鉄砲玉や矢が飛んできます。「社会状況」に批判的になれば、かならず批判(非難)されるようになる。さらにそれが先鋭化すれば「対立」に発展します。

「小砂丘」や「上田」は「一高知県」の「この時代」にしかいないのではない。いつでもどこでも同じ問題はくりかえされる(当事者にとってはいつでも初体験ですが)。歴史はくりかえすのではなく、止まっているんですね。ぼくはこれまで、あちらこちらの「校長室」を訪ねたことがどれだけあったことか。わあー珍しい!と驚嘆した校長の居所は一か所もなかった。(どこでも「歴代校長」の写真がありました。それは仏壇室でした。まるで先祖代々、何代目に当たるのが「オレ(当代)」といっているようでした。「灯台」じゃありません)歴史は確実に止まっているのです。歴史なんかない、進歩がないということ・百年一日。「校長」は必滅でも、「校長室」は不滅です。
ぼくには「校長室」は鬼門でした。だから「鬼門の主」との相性は悪かったし、いまも悪いんですね。