学校優等生の標本だ

 「優等生論」

 さて、僕が赴任してまもなく子供達の間にパン(メンコ)が流行りだした。パンとは厚紙の表面に絵がいてあり、それを地面に叩きつけて相手のやつを扇ぎ倒しくらをする遊戯である。これにウソクといふのとホンクといふのとあつてホンクといへば、勝つた方が負けた方の札をとるのである。

 その札をとつたりとられたりするのが賭博に似ているからとあつて僕らが子供の頃には学校で禁止せられ、もつてる札はすつかりとり上げられ、小山の如く校庭につみあげられてむざんにやきはらわれたことがある。 

 そのパンが流行してゐるといふことは僕らは知らずにゐた所へ前々からのその学校の優等生が、忠勤顔をして僕につげにくるのだ。

 「先生、××さんはパンをうつてをります」

 「さうか、やつてもいヽぢやないか」

  するとその取まき連が口々に説明して、事情にうとき新任の教師に古来の遺風を知らさうとする。

 「パンはとめられてゐます」

 「パンはばくちのはじめだと前の先生がいひました」

 「先生、とりあげておしまひなさい、前の先生はとりあげて焼いてしまひましたよ」

 僕は前任の山の中の学校にゐた頃は、はなたれ小僧や髪をぼうぼうのばした子供や泥と垢にまみれた子供と一緒だつたのだ。それらの子供が、猿のやうにすばしこく、手も足も血だらけにして山の中をかけまはつてゐた頑健さと原始さとは身体中、手にも顔にも表はれてゐた。

 今日の前に囀つてゐる子供の顔の何とのつぺりしてゐることか。おまけに着物の袖に手をひつこめて、ふうふういつて身体を前屈みにしあがつて、いやにへらへらと先生に親しげに笑ひかける。正しく学校優等生の標本だ。

 「ところで、君たちはパンをしたくないのだね」

 「えヽ、ちつともしたくありません」

 「さうか、したくないのならしないがあたりまへだ。だが××君らはそれが面白いから、したいのだらう」

 「でも、先生、パンはとめられてゐますもの」

 「なぜ、とめられてるのだね」

 「パンは、バクチのはじめだから」

 「おや、君たちはバクチといふものを知つてるのかね」

 「知りません」

 「なんだ、知らないのか、知らないのに、そんなに恐ろしいのか」

 「けれど、先生がさういひました」

 「あヽさうか、だが考へてみたまへ。本当はしたくないならいヽが、したいけれど先生がとめたからやめるといふのは僕はきらいだ」

 それから僕は、バクチが投機、射倖的な遊びであるに対し、パンは角力や剣道と同じく技術と力量とで堂々と戦ふ勝負ごとであることを話してきかした。

 「ぢや、先生、僕らもやつていヽのですね」

 「おや、君たちもやつてみたくなつたのかね」

 「やつてかまはんなら、僕らもやりたいです」

 子供たちの次には村会議員といふ村の長老からも抗議があつたが、それがみんながみんな「バクチのはじめ」をふりまはして来るのだ。「バクチのはじめ」といふやうなお札の空文句で僕らは動くものではない。

 自分の生活を極度に節約圧縮して、先生のきもちを巧みに忖度し、うまくさきまはりして愛くるしい笑顔をし、忠実な犬となりきれば学校優等生といふものになる。一度び 学校優等生といふものになれば将来学校優等生といふ立場を失ふまいとそれのみに固定してしまつてますますへんなものになつてくる。全く仕様のない存在である。

 だれかの機嫌をとり、だれかの御用をつとめることより教へてゐなかつた昔日の学校にこのいやな優等生がゐたことは当然の話である。といふのは、この話はもうよほどの昔のことなのだ。(小砂丘忠義「綴方生活」1931年1月号)

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 小砂丘さんの生家は貧窮の極みでした。父親の仕事(木こり、炭焼きなど)のために広い山野を遊び場にして暮らしていました。小学校を終えると、ひとえに教師の勧めで高等小学校へ、さらに師範学校へと進みます。1913(大正2)年に、高知師範学校に入学しました。(その二年先輩だったかに上田庄三郎さんがいました)

 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)

 1917(大正6)年4月、郷里の出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。師範学校の四年間はけっして快適なものではなかった。また杉小学校時代も周囲の理解を得られなかった。それはあまりにも彼が自尊独立の気概が強かったからでもあるし、逆に「教育の世界」が因循姑息を絵に描いたように頽廃していたからでもあった。いつに変わらぬ学校教育の風景があったのです。

 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底からつき崩そうとしたからです。そのために教師になったというのですから。

彼は足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。その実、無理にも変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会の役人)がいなかったのです。

投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。