学歴は洋服みたいなもんだ

【学歴】●academic background●academic qualifications●academic record●educational background●history of schooling

【学歴社会】●society in which one’s schooling counts●society which places excessive emphasis on academic records●society which places undue emphasis on academic records●society which sets a greater value on the academic career of an individual than on his real ability

【学歴偏重】●education-obsessed●excessive valuing of academic background●putting undue emphasis on educational background

【学歴偏重社会】●academic background-oriented society●education-obsessed society●society where undue respect is paid to academic background●society which places excessive emphasis on academic records●society which places undue emphasis on academic records(英辞郎)

【学歴】学業についての経歴。どういう学校を卒業したかという経歴。「―がものを言う」

【学歴社会】人の社会的地位や評価などが、学歴によって決められたり、判断されたりする学歴偏重の社会。(大辞林)

 学歴とか学歴社会という言葉は、社会学的には「ニュートラル」なものですが、けっしてそのようなとらえ方がされないのはどうしてなのか。大学進学率が何年度は40%で、三年後には45%にあがったというのは事実です。その事実をどのように解釈するか、人によってさまざまです。事実を社会問題として理解しようとするなら、その方法があるはずです。

 「学歴」に過度の意味や価値を含ませるのはどうしてか。学歴が高いか低いかというより、履歴書に記される「学校名」に関心があるからです。大学を出たという、単なる事実以上に、何大学卒かが物を言う(物を言わない場合もある)社会の現実があるからです。いまでも、かな。ぼくはいつでも「学(校)歴」は洋服見たいなもの、着脱可能で、それ自体に好みや流行はあるけれど、それを着けている中身(身体や脳体には無関係)だと考えています。 

(厚労省調査)

 何を学んだ(学ばなかった)かという経験や実績より、どの大学を卒業したかに比重がかかるのは、大学や当事者にとってはいいことなのかね。受験、入学、在学、卒業という単語が重視されることはあっても、それぞれの名詞を構成する動詞(経験)がほとんど問われないのは、いかにも不自然だし、その不自然さを意識しない(させない)社会の風潮こそが、学校教育を空洞化させてきたのだとおもうのです。「入学」と「卒業」が短絡してとらえられ、その期間に何を学んだり何を学ばなかったりしたかが問われないとしたら、まことに異常ですな。自分の経験に照らしてみても、何年間は在学していたが、そこではついぞ学ばなかったのですから、それを看板にするという破廉恥はできないと銘記しているのです。

 ある特定の大学を出れば、卒業生はみんな同じ色に染まるということはあり得ないにもかかわらず、一色に染めて(染められて)しまう傾向が(世間には)濃厚にあります。学歴というものより、学校歴がより多くの関心を抱かれる所以です。つまらんことよ。

 A大学を出たとか、B大学出身ですといったり、わたしはS高校卒ですなどという、その事実が示すものはなにか。それこそがA大学やB大学、あるいはA高校と、それぞれの個人との関わりをあらわすにちがいないのです。よく言われることですが、どの大学卒かというよりもその大学で何をしたのかということの方がはるかに大事です。でも、どんな大学を出たところで、似たり寄ったりのことしかしない(あるいはいうほどのこともしなかった)ということであれば、やはり、どの大学卒かに関心が赴くのは仕方のないことなのかどうか。ぼくには学校に対する不信の念は半端じゃなくありますから、この島社会の体制(政治・行政・企業など)が歪められ、偏頗なものにされている多くの責任は「大学卒」にあると確信しています。今日、マスゴミの「堕落」「不作為」が非難されますが、大半がいまどきの大学出なのだから、そうなるのは当然であると、ぼくは経験からおもっている。こんな人やあんなやつが書く新聞なんか読めるかよ、といいたいほどのものですよ。官庁や企業、政界にも友人・知人がたくさんいるから、なおさらそのようにおもいますね。

 「人の社会的地位や評価などが、学歴によって決められたり」するのが学歴社会だというけれど、はたしてホントにそうでしょうか。あからさまにA大学卒、B大学卒、V大学卒では給料がちがうというのは、明治時代以降にはありました。それを最初にしたのが官僚界です。卒業大学による差は著しかった。国立と私立、さらに大卒と高卒でも差はあった。今もあるでしょう。だから、すこしでも高い給料が欲しいからと学歴上昇が進んだのは事実です。でも、何をするか、というたしかなちからがもとめられないなら、その社会(会社)は何なんですかといいた。

 《オレは学歴もコネも地位もない。技術しか人に勝つ方法はないんだ。当たり前のことをやっていたら、だれも相手にしてくんないよ。いつもそう思っているから、これが自分の活力になるんだよ。いま?いまだってそうさ。コンプレックスのかたまりだよ、オレなんてのは》と語るのは岡野雅行さん。町工場の経営者でした。今でも現役ですね、確か。国民学校卒でした。(詳細はどこかで)

 学歴も地位もコネもないという自覚が、人をどんな風に育てるかということですし、反対に学歴もコネも地位もあるという意識が人間をどこまでも傲慢にかつ無責任にしてしまうかということの反証みたいな啖呵だと、わたしは岡野さんの言葉をうけとめました。(昨年秋にノーベル賞受賞の吉野彰さんと組んで、リチウムイオン電池の開発に貢献した人でもあります。「携帯」進化の親です)

 自分が作るならどんな仕事も面白いし、その仕事は人間を育ててくれるということをほんとうに経験したいものですね。そして、はたらくのは「何のため」か「だれのため」かをいつも考えていたい。

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。