彼は微笑で人生を大肯定した

 「四月に当校へ来ました時は三年以上はいて、きっと何とかの仕事をしてみるつもりでしたのに、止むをえない都合のため出来かねることになりまして、私にとりましてもまことに残念で仕方がありません。

編集責任者だった雑誌

 折角たてた経営案も十分に自分の手で行い得なかった事を、まことに心残りに思いますし、皆様にも相すまなく思います。

 私は、生徒が明るい心で進んで勉強しようとするような、たとえ幼いなりにでも独り立ちしてどこへ行っても困らぬようにやってゆける、その基礎を作るのを今年一ぱいの仕事ときめておりました。

 私という人間は高知県では教師仲間に知らぬ者のない厄介者となっております。というのは会の時に議論したり、雑誌を出して教育論を発表したりして、郡や県の役人ににくまれたり、えらい校長にきらわれたりして、とうとう小砂丘はいけないとなっているのです。

 私が一生懸命にやればやる程、誤解は深まります。それで世間の教師並みにやれとの忠告をあびます。世間並みとはまず私の信念をすててというのですが、それはできぬ性分です。

 今度の上京は主としてこの世間並みにはやって行けぬ為、と今一つ貧乏の為なのです。上京したとて金のとれる見込みは一つもありませんが、今度やめると八年間教師をした僅かばかりの一時恩給がもらえますから。皆様へは多大の御迷惑をおかけすることになりますが、お許し下さいませ。 たとえ私はどんなに世間の教育者におじられきらわれましても、教育は大変すきです。そして又一番大切な仕事だと信じています。ですから今ここをやめていっても、やはり教育に関係した仕事にうちこみます。

 私は僅か半年とはいえ、この土地でお世話になりましたことへの感謝を生涯抱きしめます。長女夢はここに来て這いだし立ちだし、片言も始めるという成長をしましたし、それに私の教師をやめる最後の活動をした土地になりましたものですから。どうしてもこの土地への親愛をとり去る事はできません。生徒に別れゆくこの悲しさと、いじらしさを痛感するにつけましても、私はこの村にほんとの教育の育ちゆくことを望んでいます。

 教育第一の声ばかりではだめです。教育の振興は百般の隆盛の基だということを知っていただきたいのです。それを知るには一つの遠大な希望と方針です。も一つは皆が教育を理解することです。

 教育とは学校の先生がするものだとばかり思っては不十分です。村民全体、国民全体連帯責任でやるべき最上の仕事なのです。どうしても教育については、みんなの者が、研究してかからんとだめです。家庭では実務はとれんでもよい、大見識をもって、教育の精神を体得してもらわんとなりません。どうかこの意味において、皆様が常に教育の為に御専念下さいますことを祈ります。皆様のおしあわせと共に」。  去らんとする田井村第一校住宅にて。 小砂丘

 《僅かに九ヶ月で「東京」へ行かれたが、去られる前に、児童一人一人に対し、それぞれの性質の応じて、日頃使用所持しておられた色々の物を下さった。お前は書き方がうまいからといっては、筆、硯を、お前は綴方がうまいからといっては、「赤い鳥」という風に。 

 別れの日は辛かった。女の子たちは皆泣いた。Tやんが声を挙げて泣いた。私もこらえ切れずに泣いた。しばらくは学校行きが淋しくて空しかった。

池袋児童の村小学校・野村芳兵衛さん

 その頃から私は、ひそかに、将来教師になろうと思いはじめていた。

 私の教師志向や願望のあれこれは、小砂丘先生に対する憧れや、先生の情熱と気魄の影響が、決して少なくなかったと考えている。

 四十年に余る長い教員生活の中でも、何かにつけて先生を思い出し、自ら励まし反省するよすがとしていた。教育実践の場でも、相つぐ教育闘争の場でも、いつも小砂丘先生を背中におぶっていて、先生が肩越しに私をのぞいて居てくださったのである》

 このように記すのは小砂丘のクラス最後(田井小学校)の児童であった沢田年(すすむ)さんです。父母への「別れの挨拶」(上掲)を書いたのは大正十四年十一月末のことでした。十二月三日には東京池袋に開かれたばかりの「児童の村小学校」に到着した。二十八歳でした。(やがて上田庄三郎さんと再会します)

 ここから小砂丘忠義の闘いの第二ラウンドが始まったのです。十二年間の壮絶な闘いが。

 《居てくれるなといふところに止ることは出来ぬ。如何に堂々たる理由を並べてみたところで、結局は私のゐることが嫌いなのである。さうは云いかねて小細工ばかりせねばならぬ人間の心は、やはり一朝一夕には治らぬ弱さである。自分がゐたからだと思へば、所詮我身の劫の深さをあはれむ心になる。

 で私は次の学校へいつた。ここでこそ思ひきり、教育学を知らぬ教育をやりはじめた。何にも知らぬ故に、何物にもこだわることなく、伸び伸びしていきさうに思はれた》(小砂丘忠義「転任漫談」)

 小砂丘さんの父親と従兄弟であった人の子どもに津野松生という方がおられた。小砂丘さんとは又従兄弟にあたります。津野さんは小砂丘さんの生徒でもあった。また、彼の影響を受けて、後年は小学校の教師になり、小砂丘さんの上京とともに東京に移り、生涯にわたって、その近くにいたのでした。さらに後年(1974年)、『小砂丘忠義と生活綴方』という本を出版されました。津野さんは上田庄三郎さんとも懇意でした。(何年前になりますか、ぼくは土佐は宿毛まで出かけて、津野さんを尋ねたのですが、すでに亡くなられていました。ひそかに、彼の終の棲家を覗き見るばかりでした)

 「わしはどこっちゃあで使うてくれんようになって、ここ(土佐郡田井村・田井第一小学校)へ来た。ここで皆さんがわしを悪う云うたら行くところがないきに、どうぞうんとほめとうせ」

 大正十四年三月のことでした。この年、十一月末には上京の途につきます。これ以降、一度も教壇に立つことはなかった。全国から届けられる子どもたちの作文に埋もれながら、そのひとつひとつに目を通し、批評を書いた。雑誌「綴方生活」の編集をほとんど一人でやりとげた。

 来る日も来る日も「作文」(「生活綴方」)を読みつづけていました。

 いったい、彼を駆りたてたものはなんだったか。

 「瀕死の床にありながら『綴方生活』の校正をみ、『腹水はどちらから出ても同じことじゃ』といって、夫人を慰めるためにじょうだんを云っているところ、どんな苦難のなかでも笑って戦った小砂丘の不敵な生活精神があった。小砂丘の笑顔以外は思い出せないほど、彼は微笑で人生を大肯定した。いかなる場合にも悲観しなかった」と追悼の言葉を書くのは、刎頸の友だった上田庄三郎兄でした。

  昭和十二年十月十日、死去。四十一歳でした。

  死の床に横たわりながら詠んだ句をひとつ、ふたつ、みっつ。

   窓開けば窓だけの秋深みけり

  大芭蕉悠然と風に誇り鳴る

  大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ

+++++++++

 小砂丘さんは無念であったろう。彼を受け入れることを拒否し、あろうことか姦計をめぐらせて「追い出し」をはかったのは行政(現、教育委員会)の連中でした。どうして一人の教師を総がかりでいじめ倒したのか。彼らには小さな自負心(優位意識)があった。だが忠義さんはそんなものを歯牙にもかけなかった。まず子どもたちを。この一事を彼はゆるがせにできなかったのです。彼の残した膨大な資料のほんの一部しか見ていないぼくですが、今につながる行政官僚の事なかれ主義に身命を賭して戦った忠義さんの孤軍奮闘に、なろうなら連なりたかったという世迷いごとを、ぼくは若いころから内心で唱えていたほどです。

 「教育とは学校の先生がするものだとばかり思っては不十分です。村民全体、国民全体連帯責任でやるべき最上の仕事なのです」と、教育を愛しぬいた、子どもを何よりも大事にした忠義さん。

(蛇足 コロナ禍に乗じて「九月入学」制を言い出す無責任。「先陣のさきがけ」かよ。「功名」に逸ってるんだな。これもまた「選挙運動」なんだね。「常在戦場」というらしい。「知事たちは、まず住民の生命・財産を守ることに専念すべきです。(ぼくは四月でも九月でもかまわない、それが子どものため、親のためになるのなら、です)だが、ドサクサに紛れるように、「九月からやろう」と言い出しかねない不見識は看過できませんね。根拠も見識も見当たらないな)

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)