彼は微笑で人生を大肯定した

 「四月に当校へ来ました時は三年以上はいて、きっと何とかの仕事をしてみるつもりでしたのに、止むをえない都合のため出来かねることになりまして、私にとりましてもまことに残念で仕方がありません。

編集責任者だった雑誌

 折角たてた経営案も十分に自分の手で行い得なかった事を、まことに心残りに思いますし、皆様にも相すまなく思います。

 私は、生徒が明るい心で進んで勉強しようとするような、たとえ幼いなりにでも独り立ちしてどこへ行っても困らぬようにやってゆける、その基礎を作るのを今年一ぱいの仕事ときめておりました。

 私という人間は高知県では教師仲間に知らぬ者のない厄介者となっております。というのは会の時に議論したり、雑誌を出して教育論を発表したりして、郡や県の役人ににくまれたり、えらい校長にきらわれたりして、とうとう小砂丘はいけないとなっているのです。

 私が一生懸命にやればやる程、誤解は深まります。それで世間の教師並みにやれとの忠告をあびます。世間並みとはまず私の信念をすててというのですが、それはできぬ性分です。

 今度の上京は主としてこの世間並みにはやって行けぬ為、と今一つ貧乏の為なのです。上京したとて金のとれる見込みは一つもありませんが、今度やめると八年間教師をした僅かばかりの一時恩給がもらえますから。皆様へは多大の御迷惑をおかけすることになりますが、お許し下さいませ。 たとえ私はどんなに世間の教育者におじられきらわれましても、教育は大変すきです。そして又一番大切な仕事だと信じています。ですから今ここをやめていっても、やはり教育に関係した仕事にうちこみます。

 私は僅か半年とはいえ、この土地でお世話になりましたことへの感謝を生涯抱きしめます。長女夢はここに来て這いだし立ちだし、片言も始めるという成長をしましたし、それに私の教師をやめる最後の活動をした土地になりましたものですから。どうしてもこの土地への親愛をとり去る事はできません。生徒に別れゆくこの悲しさと、いじらしさを痛感するにつけましても、私はこの村にほんとの教育の育ちゆくことを望んでいます。

 教育第一の声ばかりではだめです。教育の振興は百般の隆盛の基だということを知っていただきたいのです。それを知るには一つの遠大な希望と方針です。も一つは皆が教育を理解することです。

 教育とは学校の先生がするものだとばかり思っては不十分です。村民全体、国民全体連帯責任でやるべき最上の仕事なのです。どうしても教育については、みんなの者が、研究してかからんとだめです。家庭では実務はとれんでもよい、大見識をもって、教育の精神を体得してもらわんとなりません。どうかこの意味において、皆様が常に教育の為に御専念下さいますことを祈ります。皆様のおしあわせと共に」。  去らんとする田井村第一校住宅にて。 小砂丘

 《僅かに九ヶ月で「東京」へ行かれたが、去られる前に、児童一人一人に対し、それぞれの性質の応じて、日頃使用所持しておられた色々の物を下さった。お前は書き方がうまいからといっては、筆、硯を、お前は綴方がうまいからといっては、「赤い鳥」という風に。 

 別れの日は辛かった。女の子たちは皆泣いた。Tやんが声を挙げて泣いた。私もこらえ切れずに泣いた。しばらくは学校行きが淋しくて空しかった。

池袋児童の村小学校・野村芳兵衛さん

 その頃から私は、ひそかに、将来教師になろうと思いはじめていた。

 私の教師志向や願望のあれこれは、小砂丘先生に対する憧れや、先生の情熱と気魄の影響が、決して少なくなかったと考えている。

 四十年に余る長い教員生活の中でも、何かにつけて先生を思い出し、自ら励まし反省するよすがとしていた。教育実践の場でも、相つぐ教育闘争の場でも、いつも小砂丘先生を背中におぶっていて、先生が肩越しに私をのぞいて居てくださったのである》

 このように記すのは小砂丘のクラス最後(田井小学校)の児童であった沢田年(すすむ)さんです。父母への「別れの挨拶」(上掲)を書いたのは大正十四年十一月末のことでした。十二月三日には東京池袋に開かれたばかりの「児童の村小学校」に到着した。二十八歳でした。(やがて上田庄三郎さんと再会します)

 ここから小砂丘忠義の闘いの第二ラウンドが始まったのです。十二年間の壮絶な闘いが。

 《居てくれるなといふところに止ることは出来ぬ。如何に堂々たる理由を並べてみたところで、結局は私のゐることが嫌いなのである。さうは云いかねて小細工ばかりせねばならぬ人間の心は、やはり一朝一夕には治らぬ弱さである。自分がゐたからだと思へば、所詮我身の劫の深さをあはれむ心になる。

 で私は次の学校へいつた。ここでこそ思ひきり、教育学を知らぬ教育をやりはじめた。何にも知らぬ故に、何物にもこだわることなく、伸び伸びしていきさうに思はれた》(小砂丘忠義「転任漫談」)

 小砂丘さんの父親と従兄弟であった人の子どもに津野松生という方がおられた。小砂丘さんとは又従兄弟にあたります。津野さんは小砂丘さんの生徒でもあった。また、彼の影響を受けて、後年は小学校の教師になり、小砂丘さんの上京とともに東京に移り、生涯にわたって、その近くにいたのでした。さらに後年(1974年)、『小砂丘忠義と生活綴方』という本を出版されました。津野さんは上田庄三郎さんとも懇意でした。(何年前になりますか、ぼくは土佐は宿毛まで出かけて、津野さんを尋ねたのですが、すでに亡くなられていました。ひそかに、彼の終の棲家を覗き見るばかりでした)

 「わしはどこっちゃあで使うてくれんようになって、ここ(土佐郡田井村・田井第一小学校)へ来た。ここで皆さんがわしを悪う云うたら行くところがないきに、どうぞうんとほめとうせ」

 大正十四年三月のことでした。この年、十一月末には上京の途につきます。これ以降、一度も教壇に立つことはなかった。全国から届けられる子どもたちの作文に埋もれながら、そのひとつひとつに目を通し、批評を書いた。雑誌「綴方生活」の編集をほとんど一人でやりとげた。

 来る日も来る日も「作文」(「生活綴方」)を読みつづけていました。

 いったい、彼を駆りたてたものはなんだったか。

 「瀕死の床にありながら『綴方生活』の校正をみ、『腹水はどちらから出ても同じことじゃ』といって、夫人を慰めるためにじょうだんを云っているところ、どんな苦難のなかでも笑って戦った小砂丘の不敵な生活精神があった。小砂丘の笑顔以外は思い出せないほど、彼は微笑で人生を大肯定した。いかなる場合にも悲観しなかった」と追悼の言葉を書くのは、刎頸の友だった上田庄三郎兄でした。

  昭和十二年十月十日、死去。四十一歳でした。

  死の床に横たわりながら詠んだ句をひとつ、ふたつ、みっつ。

   窓開けば窓だけの秋深みけり

  大芭蕉悠然と風に誇り鳴る

  大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ

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 小砂丘さんは無念であったろう。彼を受け入れることを拒否し、あろうことか姦計をめぐらせて「追い出し」をはかったのは行政(現、教育委員会)の連中でした。どうして一人の教師を総がかりでいじめ倒したのか。彼らには小さな自負心(優位意識)があった。だが忠義さんはそんなものを歯牙にもかけなかった。まず子どもたちを。この一事を彼はゆるがせにできなかったのです。彼の残した膨大な資料のほんの一部しか見ていないぼくですが、今につながる行政官僚の事なかれ主義に身命を賭して戦った忠義さんの孤軍奮闘に、なろうなら連なりたかったという世迷いごとを、ぼくは若いころから内心で唱えていたほどです。

 「教育とは学校の先生がするものだとばかり思っては不十分です。村民全体、国民全体連帯責任でやるべき最上の仕事なのです」と、教育を愛しぬいた、子どもを何よりも大事にした忠義さん。

(蛇足 コロナ禍に乗じて「九月入学」制を言い出す無責任。「先陣のさきがけ」かよ。「功名」に逸ってるんだな。これもまた「選挙運動」なんだね。「常在戦場」というらしい。「知事たちは、まず住民の生命・財産を守ることに専念すべきです。(ぼくは四月でも九月でもかまわない、それが子どものため、親のためになるのなら、です)だが、ドサクサに紛れるように、「九月からやろう」と言い出しかねない不見識は看過できませんね。根拠も見識も見当たらないな)

 親も子も、遊びをとりもどそう

 (もう四十年以上も昔の出来事になりました)

 受験校として名だかい開成高校の生徒が、父母をなぐりつけるので、父親が思いあまってその子を殺した事件。早大高等学院の生徒が、祖母に見張られていることを苦にして、反撃に出て殺した事件など。戦前にも、この種の事件はあるいはあっただろうから、ゆたかさにもかかわらず、戦後の日本には、この種の家庭内の殺人事件がおこっているというふうに考えるのが、適切だろう。ゆたかさにもかかわらず、この種の家庭内殺人がおこるのは、前の二つの例ではいずれも、家庭の内部にまで大社会の受験競争の気風が入りこんできていることに一つに重大な原因がある。(鶴見俊輔「世代から世代へ」)

   旧聞に属します。以下のような事件が起こりました。それは偶然の出来事だったのかどうか。

 母親の頭部持ち少年自首 17歳高3逮捕 会津若松

 15日午前7時ごろ、福島県会津若松市花春町、県立高校3年の少年(17)が、首から切断された女性の頭部を入れた手提げバッグを携え、「母親を殺した」と会津若松署に自首した。署員が少年の住むアパートを調べると、母親とみられる頭部が切断された遺体が見つかった。同署は殺人容疑で少年を緊急逮捕した。

 同署によると、少年は自首した際、取り乱すなど動揺した様子はなく、調べにも落ち着いて応じた。「自宅アパートで夜中、母親の首を1人で刃物で切って殺した」と供述したという。

Oedipus

 アパートで見つかった遺体には刃物のようなもので切断されたあとが見られ、遺体の近くには刃物があった。遺体の頭部は何かで包んだりはせず、そのままバッグに入れられていた。

 少年は奥会津地方の出身。会津若松市内の県立高校に通うため、高校2年の弟と2人でアパートを借りて住んでいた。母親は実家からアパートを訪ね、被害に遭ったとみられる。

 少年が通っていた高校は午前中、急きょ臨時休校とし、生徒を帰宅させた。校長らが緊急会議を開き、対応を協議した。(以下略)(河北新報・07/05/15)

 時代がどんなに変わろうと、それは人間が生活する環境にあらわれる表面上の変化であって、個々人の心理意識の深部(内面)は変わらないというより、変えられないのだといえるかもしれません。とはいっても、見えないところでどんなことが生じているのか。

著者はソニーの創業者

 親殺しや子殺しの原因、あるいは社会的な背景にはさまざまな要素がからんでおり、いちがいにいうことは適切ではありません。でも、すくなくとも「教育」「学校」「学歴」というものがそれぞれに対して大きな圧力となっていることは否定できないと思われます。

 「学歴尊重」、いや「学歴偏重」という社会現象(問題)がいまだに人心をつかんではなさないということになるのでしょうか。開成や早大付属校の生徒にかかわる事件と新聞記事にある会津若松における事件とは似ているとも似ていないともいえるでしょう。しかし、家族や家庭という「育つ ― 育てる」という場のあり方がそのまま教育(学校)問題に直結しているという点では共通しているのではないか。教育問題が家庭という小さな集団を直撃、爆撃しているのです。

 そして学校においても「たがいに支えあう」という根本の働き(関係)が失われてしまえば、それはひたすら学力や教師の評価を求めるだけの闘争の場とならざるをえない。それもまた、競争や闘争が「教室」を轟沈させているのです。また、そのような競技場になるためにひたすら猛進してきたのも事実ではなかったか。なぜそうなったか。優劣の競い合いが「経済社会」のあらゆる場面で進行しているからです。勝ち負け、それこそが人間の幸せの程度を決めるのだというのですか。コロナ禍にあえいでいる最中にも、どこかで優劣の差を強いる圧力が働いているのです。

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 「テレビが普及して子供の多くはそのまえにへばりついている。親の注意で多少ひかえている子供があるにしても、いま一日のうちで、一番多くの時間を費消しているのは、眠る以外にはテレビを見ることではないかと思っている。

一家で鑑賞

 と同時に街頭や広場で子供を見かけることが少ない。一つは道路に車があふれて、子供たちのあそぶ余地がなくなったことも原因していよう。今から一〇年まえまでは子供たちは街頭であそんでいたものである。街頭でなければお宮の森、寺の境内、空地などがあそび場で、そこで日がくれてくらくなるまであそんだ。(中略)

 しかも、子供たちの間に、それほど多くのあそびの持たれたのは、親たちがいそがしすぎて、子供のことにかまけている間がなかったからである。親は朝くらいうちから、夜くらくなるまで働いた。子供たちはその間自分らの仲間であそばねばならぬ。ごく小さいときは子守りの背で、一人あるきができるようになれば、子供たちで仲間をつくってあそんだ。そしてそこにはおのずから子供たちのささやかな自治も存在した。「子供のけんかに親が出る」ということは大人社会でもいちばん軽蔑せられたもので、子供世界は子供のものであり、眼にあまるようないたずらをしいている場合はともかくとして、子供同士がつかみあいをしていても大人は笑って見ていることが多かった。(宮本常一「こどものあそびの行方」宮本常一著作集第13巻所収。未来社刊、1973年)

街頭テレビ

 宮本さんがこれを書いたのは一九六八年でした。この当時の状況は、一面においては今日の街の姿、子どもの生活を先取りしていたと考えられます。子どもの遊びが少なくなり、それにとって代わって、テレビやゲームが一人一人の子どもの遊び相手となった経過はそのとおりですが、子どもの遊びが少なくなったというよりは、子どもの遊びに親が干渉するようになったことがもっとも大きな時代の風潮となったのです。

 これを宮本さんは次のように指摘されています。

 「しかし小学校から中学校へ、さらに高校へのルートがひらけて、自分の前途に広い世界のあることがみえてくると、人はその方の道をえらび、親はまた子をそうしたルートに向わせようとする。親が子供のあそびに干渉しはじめたのは一般民衆に進学ルートがひらけてきてからのことである。少しまえまで子供は自由にあそんだ。そのとき鍵っ子は問題ではなかった。あそぶ子がいなくなると鍵っ子が問題になってくる。道路に自動車がふえただけで街頭から子供の姿がへったのではない」(同上)

紙芝居をただちに実演

 学校が子どもの生活を独占した、あるいは支配するようになったのです。朝から夕方まで、さらには帰宅してからの時間の使い方まで学校(教師)、それにつられて親までがあれこれと口出しするようになったというのが、子どもの遊びが街中から消えた大きな理由だったというのです。

 「今まで人間は人間であるとともに自然児であった。青空のもと太陽のもとで育った。それがくったくのない性格をつくり出した。しかしいま子供たちは家の中に釘づけにされ、親にしばられて太陽の子ではなくなってきたという感をふかくする」(同上)

紙芝居(要見物料)

 子どもの遊びが消えたということは親の生活にもゆとり(遊び)がなくなったことを意味します。大人も子どもも、ゆとりもあそびもない乾燥しきった、あるいは湿気でいっぱいになった生活を余儀なくされるようになった時代と社会、それが今日まで延々とつづいてきたのではなかったでしょうか。

「これらの事実を通して今実に大きな人間の革命がおこりつつあると思うのは私一人で あろうか。これから、二〇年、今の子供たちが大人になってゆく時代の変化は、想像をこえるものがあるのではないかと思っている」(同上)

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 子どもの遊び、それを児戯に類するなどといって揶揄するような雰囲気がありますが、子どもの遊びこそは、大人の過去の姿であり、未来の像でもあったのです。「勉強と遊び」ではなく、「勉強の中に遊びを」「遊びの中に勉強を」、これこそがとりもどされるべき、ぼくたちの日常生活の姿ではないですか。(ただ今現在も、ささやかな遊び(パチ)を奪うことに躍起になっている行政官僚の美しくない感情があらわです。それに乗せられて「住民」までもがその列に連なっている)

 「自粛」でどれほどの効果があるのか。感染防止のための自粛なら、ぼくたちはいつまでも「巣ごもり」を続けなければならない。そして自粛を継続しているうちに、感染者が減じてくるなら、それはいったいどういうことだったのか、政治的ではなく医学的に説明しなければならないはずです。「マスクと消毒・手洗い」でまず防衛です。「自粛強要」の蔓延という、この風潮(感染性横一線症)には「虫唾」が走ります。自粛は自分でするもの、要請はお願い・依頼です。「罰則」を伴う自粛も要請もあるものかよ。大小にかかわらず「権力」は「罰(✖)」を振りまわすんだ。

 ぼくは本日も「竹取の翁」です。採るのも大変、食材にするのも大変、食するのも大変、大変✖3=しばらくは「翁」を自粛。でも長く自粛すると、庭が竹藪になる。生活の場に「遊び」があり、それがぼくの精神の「自主トレ」になるような、そんな日常があれば何も望まない。右へ行け、左に曲がれとあらぬ命令を下されることは肯んじないのです。自分のことは自分で。DIYですよ。

(じ‐しゅく【自粛】 の解説[名](スル)自分から進んで、行いや態度を慎むこと)(よう‐せい〔エウ‐〕【要請】 の解説[名](スル)1 必要だとして、強く願い求めること)(デジタル大辞泉)

  しずけさ、竹の子みんな竹になつた(山頭火)

 教師は光であればいい

 出る杭は打たれる

 「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」

 「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)

 一日、学年末おし迫って、郡役所で視学と会って話した。用件は私の転任問題についてゞである。

 「小砂丘君、全くやりきれない。僕は今日で、三日三夜、碌に眠っていないんだよ」

 といって、椅子を三つ接ぎ合わせて、物だるげにその上に横になり、肘を深く首の下に曲げた。はたげた胸のあたりから小形の蟇口が、カチリと床にすべりおちた。拾い上げながら話し出す。

 「君、眠くって仕方がない。一寸失敬するよ」

 私は神妙に卓を隔てゝ、その如何にも億劫げに見開いている睡眠不足の眼を見ながら、にこにこして話を聞いているうちに、せんでもいゝ苦しみをしている彼をかわいそうにさえ思った。

 「兎に角、うんとやってくれたまえ。君は人並以上やれる男だということは誰も知っている。けれども、誰一人君を採用しようという校長はないというんだがね。だから今度中々骨だよ」

 私が足掛九年の教員生活中、学校をめぐること七回という浮き草振りを発揮した中、この時がたった一度、自分から、というより余儀なくされて転任を申出でた時の話である。その言う処では、一つ当りをつけて交渉中だが、条件によっては採用してもいゝという校長があって、今日の私の態度如何をそれとなくその校長がのぞきに来ているというまるで、身売りの下見にひき出された恰好である。(小砂丘忠義「転任漫談」「教育の世紀」1927年3月号) 

 転任を申し出た理由は病父の看病だった。そこで出された条件は、前にも触れました。「中折帽をかぶれだとか、髪やひげを伸ばさぬこと、校長の悪口をいわぬこと、私のやってる雑誌の発行をなるべく止めてほしいといった、要するに人並になってやれという」「むしろ馬鹿げきったものばかり」だった。教師は光であればいい、それが小砂丘さんの心情だった。一年おれば一年の光がある、二年、三年いなければ光らないような性質のものではないというのです。

 「教師は何等かの光であればよい。恰も、航行者に於ける灯台の如きものである。日中でさえも船は難破することもあれば、衝突することもある。まして暗夜のことだ。しかしそれらは灯台の罪でも、元より手柄でもない。灯台は黙々として、あらん限り光っていればいい」

 師範卒業の前に博物の教師は「小砂丘は一番さきに校長になる人間だが、部下には信頼されそうもない」といわれたが、その易者みたいな予言はあたらなかった。部下にも友人にもたいそう好かれたからでした。しかしどういうわけか、「校長や視学、教育界の重鎮なるものが、私を目の敵にしていた」のです。

   八年何ヶ月かの教師生活中、なんと七度も転任を命じられたというのは驚きです。ついに、彼は愛想を尽つかしてしまった。

 「私には、如何に新しがっていてもどうすることも出来ぬ校長の頭の加減と、追われるが至当だと澄まして傍観している同僚の友愛さが手にとる様に読めてみれば、此上は私がさっさと出てゆく外ないと思われてくるのであった」

 そのような覚悟を決めかかっていたところへ新視学が呼びにきた。

「就職口があったから、今度こそ、今迄の態度を改めてやってくれ。君はどこまでも、人の誤解を受ける様にするからいけない」

 「十年近く、やってもやっても、誤解されるというならば、私はそれで結構です。その誤解されているまゝの男が、私の全てゞしょう」

 「その言葉がいけない。誤解されて平気でいるということがあるか。それを解くべく努めなければならぬ。心を入れかえなければいけない」

 「心を入れかえるといって、そう簡単に入れかえ得る心をもってはいない。…だから私は毫も心を入れかえる必要を認めない。…心を入れかえるなんて、馬鹿げたことは、子供にいうことであると思う」

 私の友は「小砂丘を使う校長がいない」といった時「彼を校長にする視学がいないのだろう」とその視学にいったことがある。真相はこゝにある。真実みんなが人間になれば、も少しみんなの生き得る転任があるだろう。真実彼らが人間としての真実を持たないが故に、不純な気もちの転任を命ずる。そんな時、あくまで是に対抗するということは必要である。(中略)

お仏壇のようです、どこも

 私に比べると、私の妹は確かに勇敢である。妹は師範を卒業すると山奥の学校へやられた。所が妹は頑として応じない。

 「私はそんな所でやれないことを知っている。そこへ困りにゆくことは私には出来ない」というのである。その為にうけるべき制裁は喜んでうけるといって、本人が赴任しないものだから、おかげで、校長も、視学も、師範の校長までも、少からずいじめぬかれていた。(同上)

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 いろいろな意味で、「教育にひとを得る」という問題をぼくは小砂丘さんらの処遇などをみていて強く感じます。現場(教師)と行政(視学・教育委員会)の関係に代表されるテーマです。内容や実情を詳しくな知りません(まったく無知ということではありませんが)。なん人かの校長だった友人や知人がいたし、それなりの交友もありましたから、それぞれがたいへんであるということは感じていました。現場と現場監督のあいだならまだ事情は互いに理解もできるし、納得もできるでしょう。同じ土俵に立って批判しあうという、改善・向上の余地もあるのだろうと思われます。

 そもそも、土俵がちがうんですね。かたや「丸い土俵」なら、こなた「四角い土俵」です。勝負にならない。

 だが、現実には小砂丘さんが嘆いたような事態はいつでもどこにでも多く見られるのも確からしいのです。子どもたちと教師たちの共同作業である「教育」をクロコに徹して条件整備する、その役割に専念すれば問題の起こる余地もうんとすくなるだろうに。残念ながら、見つめる方向がちがっているのだから齟齬をきたすのが当然です。ある人曰く「同じ穴の狢でいいじゃん」別人はのたまう「おれは嫌だね」と。いつまで続くぬかるみぞ。

 「真実みんなが人間になれば、も少しみんなの生き得る」道も開けてくるのです。誰彼の善悪をいっても始まらないという気もします。結論など出ようはずもないのですから。「ひとを得る」といいましたが、これは一面ではないものねだりで、すでに「ひとを得ている」とも思われますから。妙な言い方ですが、はたして小砂丘さんの能力や資質を評価し、思う存分に活躍の場を支えてくれる行政側の人間がいたとして、彼に代わる新たな(別の)人物が来てもそうなる保証はどこにもありません。また彼(ササオカ)は評価に値しないという言い分も「一理」かもしれないと思わせるのが教育界というところでしょうから。毀誉褒貶は人界の常、人事の常態です。

 みもふたもないいいかたですが、ようするに自分の思うところを成し遂げようとし、それを阻害するものが出てきたら闘うしかないのです。(あくまでも現場における実戦で、教師は武闘派であるべし。それは嫌だ、という教師がいてもいい)どこまでも「子どもの側」に立ちつづければ、きっとあちこちから鉄砲玉や矢が飛んできます。「社会状況」に批判的になれば、かならず批判(非難)されるようになる。さらにそれが先鋭化すれば「対立」に発展します。

 「小砂丘」や「上田」は「一高知県」の「この時代」にしかいないのではない。いつでもどこでも同じ問題はくりかえされる(当事者にとってはいつでも初体験ですが)。歴史はくりかえすのではなく、止まっているんですね。ぼくはこれまで、あちらこちらの「校長室」を訪ねたことがどれだけあったことか。わあー珍しい!と驚嘆した校長の居所は一か所もなかった。(どこでも「歴代校長」の写真がありました。それは仏壇室でした。まるで先祖代々、何代目に当たるのが「オレ(当代)」といっているようでした。「灯台」じゃありません)歴史は確実に止まっているのです。歴史なんかない、進歩がないということ・百年一日。「校長」は必滅でも、「校長室」は不滅です。

 ぼくには「校長室」は鬼門でした。だから「鬼門の主」との相性は悪かったし、いまも悪いんですね。