宮本常一さんの若い日の一面

 旧知の岸田定雄から勧められて、宮本さんが郡山中学校の嘱託教師になったのは昭和十九年のことでした。その期間はわずかに一年三ヶ月にすぎなかったが、同僚や生徒たちに強烈な印象を残したのです。

 「同僚教師だった土井実は、あれほど生徒から慕われた先生はみたことがないといい、教え子の下戸保次は、穏和な表情でこの戦争は負ける、ときっぱりいった宮本の言葉が今でも忘れられないという。

郡山中学校

 『昭和十九年の七月、江田島の海兵学校の合格通知がきて先生に報告に行くと、この戦争は負ける、しかし、江田島はいま日本で一番勉強のできる環境にあるので、勉強だけはしっかりしろ、ただし、命だけはもっていかれるなよ、といわれました。あの当時はいばりちらして暴力をふるう先生が多かったんですが、宮本先生だけはいつも懇切丁寧に教えてくれ、われわれに手をあげたことは一度もありませんでした』」(佐野眞一『宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人』文芸春秋社刊)

 昭和二十年四月、郡山中学を辞めた宮本さんは大阪府庁の農務課に嘱託としてはいった。大阪府下の各地をまわり、自給体制のために指導してまわったのです。

 「宮本はあるとき、農業指導にたずねていった北河内郡の被差別部落の区長からこんな話を聞き、いいしれぬ衝撃を受けた。縁側に腰をおろし、戦況について雑談をしていたときだった。区長は突然、こういった。

 『私たちはね、本当はこの戦争は日本が勝ってもアメリカが勝ってもどっちでもいいと思っているんです。日本がおさめようが、アメリカがおさめようが、下積みであることにかわりはないのですから』

 宮本は敗戦を説き回っていたが、アメリカに占領されてもいい、と公言する日本人に出会ったのはこれがはじめてだった。

 宮本は自分のなかで区長の言葉を何度も反芻し、これはこの人一人の問題ではない。日本全国には何百万、あるいは何千万というほど下積みの生活を強いられ、自分たちの意志でないことのために働き、しかも報われることのない人びとがいるのだとあらためて思った」(佐野・同上)

周防大島

 これから一年後、二十一年八月に次男の誕生を旅の空で聞いた。ほんの数日、郷里に戻って赤子を抱き、また旅に出た。と間もなく、次男の危篤をしらせる電報がとどく。急遽引き返して家についたら葬儀の準備中だったそうです。わずか五十日にばかりの生を終えた次男に対して宮本さんはつぎのような手向けの文を書き残されました。

 「私はこの子のためにこの子が生きて果たすであろうと思われる人間としての義務と愛情と誠実とを背負うて将来を生きていきたいと思う。その祝福されたる中にふくまれていた近親者たちの希望のたとえ一部でも私や子の母によって実現したいものであると思う。そしてそれがこの疲れ果てた国土の上に少しでも生き生きしたものをもたらすためのものでありたいと思う」(同上)

 ここに、けっして強者の側に立とうとしなかった、小さな巨人がいます。

(宮本さんは昭和二年(1927)に師範学校第二部を卒業し、直ちに尋常小学校訓導に。その後は、教職と病気療養を繰り返しながら昭和十年(1935)までを過ごす。教員生活は通算でも十年に満たなかった。この年に、渋沢敬三、柳田国男に相次いで邂逅。昭和十四年に教職を辞して民俗学研究に入る。この間、渋沢の指導が大きかった)

(手持ちの資料が少なく、じゅうぶんな展開はむずかしいのですが、芦田恵之助さんとの出会いもあったからでもありませんが、「教師・宮本常一」について、できれば「綴り方」教師の視点から書いてみたいと長い間、願っているのです)

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 忘れられぬふたりの先生

 一番印象に残っているのは、高等科一年の時に習った先生ですね。かなり文学好きな先生だったんですが、この先生によって初めてぼくらの中にあった固定観念が破られたんです。絵を画くときも、それまでは線が第一で、薄く色を塗っていたのを、荒いタッチで画くのだと教えられたり、綴方も自分のいつも考えていること、それを書けばいいんだといわれて、きらいなのが好きになったりしたもんです。ところがその先生が一年ほどで転任になってしまったので、あまり残念なのでみんなで追っかけていったりしたんです。そのあときた先生は、人は良かったのですが、前の先生がやめた余韻があったり、真価がわからなかったりして、気にくわんもんですから、私が大将になって、ストライキをしたんです。そのために、ついにその先生がやめてしまったんですが、やめるとき、ぼくに“きみはおおきくなったら学者になれ、この書物はたいへん参考になると思うからきみにやる”といって、『瀬戸内海論』という書物をくれたんです。私はその書物を今でも持ってますが、ストライキをやった生徒を憎みもせずに、本をくれたんですから、今思うとやはり偉い先生だったんですね」(「農に生まれ農に生きる」「人間の科学」に所収。誠信書房、1963年10月)

渋沢敬三と

〇宮本常一(1907~1981)民俗・民族・民具・生活学者。山口県大島郡東和町(現、周防大島(すおうおおしま)町)生まれ。大阪府天王寺師範学校卒業後、大阪府下小学校、奈良県郡山(こおりやま)中学校教員歴任のかたわら近畿民俗学会で活躍。柳田国男(やなぎたくにお)、渋沢敬三に認められ1939年(昭和14)上京。渋沢の主宰するアチック・ミューゼアム(現、神奈川大学日本常民文化研究所)研究所員となり、以来全国各地を調査、その足跡は日本の隅々に及ぶ。かたがた各地で農業および生活改善にかかわる教育指導を実践。またその調査研究は社会・経済・文化各領域にわたり、独特の民俗学を確立。さらに民具学、旅学(たびがく)、島嶼(とうしょ)学を提唱した。一方、全国離島振興協議会、林業金融調査会、日本観光文化研究所等の設立運営に尽力した。1964~1977年武蔵野(むさしの)美術大学教授。文学博士。周防大島文化交流センター(周防大島町)には、宮本が収集した民俗資料、文献などが収蔵展示されている。[高松圭吉](『宮本常一著『瀬戸内海の研究』(1965/復刊・1992・未来社) ▽『宮本常一著作集』全50巻(1967~2008・未来社)』)(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。