東京海上ビルをめぐる渦巻きをも包みこんで時代の流れは激しく動いた。ハイウェイの貫入によって街の表情を変えていったこの国の高度経済成長の先行きに、前川國男は深い危惧の念を抱いていた。「日本の現在の状況は」と彼は書いている。「あるいはこれを経済の繁栄である」とする政治家もいるであろうが、たとえ庶民はかりそめの快適さに充足感を味わっているとしても、花の枯れた旧都、鳥の鳴かない田園、そして汚辱と非行とにあふれた危険大都市のどこに、人間の尊厳をみいだしうるであろうか」と。(宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』晶文社刊)


前川國男。物故して三十五年が立過ぎようとしています。その代表作は東京文化会館、紀伊國屋書店本店、神奈川県立図書館・音楽堂、京都会館、埼玉会館、国立国会図書館新館などなど。前川も設計した建物にぼくはどれほど通ったでしょうか。若いころ河名前は知っていたが、前川がどんな人かまったく知りませんでした。上野には何十回、紀伊国屋にも。馴染まないことおびただしい建物だなあ、と感じたことは確かです。
文中にある東京海上(現、東京海上日動、左の写真)ビル問題とは、東京海上ビルの本社建て替えを前川に依頼し、65年10月に東京都に建築設計の申請を出したが東京都は皇居を見下ろすような建物を認めるわけにはいかないという理由で認めなかった。高さ制限が外され、容積率規制に切りかわった時期で、申請拒否は不当なことであったのです。(高くすることを認める、その代わりに敷地の部分を開放せよ)


これは丸の内一体に膨大な土地をもつ三菱地所の意向に配慮しすぎた都の偏った行政だったことが明らかになります。詳細は省きますが、敷地の開放は地主の三菱にとっては利益を損ねる話であって、だから三菱は東京海上ビルの建築に横やりを入れ、東京都に働きかけたのです。後には時の総理大臣が国会で、この問題に言及することさえありました。(「皇居を直接見下ろすようなビルは不敬に当たる。国民感情からしても好ましくない」)
都は条例を設けて前川設計による建築を中止させようとしたし、マスコミも「美観」をそこねるという都の方針の尻馬に乗り、無責任な報道を垂れ流していた。ようやく申請から五年を要し、最上階の五階分を削るという妥協によって認可されることになった事件をさしています。国や都の行政がだれの利益を図ろうとしているのか、事態は旧態のままなのです。

前川さんは大学卒業(23歳)と同時にル・コルビュジェのアトリエに入所。二年間の留学から帰国して以来、近代日本の代表的な建築家として生涯を貫いた人です。
ちいさなエピソードをはさみます。戦後の52年、日本相互銀行本店(*当時。下に写真あり)が竣工後に、雨漏りがひどいと聞かされた前川は「掃除の小母さんが来る前に単身その現場に赴き、外壁のプレキャスト・パネルの目地に問題があったことを突きとめ、コーティング(充填剤)を全部取り替えることにした、その経費、当時のカネで三百四十万円を自己負担して」(同上)
これに照応するような話が現世利益の建築家だった丹下健三にありました。さる有名なゴルフ場のクラブハウスを設計した彼のところへ、雨漏りがひどいのでなんとかしてほしいと支配人がたのみにきたところ「あゝ、それはどうぞそちらでご自由になさって下さい。私の仕事は、建物が出来、竣工写真の撮影がすんだら、それで終わっておりますので」これを聞いた前川は、「建築家の風上におけんよ」と吐きすてたというのです。(前川・丹下両氏は「子弟」関係にありました。この間の二人の感情のもつれは他人には分かりかねるところであります。幾分かは著者の宮内さんの言い分に、ぼくが揺れたかもしれません。いずれは心静かにして、二人の関係(子弟?)を愚考したい)
恥ずかしくなるようなグロテスクな「骨格」を日夜さらしていた東京都庁の設計も丹下さんでした。竣工後、「これは巨大な粗大ゴミだ」と言い捨てたのは気鋭の設計家の磯崎新さんでした。(ここの束の間の「主」にはどうしてろくでもない輩が座るのかな。設計者の祟りか。この地に建てるについても紆余も曲折があり過ぎました。政治家不動産屋の暗躍が)
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〇日本相互銀行の変遷(日本の企業の系譜というか、M&Aの軌跡というか)

太陽銀行┐
├─太陽神戸銀行┐
神戸銀行┘ ├─さくら銀行┐
三井銀行┘ ├─三井住友銀行

住友銀行┘
※太陽銀行の前身は大日本無尽

1940年 大日本無尽設立
1948年 日本無尽に改名。
1951年 相互銀行に転換して日本相互銀行
1968年 普通銀行に転換して太陽銀行
1973年 神戸銀行と合併して太陽神戸銀行
「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(前川國男「<建築家>」JIA1971年春号)
「いま最もすぐれた教師とは、何も教えない教師である」(?)
〇前川国男1905‐86 建築家。新潟市の生れ。1928年東京帝国大学建築学科を卒業後,渡仏してル・コルビュジエに師事し,近代建築の持つ倫理観に影響を受ける。帰国後多くの競技設計で国粋的な建築様式と対抗するが,〈大東亜建設記念営造物懸賞設計〉(1942)の審査員として丹下健三による軍国主義下の画期的作品を追認した。戦後は被災住宅の復興に力を注ぎ,また建築表現のための技術追求により戦後建築の基礎をひらいた。作品に紀伊国屋書店(1947),日本相互銀行本店(1952),東京文化会館(1961)などがある。(世界大百科事典第二版)

〇丹下健三(1913~2005) 建築家。大阪府生まれ。東京大学教授。戦後日本を代表する建築家・都市計画家として海外でも多くの作品を残す。代表作に広島平和記念資料館・新旧東京都庁舎・東京オリンピック国立屋内競技場・大阪万国博覧会会場・スコピエ都市計画・フジテレビ本社ビルなどがある。(大辞林第三版)

(蛇足 今回は前川・丹下の師弟関係を書いてみようかなと愚考したのがきっかけでしたが、それには触れられなかった。どの業界でも師弟関係はつきものです。しかし、建築・設計の世界には独特のものがあるという見立てをぼくは持っています。前川とコルビジェ、これも興味津々というところですが、いずれも機会を改めて黙考してみたいですね)
(本日は「昭和の日」だとさ。「STAY HOME」とだれに言われなくとも、ぼくは草取りや土いじりです。その合間を縫ってお買い物。ネットで「チューリップ」(佐倉)や「フジの花」(福岡)を無残にも切り落としている映像が流れていました。「三蜜」だか「八蜜」を避けるためだとか。ヤナことを言うバカ者もいるんだ。人が集まらないために「花々」を切り倒すというグロテスクな仕業、心ない仕打ち。サクラ見物を避けるために「桜木」も切り倒せばよかっただろうに。「苦渋の選択」だと。そういう選択はあるのでじゃないよ。虫唾が暴走してさ、言葉もないやね。かくして前川や丹下の設計による建物も破壊される運命にあります。やっぱり長明さんの「方丈庵」だね、それはプレハブでした)