今の教育は、旧教育の反動的大勢からその手段方法の上には完全に近いまでに改革されつつある。学校教育あって以来、かくも児童の生活が重大視され愛護されたことはあるまいとさえ思われる。然しながら一歩を深く考察する時は、いかに完全な大仕掛な設備で愛し護られているにしても、畢竟児童は現代文明の奴隷として仕立てあげられているものに過ぎない。
全てにわたって児童の環境(教育資料)に対して無批判である。様々な教育方法の優劣を証するものは、その実験の結果であり、その実験の結果の優劣は唯いかに児童が現代文明の奴隷として、大人でさえも驚くばかりに彼等がよく仕上げられたかに過ぎない。

「教育とは過去の文化を伝達することなり」を嫌がった処で、まるで違った進んだらしい方法で装ったりしても事実は依然としてやっと伝達である。かくの如き教育にどうして現代資本主義的文明の生活を改造する様な人間の育成が期待されよう。資本主義的文明の奴隷として仕立てられた人間が創造するものはやっぱり資本主義的文明の繰り返しにすぎない。これではいつまでたっても人は学校へゆかない事をむしろ得意にし、「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦(バカ)なのか」という反語がいつまでも生きるであろう。 (上田庄三郎『大地に立つ教育』著作集①国土社刊。1978年)
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この著作(「大地に立つ教育」)が出版されたのは昭和十三(1938)年でした。時に、日中戦争の最中のこと。上田庄三郎。今ではよほども物好きでなければ「忘れられた日本人」です。高知の幡多郡出身の小学校教師であり、その後には教育批評家として先鋭な論陣を張った方です。
彼の教育論、土の教育論とは「労働・教育」論でもありました。(これは、すでに触れたことでありますが、現在の平凡社の創立者である下中弥三郎さんの教育論にも通じるところです。また下中さんはこの島で最初の教師の労働組合「啓明会」を立ち上げた人ですが、上田さんはそれを土佐において積極的に支える活動をしたのでした)
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「高等科の生徒とともに、村の土運びを請負いでやったこともあった。労働の間に子供たちとともに、土にまみれた手で、駄菓子を食べたり、お茶を飲んだりする間に、教案にも細目にも書かれていない、真の人間教育が行われるように思った。いっしょに働くという生活態度の中でのみ、行いの教育は実現される。教師と児童の対立では、教育はできない。教師と児童とが、より高いものの前にならんだ時、はじめて教育的関係がなりたつのである。労働という行いの前に、師弟がたちならぶ時、教科書の前に師弟が立ちならぶ時、はじめて教育的関係が成立つ。自分はすでに完成された教師であるぞというような自覚ができればもう、教師ではなくて、教育政治家になったのである。青年教師時代には、それがなかった。子供との近似生が多分にあり、特に労働の前にならんだ時は、教師などはまったく子供の労働者にすぎない。自ら水に入はいってはじめて水泳の授業ができるのである。子供の野性の中にとびこむことのできるのが、青年教師の強みである」(同上)

上田さんの父親は「木挽(こびき)」(木材をのこぎりでひいて用材に仕立てること。また、それを職業とする人)(デジタル大辞泉)だった。彼は小学校を終えると深い山に入り、父の仕事を手伝った。教師の支援で上級学校に進みんだが、師範学校在学中も休暇になると、炭焼きをしていた。彼にとっては生活そのものが労働だった。まさしく「野性味」にあふれた時代を生きていたのです。だから、この「野性味」を奪われてしまったら、青年教師にはなにが残るというのか、それが上田さんの出発地点でした。

土に生き、自然とともに生きる教育、それはどんな教育だったか。
「入学試験と云う四字(死字だ)の前に青息吐息で子供を苦しめて教育と称し愛と称しているのが唯今の都会地の親と教師だ。親は一番二番という囚人宜しき成績順番という虚名にありつきたい為に、教師は入学率という学校の虚名の為にだ。そうしてそれ等虚名の為には本尊たる子供は神経衰弱になろうと、肋膜になろうとてんで頓着しない狂態である。どうしてそんなに一番二番があり難いのか。仮に女の子で女学校の一番ならいい嫁の口があるとでも云う事にして見る。今でさえそうだのに子供が成長して嫁にゆく頃まで、自分の心眼で女を選ぶことが出来ず、履歴書を引張りださねば結婚しないという様な、時代おくれの婿を今からさがして置く気であろうか。そういう馬鹿げた男に言って置こう。今の様な学校で成績の一番の女とでも結婚したら木石や修身書と暮す程にも味がなく潤がなくそれでいて、帳面で拵えるまごまごした料理に小半日も待たされて然も水に醤油をかけたよりも不出来なご馳走に我慢させ続けられることを承知せねばならぬ」(上田庄三郎「教育のための戦い」上田庄三郎著作集②国土社刊。1977年)
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上田庄三郎さんがこれを書いたのも、先に引用したものとほぼ同時期でした。これをみるに、この島で学校教育が開始されて以来、常にかわらず、教師や子どもが常在していたのは「比べる教育」、「競う教育」のアリーナであり、闘争の場でした。かかる「反教育」「非教育」の万世一系は今に続いているのです。学校教育の本質は「競う」「比べる」というところにあるということです。大事なことはその「本質」を外れた地点に立つという姿勢であり態度です。それをぼくは「思想」といいたいのです。その意味では、上田さん(小砂丘さんはもちろん)は十分に「本質」を外しています。

「学校存在の根本義は決して入学試験の準備などという様なちっぽけな情けない表皮問題にあるのではなくて、吾が最も天真なる原人の要求を培育し現代文化を至純な愛の源より見直して行こうとする処にある」
「入学試験の成績をよくする事を考えるよりか入学後卒業後迄に漸次頭角を現してゆく事を親も子供も考えねばならぬ」
大正末期に茅ヶ崎に理想の学校をうちたてんとして土佐から上京。ものの見事に返り討ちにあう。しかしその後に、上庄さんの本領はますます発揮されることになります。以後は「プロレタリアジャアナリスト」として筆法も舌鋒もいよいよ鋭く、敵を選ばずに過激な教育批判、学校批判、政治批判をつづけました。
高知時代には十二年間の小学校教師(十回ばかりの不意転、上司のいうことに耳を傾けなかったというかどであちこちに回された。まあ、明らかな「島流し」(いやがらせ・いじめ・人権侵害)です)を経験し、弱冠二十八歳で校長になりました。彼に校長としての管理能力があったのではなく、彼を使いこなす校長が群下には一人もいなかったからというのが、校長就任(校長にならされた)の理由だった。師範卒以来、徹底した反時代的・反権威主義的な小学校教育を実践しました。
大地の教育を標榜しただけでなく、それを実際に「田舎」でやってみたし、都会でもやろうとして乗り出したのが茅ヶ崎での「児童の村小学校」の経営でした。子どもが十二、三人で、たった一人の教師が上庄さんだった。

「なんと云っても人間は自然の子である、真に自然を視る目のないものは人生の落伍者である。聡明なる親はその子に貯金をしてやるよりも自己の少しの不便にたえて子供の為に絶好の自然の豊富な土地に居住して子供の肉体と精神とを剛健にし生涯の悪戦苦闘にたゆる生命力を逞しうする覚悟が必要である。さしあたり我が学園はあらゆる意味に於て子供の国としての理想郷だと云える」(同上)
「(茅ヶ崎)児童の村小学校」はこの地上にほんの一瞬だけ存在した学校ですが、その「存立の理想」「教育への願い」はいつでも求められていたものでしたし、今でも求められています。いうまでもなくこれからもまた、少しでも子どもの幸せのために「教育」に期待するものならだれでも絶やせない「灯」であるにちがいありません。
上田庄三郎・小砂丘忠義の二人を交互に紹介する風情で「生活綴方」教育のなにがしかを述べようと愚論を重ねています。いろいろと語るべき事柄があるように思われますが、ぼくの知性という才能が著しくかけているうえに、努力するという本当の才能が皆無ですので、なんとも情けない仕儀に至っております。まあ、ほんのしばらくですから、もう少し続けてみましょう。この駄文のなかでも、ぼくがもっとも驚くというか、特筆すべきだと思うのは、二人は(高知師範学校の先輩後輩ですが)、弱冠二十歳前から教職を開始し、文字通り「若気の至り」で強烈は教育実践を敢行しようとしたことです。教育委員会の古だぬきたちが音を上げるほどの抵抗ぶりを示したのは、二人に共通する「正義感」でしたが、それはいったいどこから生まれたのか、ぼくにはもっとも関心のあるところです。教育に寄せる彼らの「義務感」はどんなものだったか、それがすこしでも解き明かせたら、望外の幸運ですね。(写真など、いずれ当時のものも含めて、新たに掲載したいと考えております)