学校はだれのものか

 「緊急事態」だからと見逃され(許され)ているのですけれども、二月末に時のPMが「全国一斉休校」を打ち出し、なんの異議も意義も見いだせないままに、「休校状態」はいまだにつづいています。これはどういうことなんだという嫌な気が今もしているのです。(公立)小中学校は、基本的には地方自治体の設置学校です。したがって、その機能停止や改廃を決める権限も一義的には「地方公共団体(教育委員会)」にあるはずです。にもかかわらず「一斉休校」という、根拠も効果も検討も検証もされないままに打ち出された「無謀な政策」は「憲法違反」に当たるというほどの問題だとぼくには思われます。(「教育の機会均等を侵す」行為、さらには…ととれますから)

 そこまでするのは大げさだという人もいるでしょうし、休校措置は妥当であったという人もいるでしょう。「休業自粛」とは趣が異なるかもしれませんし、結果として「休校」やむなしということであっても、それをほかでもない「PM」が宣言し、それに無抵抗で島全体がしたがうとき、いったい「自治体」とはなんでしょうか。政府や中央官庁の下請け行政に甘んじていること自体が「自治権」の放棄であり、「教育権」の蹂躙だというほかないのです。三割自治と揶揄されてきましたが、そんな上等なものではなかった。無自治体というアホらしい嬌態ですね、これは。「税収権」も奪われたままです。痴方交付税という「おためごかし」でお上から「いただいている」始末です。

 いったい、学校はだれのものか。子どもが学ぶ場所、子どもを教育するところ、いや教師の職場である、とんでもない、国が発展するために作られた制度だと議論は沸騰するのかも知れません。じつに奇妙な話です。学校教育が始められてから一五〇年も経過しようというのに、いまだにこのような疑問がときとして大まじめに出されるのです。(議論されるならまだしも、今ではほとんど暗黙の裡に、国家の管轄下にあるのです)

 考えてみれば、こんな疑問は不思議でもなんでもないのかもしれません。だれかのものと決めつけようとすることこそが奇妙だといえます。ひとそれぞれに、自分の立場にたって、「学校教育」を論じようとするのですから、だれもが納得する結論がでることはないといってみたらどうか。ようするに、どのような視点から学校を見る(論じる)かが重要だといってみたくなります。

 子どもの成長や発達を願う立場からみれば、学校は子ども(その関わりでいうなら、親たち)のためのものだといえます。教師がいてこそ、子どもの成長や発達に資する教育が可能となる(そのように懇望してやまない)というなら、それは教師がいなければなりたたない組織(教師の職場)であると考えられます。しかし、子どもの成長を可能にする教師の役割を容認するにしても、けっして個々人の努力や情熱だけでは一日だって維持できないのはいうまでもありません。それがじゅぶんに達成されるためには莫大な経費や施設・設備が欠かせない。

 ここまできて、学校はけっしてだれだれのものと、一義的に所有者を特定できないことがわかります。そんなことはあたりまえだといわれそうですが、この国における学校教育がつねに問題をかかえており、ときには驚くばかりの愚劣な議論が政治の領域でなされるのをみるにつけ、学校は「俺のものだ」という我が物顔の主義主張がまかり通ってきたともいえるのです。現に、通っている。

 問題は「学校」という言葉で何が含まれているかということでしょう。建物も土地も「学校」だし、教室の仕事も、子どもの学習(教育)も「学校」に含まれます。内的・外的要素を誰かが「独り占め」することは許されないという意味で、だれのものでもないというのです。

 教育の政治的中立性とはどういうことか。いかなる党派であれ、ある種の政治権力が学校教育を、どのような方法を使おうとも、支配することをいさぎよしとしない、民主主義社会のためのひとつの原理を示すものだと考えられます。国家権力であれ、一人ひとりの教師のそれであれ、はたまた子どもや親たちの意向であれ、それらが学校教育をかたよった方向に導かないためにはこの原理をないがしろにしてはならないことを教えています。

 ではなぜ、このような原理が大きな価値をもつのか、もたされているのか。いうまでもなく、特定の権力(勢力や党派といってもいい)が学校教育を牛耳り、そのあり方をきわめていびつなかたちにゆがめてしまうことがあったからです。その具体例はあげるまでもないでしょう。学校教育をみずからの思想や教義や利益のための道具とした事例は枚挙にいとまなしです。明治以降の学校教育史とは、一面ではまさしく学校・教育が政争の具とされてきた歴史でもあったし、その流れは今日においてもまったく変わりません。はからずも今回、隠されていた問題が一瞬にしろ、表に浮上したと思われたのですが、だれも何ともいわない。

 「何か(コロナ)の事情」で「休校」せざるをえないときもあるでしょう。でもそのためにはバカが「勝手に」突然「宣言」していいことにはならない。こんなことを認めていたら、次は何をしだすか。(散々今までしてきたではないか)おのれの不法行為は一切認めないという「傍若無人」の行状を一刻も早く阻止しなければならないのではないですか。「始末に負えない」ではなく、「始末に負える」としなければ。

 奇怪で魔訶不思議な国の「オキナ」の気分にぼくはなっています。