男の法と女の生と

 原理というものは、現実なくしては存在しえません。一見、特定の社会現象の痕跡を完全に消し去ろうと努力したかにみえる、もっとも高度な抽象性を備えた法律上の概念も、実は社会生活のなかから生まれています。それは特定のグループ間の交渉のなかから、我が身の安泰に疑いを抱かない支配階級の思い上がりのなかから、現実の残虐行為の傷を通して、声なき、疎外された人々の犠牲によって、権力なき人々の ー たいていの場合は妥協による、しばしば多大の犠牲を伴う ー 勝利として、生まれているのです。

 法は三段論法式に否応なく誕生するわけではありません。それは支配と支配に対する挑戦という社会的論理に駆りたてられ、変化と変化に対する抵抗との相互作用によって練りあげられます。法の生命は経験であって、論理ではないという事実はコモン・ローに限ったことではありません。すべての法の陰には人間の、もしあなたが注意深く読めば、その血が行間に流れていることがわかる人間の物語が隠されています。条文が条文を生むのではありません。人間の生活が条文を生むのです。問題の核心は ー 政治と歴史の問題、つまり法の問題の核心は ー だれの経験がどの法のもとになっているかにあります。(キャサリン・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」既出)

 マッキノンはミシガン大学の法学の教授であり、もっともラディカルなフェミニストとしても知られています。日本にも何度か来日しています。(文末に略歴を出しておきました)

 「問題の核心は…だれの経験がどの法のもととなっているかにあります」もっと直接的にいえば、男性の権利や人権が語られるとき、それはまちがいなく女性を排除したままでなされるという意味です。人類の半分を占める女性が不在のままで「人間とはなにか」とか「権利とはなにか」とかが規定されているのが現実だということでもあります。これはこの島社会にも明確に見て取れる「法の性格」です。今日の国会の勢力分布や男・女議員比の状況を見れば、どんなに目をふさいでいたとしても、成立した法律がいかに偏頗なものであるかが分かろうというものです。この数年に起こった、一連の「安保法制」制定過程に限られないことです。

 「人類の半分を形成する人々の尊厳、不可侵性、安全、生命などへの制度的、組織的侵害に対して適用されない人権の原理を認めるということは、いったいどういうことなのでしょうか。それは他者の尊厳を侵害することによって自分たちの尊厳を守り、他者の不可侵性を侵害することで自分たちの不可侵性を保ち、他者の安全を侵害することによって自分たちが安全になることなのです」とマッキノンはいいます。「だれの経験がどの法のもとになっているか」

 人権を考える視点をどこにすえるか。けっして簡単な話じゃないことだけは確からしい。私たちに求められているのは、これまでの人権観念ーそれはマッキノンによれば、男中心の、男だけが人間であると自己認識した、きわめて偏った人権論でしたーをベースにした平等論や公平論の拡大や強化などではなく、あらたな人権文化にむけての決然とした一歩を踏み出すことではないでしょうか。新たな医療技術の展開によって、これまで人類が経験したことのない生命の新段階ーたとえば、生殖補助医療がもたらした人工授精、代理母出産、出生前診断とそれによる「生命の選別」などーを迎えた今、わたしたちはまったく生命や人権に係わる未知の領域に一歩を進めてしまったと言わざるを得ないからです。

〇 Catharine A. MacKinnon 弁護士,法学者 ミシガン大学ロースクール教授 米国

・生年月日1946年10月7日 専門フェミニズム

・学歴スミス大学〔1969年〕卒,エール大学ロースクール〔1977年〕卒

・経歴エール大学ロースクール在学中から弁護活動、立法活動などフェミニストとして実践に携わりつつ、社会変革のための理論構築作業を続ける。1979年の著書「働く女性のセクシュアル・ハラスメント」で、職場での性的嫌がらせ(セクシャル・ハラスメント)は公民権法で禁止される雇用上の性差別に当たると主張し、一躍フェミニズム法学の旗手となった。’89年ミシガン大学ロースクール教授。また、ボスニア・ヘルツェゴビナで集団強姦された女性を支援し、代理人として裁判を提起するなど弁護士として法廷で活躍。他の著書に「フェミニズムと表現の自由」(’87年)、「フェミニストによる国家論をめざして」(’89年)、「ポルノグラフィと性差別」(’88年)、「ポルノグラフィ―『平等権』と『表現の自由』の間で」(’93年)がある。(出典・日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」)

 人間らしく生きるって…

 《人権が語義どおり「人」の権利であることが、なにより問題なのである。身分への帰属でなく、人一般としての個人ゆえに権利の主体とされるようになったこと、そのことに、人権の近代性がある。(中略)

 「人間の尊厳」というふうに、はなしを緩(ゆる)やかに一般化すれば、おそらくすべての文化が、それに同意するだろう。しかし、何をもって「人間らしく生きる」生き方と考えるかで、ふたたび態度が分かれるはずである。神の求めや共同体の利益に身をささげることこそが、「人間らしさ」の完成と考える文化もあるだろう。もっと身近なところでいえば、「こと挙げせず」「まわりと溶けあって」「持ちつ持たれつ」やってゆくくらしの方が、自分自身のものの考えや心情にこだわって生きるより「人間らしい」と考える人は、少なくないはずである。いずれにしても、そうした文化からすれば、「人」権は、自分たちの文化的アイデンティティをこわすもの、呼び方によっては「エスニシティ殺し」(ethnocide)にほかならないだろう。こうして、「相違への権利」が主張される。ただし、その「相違」は、西洋中心主義に対するかぎりで主張されるのであって、自分自身の共同体内部での「相違」は、端的に禁止されることが多いのだが。

 いま、私たちはもはや、単純に西洋近代をモデルとして想定された普遍主義の立場をとることはできない。しかしまた、単純な文化相対主義に助けを求めることもできない》(樋口陽一『一語の辞典 人権』三省堂刊。1996年)

 「人権思想」とは「西洋中心主義」の人権(男の優越)思想であるといっていいでしょう。文化や文明の程度を測る尺度は無数にある―という意味は、ほとんどないということでもありますね―そのようにぼくは考えてきました。

 何かが進んでいる・遅れている、あるいは優れている・劣っているなどといったところで、それは一定の尺度で測らなければいえないことです。1メートルは100センチという共通の尺度でしか、長短が測れないのと同じことです。車が何万台あるから進んでいるというのは寝言みたいなもので、それだけのこと、見方を変えれば、車を所有しないことはきわめて先進的かもしれませんでしょ。

 人権論にも同じような状況が見られます。意味がわからないからこそ「般若心経」がありがたいと人は感じるんでしょうか。「人権」の意味や価値がなんであるか、あまりうるさく詮索しないで、わからないなりにありがたいということになっていないかどうか。「鰯の頭も信心から」という俚諺(俗信)がありました。「人権尊重も信心から」なら、「人権蹂躙も信心から」であるとすれば、さてどうしますか。「鰯の頭」の類があまりにも多すぎやしませんか。学歴重視や学歴信仰などはその代表格か。

 男の人権、女の人権、老人の人権、子どもの人権、…と人権の範囲が広がってきました。そして、人間の人権から、犬や猫の人権、魚の人権、ゴキブリやウィルスの人権…。際限のない「人権の海」の深みにはまることで、「人権」思想があまりにも「人間中心主義(エゴイズム)」である(あった)ことに気づかされるのは大切なことだと思います。

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 《しかしながら、人間対動物の区別は、人間の規範としての私たちが、自分たちを境界線上にある人たちから区別する三つの方法の一つにすぎません。二番目の方法は、大人と子供の区別を持ち出すことです。無知で迷信深い人々は子供と同じだ、と私たちはいいます。彼らは適切な教育を施されてはじめて真の人間性を獲得します。もし彼らにそのような教育を消化吸収する能力がなさそうなら、それは私たちのような教育によって進歩しうる人間とは違う種類の人間だという証拠です。アメリカや南アフリカの白人の意識のなかでは黒人は子供と同じなのです。だから黒人男性はどんな年齢層でも「ボーイ」と呼ばれました。(男に対して)女性はいつまでたっても子供っぽい、と男性はいいます。だから女性の教育などに金をかけず、その社会的進出の道を閉ざすのは当然なのだ、と。

 しかし、女性に関しては、真の人間の範疇から彼女たちを除外するもっと簡単なやり方があります。たとえば、「マン」という言葉を「人間」という言葉と同義語として使うのです。フェミニストたちが指摘しているように、そのような言葉遣いは、平均的な男性の女に生まれなくてよかったという気持ち、同時に究極的な格下げである「女性化」に対する恐怖を助長します》(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)

 ここに伺われるのは「男中心」に地球、いや宇宙は動いているのだという傲岸不遜なマッチョ主義(macho model)に対する、ローティの嫌悪です。「人権」観念やそれが機能する「原理」は男社会にあって、男が固持していた権力や権威を、絹のハンカチに包んでカモフラージュした代物なんです。男並みになるというのは、だから根拠もなにもない話だと言いたいね。

*Richard McKay Rorty(1931-2007)アメリカの哲学者。『哲学と自然の鏡』『偶然性・アイロニー・連帯』『文化政治としての哲学』など。

 「(男並みに)女に人権を」とか、「(大人並みに)子どもに人権を」とか、「(人間並みに)動物に〇権を」というのは時代遅れ、いやどうしようもない偏見にまみれているのだと思うんです。「男=人間」中心主義に、です。あるいは「男根ーロゴス中心主義」(ジャック・デリダ)という偏見に、です。  

 ここまできて、さてどのようにして「ぼくたち」は(「わたしたち」、と言い換えるべきですか)新たな「人権文化」の第一歩を踏み出しますか。