教室のなかでの解放感

「未来につながる教室―群馬県島小学校」

 《日本じゅうの数しれない小学校の、どの校長先生が、文部大臣の参観申しこみを、にべもなくことわる勇気をもっているだろうか、そして現職の堂々たるコワモテ文部大臣のかわりに、ひとりの若い作家を歓迎するだろうか?

 今日の日本の様ざまな状況に、大臣たちをおくりこんでルポルタージュさせるという企画がたてられた。はじめ文部大臣に、地方のひとつの小学校に行ってもらうことになったが、連絡をうけたその校長先生は、かたくそれをことわった。文部大臣の参観がとくに意味をもつわけでもないだろうという判断があったわけだ。そこで、ぼくはいわば文部大臣のかわりの役割をつとめることになった。(略)

 ぼくは村の国民学校で解放されていなかった、と思う。また教室は教師を鵜匠とし、子供たちを鵜とした鵜飼のようなもので、子供ひとりひとりと教師とのあいだに束縛とにたつながりはあっても子供たち同士の横の自由なつながりはなかった。その二つが両立するなど思ってもみることはできなかったものだ。横のつながりを子供仲間でつけること、それはひそひそ内緒話をすることにすぎなかった。それはむしろ教室の敵だった。

 教室のなかでの解放感、子供どうしの横のつながりが、先生との縦のつながりをさまたげるどころか、かえってそれをおしすすめるという感覚、それだけでも、もし島小学校が日本の戦後の初等教育の一般につうずるものなら、ぼくは戦争中の国民学校教育に怯えて暗い生活をおくったものとして、戦後の新教育の小学生たちを祝福したいのである。戦後の子供の世界には暗さの種がひとつだけは少ないのだから。

「未来誕生」

 これらのことは島小学校だけの独自のものというべきでないかもしれない。しかし、僕が斎藤さんと一緒に利根川を渡し舟でわたり分校に行ってみた六年生の国語の授業には、まさに島小学校の面目があった。

 分校の六年生二十人は女の先生の指導で、チエホフ作・神西清訳「カシタンカ」という三十ペエジほどの童話をよんでいる。すでにその前の時間までに、言葉の解釈とか文章の理解とかの段階は終っている。そして、この段階までがぼくらの小学生のころの国語の授業だったのだが、島小学校での真の授業は、そこからはじまるのである》(大江健三郎「未来につながる教室」)

 作家の大江健三郎さんが島小学校を訪れたのは昭和三十七年五月で、斎藤さんが島小に着任して十年が経過していました。そして斎藤さんが境町東小学校に移られたのは翌年のことでした。斎藤さんは、この大江さんの参観とルポについて書いておられます。「作家の大江健三郎氏は、昭和三十七年五月に、雑誌『文藝春秋』の企画で二日間島小学校を参観した。そして『文藝春秋』七月号に「未来につながる教室」というルポルタージュを書いた」(斎藤喜博『可能性に生きる』)

 「教室で困ってしまい考えこんでいる先生を美しく感じた体験はこれがはじめてだった」

「未来誕生」

「なぜクラスの子供たちがこのように生き生きと組織されているのか?自分の意見がのりこえられても、なぜその子供は屈辱感とともに黙りこまないのか?つねに黙ってにこにこしながら発言する子供をみまもっている、いわば陽かげの子供たちに、疎外感がないのはなぜか?」

 大江さんは数々の感嘆と驚嘆を交えてこのルポを書かれています。たくさんの教師たちが公開授業に参加していました。そのなかに明星学園の「絵の先生」がおられ、大江さんにつぎのような島小批判をされたそうです。

 「明星では授業のあいだに、先生が芸術や学問、専門の分野にすすんで自分を肥やすことができる。しかし島小学校の教師たちはモラリッシュで犠牲的な精神にみちている」

 教師はもっとエゴイスティックであるべきで、「子供のために、という考え方は古いし、このままだと島小学校の先生たちはしだいに自分を貧しくしてゆき、斉藤さんがいなくなれば永つづきはしないだろう」

 「参観の教師たちすべてが去った二日目の夕暮、子供たちが校長先生や自分たちの先生の躰にちょっとさわりにきたりしていた解放的な教員室で、斎藤さんをかこんだ先生たちとぼくはしばらく静かに話す時間をもてた。斎藤さんのいう良い教師の条件とは、頭の良い、育ちの良い、美しい教師ということだそうだが、そこに集まっているおだやかな先生たちには、確かにその印象があった。これらの島小学校の教師たちは、その全生活を教育に投入しているのだ、と斎藤さんはいった。教材を研究するために熱情をかたむけ、仲間、校長、専門家に協力をもとめ、そのうえで子供たちと格闘している教師たちなのだと。そして明星学園の先生が不安に感じたことにたいする斎藤さんの回答はじつにはっきりしていた、島小学校の先生の精神が貧困であるものか、現場で自分をつくりあげることのほかに教師になにがありえよう?」(大江)

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 ここで戦中から戦後にかけて、日本の学校教師はどのように生き抜いてきたのかという問題に逢着します。斎藤さんが言われているように、大半の教師たちは「戦争のあやまりであることを少しも知らなかった」のではなかったか。これを別の言い方で表せば、時流・時局に乗っていたということです。戦争が間違いであるということも、この戦争が無謀であるということも、ほとんどの教師にはわからなかったと思う。あまりにも深く体制のなかに入り込んでいたからです。  

 戦争中には「聖戦」に心身を捧げ、戦後になると「平和と民主主義」に命をかけた(つもりになった)のだろうと思うばかりです。それでなんの問題があるものか、という気分だったかもしれない。にもかかわらず、戦中も戦後も時局や時流に流されず、おのれの仕事に専念した教師もいたでしょう。いずれにしても、他人の言動を、後からとやかく言うことは避けます。

 斎藤さんの、まことに奇妙ですが正直でもある(と、ぼくには思われる)回想です。

 「昭和十九年になると、村にも空襲警報が出されるようになった。そのうちに銀色の美しいB29が一機、村の上空をゆうゆうと通っていくのがみえるようになった。軍部の話では、日本は力があるから敵機の一機や二機はかまわず飛ばせておくのだということだった。大本営発表も大戦果の発表ばかりだった。だから愚かな私は、ほんとうに敵機の一機や二機はかまわずにおくのだと思っていた。

 しかし年老いた私の父はそうはいわなかった。「いくさに勝っているのなら敵の飛行機がくるはずがないではないか。負けてるからくるのだ」といいきっていた。(中略)

 このことは、私にとってはのちに痛い教訓となった。田舎にいて、しかも教師という狭い世界にいて、ツンボ(ママ)桟敷におかれたということはあるが、ツンボ桟敷におかれたということは老人たちも同じである。ところがその人たちが、みごとに事実で判断していたのに、私にはそれができなかったということは、私がまだいかにも教師であったということである。教師としての思いあがりであったということである」  

 ことさらに戦時中のエピソードにふれましたが、特別の意味があるわけではありません。普段の行動が戦争中にもそのまま出ただけだということをいいたかったんです。非常時だから、非常時用の行動があるわけではない。平常時の「教室」でやっているそのままが非常事態の「教室」でも行われるのだということです。たくさんの先輩教師が戦時中にとった行動を知れば知るほど、そのようにいえるようです。それならば、ぼくたちの生きている現在は「非常時」なのか、「平常時」なのか。

 大江健三郎さんのルポは立派な教育論であり、授業論だと、ぼくはくりかえして読んできました。ここではほんの少しばかりの引用になりましたが、詳細は「未来につながる教室」を読むほかありません。「明星の先生」が出てきます。彼は高名な教師でしたが、斎藤さんは遠慮なく批判し、大江さんも同調するのです。この時期は「明星学園」がとても元気は時代でもあったのです。(蛇足 もう何十年になりますか、大江さんに来ていただき、いろいろな話を若い人といっしょに伺う機会がありました。それ以前にもなんどかお会いし、教えられたことがありました。今は昔の話です)

 ここにもまた、一枚の「教師の残映」が記録されていました。

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです