人間らしく生きるって…

 《人権が語義どおり「人」の権利であることが、なにより問題なのである。身分への帰属でなく、人一般としての個人ゆえに権利の主体とされるようになったこと、そのことに、人権の近代性がある。(中略)

 「人間の尊厳」というふうに、はなしを緩(ゆる)やかに一般化すれば、おそらくすべての文化が、それに同意するだろう。しかし、何をもって「人間らしく生きる」生き方と考えるかで、ふたたび態度が分かれるはずである。神の求めや共同体の利益に身をささげることこそが、「人間らしさ」の完成と考える文化もあるだろう。もっと身近なところでいえば、「こと挙げせず」「まわりと溶けあって」「持ちつ持たれつ」やってゆくくらしの方が、自分自身のものの考えや心情にこだわって生きるより「人間らしい」と考える人は、少なくないはずである。いずれにしても、そうした文化からすれば、「人」権は、自分たちの文化的アイデンティティをこわすもの、呼び方によっては「エスニシティ殺し」(ethnocide)にほかならないだろう。こうして、「相違への権利」が主張される。ただし、その「相違」は、西洋中心主義に対するかぎりで主張されるのであって、自分自身の共同体内部での「相違」は、端的に禁止されることが多いのだが。

 いま、私たちはもはや、単純に西洋近代をモデルとして想定された普遍主義の立場をとることはできない。しかしまた、単純な文化相対主義に助けを求めることもできない》(樋口陽一『一語の辞典 人権』三省堂刊。1996年)

 「人権思想」とは「西洋中心主義」の人権(男の優越)思想であるといっていいでしょう。文化や文明の程度を測る尺度は無数にある―という意味は、ほとんどないということでもありますね―そのようにぼくは考えてきました。

 何かが進んでいる・遅れている、あるいは優れている・劣っているなどといったところで、それは一定の尺度で測らなければいえないことです。1メートルは100センチという共通の尺度でしか、長短が測れないのと同じことです。車が何万台あるから進んでいるというのは寝言みたいなもので、それだけのこと、見方を変えれば、車を所有しないことはきわめて先進的かもしれませんでしょ。

 人権論にも同じような状況が見られます。意味がわからないからこそ「般若心経」がありがたいと人は感じるんでしょうか。「人権」の意味や価値がなんであるか、あまりうるさく詮索しないで、わからないなりにありがたいということになっていないかどうか。「鰯の頭も信心から」という俚諺(俗信)がありました。「人権尊重も信心から」なら、「人権蹂躙も信心から」であるとすれば、さてどうしますか。「鰯の頭」の類があまりにも多すぎやしませんか。学歴重視や学歴信仰などはその代表格か。

 男の人権、女の人権、老人の人権、子どもの人権、…と人権の範囲が広がってきました。そして、人間の人権から、犬や猫の人権、魚の人権、ゴキブリやウィルスの人権…。際限のない「人権の海」の深みにはまることで、「人権」思想があまりにも「人間中心主義(エゴイズム)」である(あった)ことに気づかされるのは大切なことだと思います。

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 《しかしながら、人間対動物の区別は、人間の規範としての私たちが、自分たちを境界線上にある人たちから区別する三つの方法の一つにすぎません。二番目の方法は、大人と子供の区別を持ち出すことです。無知で迷信深い人々は子供と同じだ、と私たちはいいます。彼らは適切な教育を施されてはじめて真の人間性を獲得します。もし彼らにそのような教育を消化吸収する能力がなさそうなら、それは私たちのような教育によって進歩しうる人間とは違う種類の人間だという証拠です。アメリカや南アフリカの白人の意識のなかでは黒人は子供と同じなのです。だから黒人男性はどんな年齢層でも「ボーイ」と呼ばれました。(男に対して)女性はいつまでたっても子供っぽい、と男性はいいます。だから女性の教育などに金をかけず、その社会的進出の道を閉ざすのは当然なのだ、と。

 しかし、女性に関しては、真の人間の範疇から彼女たちを除外するもっと簡単なやり方があります。たとえば、「マン」という言葉を「人間」という言葉と同義語として使うのです。フェミニストたちが指摘しているように、そのような言葉遣いは、平均的な男性の女に生まれなくてよかったという気持ち、同時に究極的な格下げである「女性化」に対する恐怖を助長します》(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)

 ここに伺われるのは「男中心」に地球、いや宇宙は動いているのだという傲岸不遜なマッチョ主義(macho model)に対する、ローティの嫌悪です。「人権」観念やそれが機能する「原理」は男社会にあって、男が固持していた権力や権威を、絹のハンカチに包んでカモフラージュした代物なんです。男並みになるというのは、だから根拠もなにもない話だと言いたいね。

*Richard McKay Rorty(1931-2007)アメリカの哲学者。『哲学と自然の鏡』『偶然性・アイロニー・連帯』『文化政治としての哲学』など。

 「(男並みに)女に人権を」とか、「(大人並みに)子どもに人権を」とか、「(人間並みに)動物に〇権を」というのは時代遅れ、いやどうしようもない偏見にまみれているのだと思うんです。「男=人間」中心主義に、です。あるいは「男根ーロゴス中心主義」(ジャック・デリダ)という偏見に、です。  

 ここまできて、さてどのようにして「ぼくたち」は(「わたしたち」、と言い換えるべきですか)新たな「人権文化」の第一歩を踏み出しますか。

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)