綴り方という方法

 あるとき、小砂丘さんが妻からシャツを「買ってきて」と頼まれたのに一ヶ月も忘れていたら、妻は自分で買ってきた。それをみせびらかしながら、「これでやっとせいせいした、頼んだって買ってくれないんだから」といった。小砂丘さんは冗談交じりに「それはすまなかった。おかげで寒いめにあったね」と相槌をうった。ところが驚いたことに、妻は「寒ければいいのだが、ずっと冬物で、暑苦しくてたまらなかった」といったそうです。

 「シャツがなければ寒いだらうとは我ながら迂闊であつた。ないために却つて暑くるしいことさへあり得ることに気づいてゐなかつたのだ。かういふ認識不足をしでかしがちなのを是正したさにこそ殊更に〈地方性〉を考へなおさうとしてゐるのだつた」(「綴方生活」第七巻 第五号・昭和十年五月発行)

 概念でものをいう、概念に振りまわされる、こんな姿勢を木っ端みじんに砕こうとしたのが彼のやろうとした「綴方」の実践でした。これはプラグマティズムそのものでした。実践主義とも生活経験尊重ともいうべき態度でした。

++++++++++++++++++++++++++

 「生活綴方」とはどんな教育だったのか。再び芦田恵之助(あしだえのすけ)さん(1873~1951)の登場です。日本における「生活綴方」の源流に位置するひとりです。

 随意選題の提唱

「私の随意選題による綴り方教授は、当時漸く抬頭して来た自由思想の影響をうけたのではありましょうが、その根抵をなしたものは、従来の綴り方教授、即ち課題によるものが、自分でも興味がなかったし、担任学級に課してみても、児童が少しも喜ばなかったという事実でした。興に乗っては、何事にも夢中になる児童が、いかなければ生ける屍のごとく、その苦痛をすら訴え得ぬことをしみじみあわれに思いました。何とかして児童をその拘束から脱して、文を綴る喜びに浸らせたいと思いました」(『恵雨自伝上』)   

 教師によって決められた「題」を与え、決められた形式の文章を書かせようと「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かん」それならいっそのこと、「お前ら書きたいことを勝手に書け」となったというのです。押しつけではなく、強制でもない作文教育の方法は窮余の一策だった。行くところまでいって、その先一歩も進めないときに、道は開かれたのです。道元の言葉だったでしょうか、「百尺の竿頭、進一歩」というのがあります。ながい竿の最先端まで登っていき、先のないところをさらに一歩を進めよ、というものです。無理難題なのですが、万策つきる地点までいたらなければ、なにかがうまれるはずもないのです。窮余の一策でした。

 「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かんです。これほど骨折っても書かんなら、お前ら書きたいことを勝手に書け ― こう突っ放しました。すると、五、六年の学級が一心に書き出しました。実におもしろい文がたくさんできました。題を与えても、系統立てて、すっかりお膳立てして書かせようと努力した時には到底得られなかったようない きいきした子供の生活を書いた文が生まれました。わたしはこれに打たれました。子供の作文は結局この方法だと思いました。爾来わたしの綴方の時間は、おまえさんたちが 自分で題をきめて、書きたいと思うことを、好きなように書け ― そういうやりかたをして二年目の冬の高等師範の附属の講習会に随意選題の綴方教育というように発表をいたしました。すると芦田は外国の自由思想をとり入れて自由作文をはじめたといわれました」

 綴り方とは?

 今では作文といわれますが、その授業の意義を芦田さんは以下に言う。

 「綴り方教授の意義 綴り方とは精神生活を文字によって書きあらわす作業で、綴り方教授とは綴り方に関する智識を授けて、之に熟達せしむる教師の努力と、学習に関する児童の努力をあわせたものである」

 「綴り方教授の立脚点 精神生活は或いは之を声にあらわし、或いは之を筋肉にあらわし、或いは之を文字にあらわす。一を談話といい、二を動作といい、三を文章という。綴り方教授において取り扱うのは文章である。談話・動作・文章は各その形式はちがうけれども、精神生活を外界に発表するものであることは同一である。発表は人間自然の慾望で、吾人がもし心中に不平を生じ、又は満足を感ずれば、之を知己に語り、之を朋友に伝えて、共に喜び、共にかなしまずにはおかぬ。もし何等かの事情のために、この発表が妨害されると、吾人は殆どその苦痛にたえぬ。綴り方教授はこの人間自然の強き要求の上に立脚するものである」(芦田恵之助『綴り方教授』大正二年)

 芦田さんとほぼ同時期に児童のための芸術教育に新境地を開いたのが鈴木三重吉(1852~1936)さんでした。三重吉は広島市(現・広島市中区大手町2丁目1の13)に生まれた。東京帝國大學英文科在学中の明治38(1905)年、短編小説『千鳥』を書き上げた。『千鳥』は夏目漱石によって高い評価を受け、漱石門下生として活躍を続けた。大正7年(1918)年には森鴎外(1862-1922)らの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせた。

 雑誌はおよそ二年間の休刊期をはさんでその死に至るまで継続されたのでした。当時すでに高名であった作家や詩人、音楽家や画家などもそのサークルに誘いながら、結局はたった一人で、全国から集まってくる児童の綴方を読み、雑誌に掲載しながら、一時代の児童の芸術教育運動をリードしたといえます。

 「多くの人々は、綴方の作品が伸びにくいのをこぼしている。しかし、或人々の場合には、作品が伸びないというのには、まず第一には、児童には到底書けないことを書かせようとかかっているような、根本の無理が手伝っている。まずその点を反省しなければならない。つまり題材の問題である。われわれにしても、物を書くといえば、所詮、じぶんが実さいに見、聞き、感じ、考えたことしか書けるわけがない。要約すれば、われわれ自身が経験した事実でなければ叙出できない」(三重吉『綴方読本』1935年)

 「事実は書ける、概念、観念は書けない。書けても没個性的な、共有性のものに終わるのみで、作品としては何等の価もない」(同上)

  生活綴方教育(運動)は、その後に各地で大きく渦を巻きますが、中央に『赤い鳥』があってはじめて力を得たという側面を忘れてはならないでしょう。その意味では児童教育の隆盛に向かう方向を決めたという点で、三重吉さんの貢献ははなはだ大きいものだったというべきでしょう。「赤い鳥」についても、どこかで触れてみたいですね。

 ふたたび、小砂丘忠義(ささおかただよし)さん。1897(明治30)年~1937(昭和12)年。本名笹岡忠義。高知師範学校を卒業後、県内各地の小学校教員・校長として働きながら、「極北」「蒼空」などの多くの機関紙・文集を発行した。今でいうところの、「学級文集」のもっとも最初期の実践家だったといえます。この一事でも、貴重な仕事をされました。

 その後上京して、1931(昭和6)年に郷土社をつくり,雑誌「綴方生活」「綴方読本」を発行し、生活綴方運動を全国的にひろめた。以下、略年表風に。

1897(明治30)年4月25日 長岡郡東本山村に生まれる

1917(大正6)年、高知師範学校を卒業し,大杉尋常高等小学校訓導となる

1920(大正9)年、土佐郡旭尋常高等小学校,翌年土佐郡行川高等小学校に転ずる

1922(大正11)年、土佐郡梅ノ木小学校(鏡村)に転じ,翌年長岡郡岡豊小学校(南国市)に

1924(大正13)年、「地軸」を出版し、翌年長岡郡田井第一小学校(土佐町)校長。12月上京

1927(昭和2)年、文園社編集部に入り「鑑賞文選」の編集をする

1931(昭和6)年、郷土社創立

1937(昭和12)年、10月10日肝臓肥大症で、東京にて病没。満40歳。