心の中の美しい夕日

 マニラの夕日

 1959年、小さなスクーターを貨物船に積み込み、23歳の小澤さんはヨーロッパを目指しました。寄港地のマニラでのことです。(1935年、旧満州生まれ。父は歯科医師。板垣征四郎と石原莞爾の一字ずつから命名されたという)

 「マニラに着いた時に寒暖計を見たら、三十八度もあるのには驚いた。暑いはずだ。その代わり夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。夕焼けを見ながら、戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなって来る。この辺は激戦地だったそうだ。夕焼け小焼け あした天気になあーれ」(小澤征爾『僕の武者修行』新潮文庫)

 「僕は、五十九年に六十三日かかってヨーロッパに行ったのですが、最初に舟でマニラに寄ったとき、マニラのイロイロという港で夕陽を見ました。(中略)そのときはもうもう肝をつぶすくらい、赤さといい、大きさといい、圧迫力といい、日本で見たことがない、少なくとも僕は生まれてから見たことがない夕陽だった。その印象があまり強いんで、これは何か美しいもの、だれが見ても美しい眺めなんだと思った。夕陽というのはどこの国で見ても美しい眺めだけどマニラは特別だと。夕陽というものに対して非常に目を開いたわけ」(小澤征爾・大江健三郎『同じ歳に生まれて』中央公論新社)

 2001年11月、小澤さんは合唱団「城の音」といっしょに東京医科歯科大学付属病院で音楽会を開きました。難病・重病の子どもたちを前にしてのことでした。

  「赤とんぼ」(三木露風作詞・山田耕筰作曲)(昭和二年)

三木露風(1989-1964)

 1 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ

   負われて 見たのは いつの日か

 2 山の 畑の 桑の実を

   小籠に 摘んだは まぼろしか

 3 十五で 姐やは 嫁に行き

   お里の たよりも 絶えはてた

 4 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ

    とまって いるよ さおの先

 子どもも親も医者も看護婦さんも、みんな目に涙。顔を涙でぬらしながら、小澤さんは一人ひとりの子どもの手をとり、励ましたのです。

 「戦争があったり、大人でも参ってしまうような難病と生まれながらにして苦しい闘いをしている子どもに会ったりすると、『音楽なんてやってもしょうがないじゃないか』と本当に思うことがあるんです。…でも、それは違うみたいね。ぼくらの音楽を一生懸命に聴いてくれる一人一人がいるじゃないですか。そういう姿を見ると、こっちの気持が伝わったのかなと思いますね。何かを感じてくださるものがある。それだけで音楽をする意味がある」

バーンスタインと

 「たとえば夕陽が沈むじゃないですか。五人も十人も集まって缶ビールでも飲んでわいわいやっていたら、夕陽はちっとも美しくないですよ。一人で、しかも集中力があって、自分に対して『自分は自分だ』というのがわかっている時に、夕陽を見ると美しいんですよね。しかも、忙しくほかの何かをしている時は自分がないから、あまり美しくないわけ」

 「自分の精神が、気持が落ち着いていて、何かに集中できる時に心の中に美しい夕陽がある。それは大抵、心の中がとても静かな時なんですね。いい音楽は、音楽会にお客さんが千人座っていても、音楽やっている人と一人一人ですから。ぼくはいつもそう思う。たとえ客席でぼくといっしょに家族が座っていても、ぼくはぼくで聴くわけ。一人一人が音楽を聴いている。たくさん聴いていても、音楽は個人的なもんじゃん」(同上)

 「インスティチューションよりも個人のほうが絶対大事なんだ、というのが僕の信念だと、だんだんわかってきました。ところがインスティチューションに入っちゃうと、お金もかかるし、いろいろ道のりもあるし、その人があるポジションに就くまでに時間がかかったりするので、えてしてインスティチューションのほうが自分より大事だとなりがち。そうじゃないと僕は思うんですね」  小池真一『小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽』(講談社+α新書) 

 ここでいう「インスティテューション」とは「音楽学校」ですね。それよりも「個人のほうが絶対大事」という「信念」。左の写真は1961年、N響の指揮者になるが「感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任」(wikipedia)日本では指揮台に立たないと決意したとされます。

 その後の活躍はご承知のとおりです。(左上の写真は恩師になるバーンスタイン氏(NYPhil.の常任指揮者)と。