失敗をおそれず、自分で判断を

 何度でもくりかえしたいとぼくは考えているのですが、いったい自分はどういう人間であり、どんな人間になろうとしているのか、それをまずこころの根っこにすえておく必要があると思うのです。そのうえで、ぼくたちはどんな時代、どんな集団や社会に生きているのかという状況判断をつねにていねいに点検することが求められます。そのさきに、どんな「国家」にぼくたちは囲繞されているのかという課題に直面するはずです。

 初めに国があるというのはまずいんじゃないですか。ぼくたちは国家に生まれてくるのではないし、ましてその国家のために生き死にするのだという虚構を見据えなければ、自分の座るべき位置がいとも簡単に覆されてしまうでしょう。まず自分です。この「自分」を育てるのが生活における大半の仕事になるともいえるのです。以下に引用するのは、すでに紹介したものですが、なんどでも吟味する値打ちがあると同時に、そうする必要があると考えるのです。

 《私たちは、両親や小学校の先生から「注意しなさい」(ペイ・アテンション)と言われて育つ。子供の頃より、この同じ言葉を強くあるいは優しく命じられながら、大人になっていく。やがては慣れて聞き流すようになるかもしれない。だが、人生においてこれは非常に大事なことである。なぜなら、注意を払うとは、心のエネルギーをどう使うかということであり、このエネルギーの使い方の如何が、自らをどのような自己へと育てるのか、どのような人間になることを学ぶのかを決めるからである。何かに一生懸命に注意を払っているとき、本気で取り組んでいるとき、私たちは、知性、感情、道徳的意識のすべてを動員している。仕事でも、遊びでも、大事な人との交わりにおいても、同じことが起きている。このとき、私たちは、行っていること自体に没頭しているので、自分のことは忘れている。それは楽しいひとときであるかもしれないが、私たちがそれを行うのは、楽しさを求めてではなく、それが広い生の文脈において自分がほんとうにしたいことだからである。つまりそれには「意味が感じられる」。自分という意識は極小になる。しかも、その目的は楽しみにひたることではない。にもかかわらず、私たちが真に幸せに感じるのは、こういうときである》(ベラー他『善い社会』既出)

R.Bellah

 現下に生じている「パンデミック」問題について、さまざまな意見や論評がなされていますが、あまりにも科学や疫学(医学)の内容にかかわるもので、ほとんどはそれを受け入れる準備がない。一方的に流される報道に惑わされ、当局から出される指示などに従うほかないという事態になってしまう。だが、行政や政府から流される「情報」は当事者の発信にもかかわらず、その真偽はまず疑わしい、というよりは、なお誰かの「受け売り」だとぼくたちは考える。言わされているのか、言われたままを流しているのか。

 《私たちは専門家や専門的意見を必要としている。…専門家の意見をどう評価するかを学ぶというのは、市民教育の基本である。…ともかく、専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない。さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである。この点において、家庭や地域共同体のなかで注意を払うことを身につけた市民は、それを一般化して、より広い問題に適用することができる。家庭が民主主義の学校であり、学校が民主的な共同体であるとき、こうした知恵は、すでに学ばれたということである》(同上)

 残念ながらこの指摘に関して、ぼくたちはまだまだ、その道筋の端緒にもついていない状況にある。「専門家」がこもごも、勝手なというか、自己の思い込み(持論)を言っているとしか考えられないようなことが多すぎるし、また「そうかな」と疑問を持つにもかかわらずほとんどが同じ議論のくりかえしに遭遇する。素人目で、奇妙なことを言っているなといいたくなることが多すぎる。こまかいことは言わないが、「外出自粛」が要請され、たしかに「混雑」が見られなくなったように見えるのに「なぜ、感染者数が減じないのか」、「感染者を特定する検査数がどうして増えない(ふやさない)のか」「全国一斉休校の結果はどうであったのか」等々。データもなければ、検証結果も知らされない。これでは何をどうするかという判断材料は皆無だから、当局の指示・命令に従えばいいのだと、ぼくは諾々と受けることはできないのです。大量の情報には「真偽」がいりまじり、専門家の意見には議論の余地もある。そんなとき、ぼくたちはどうすればいいのか。「当面(当分の間じゃなく)の間」が感染状態です。

 ぼくはただいまの「困難な事態」にあって、何よりも指摘したいのは「マスゴミ」報道には気をつけよう、しっかりと「眉につば」をつけておこう、可能ならば、一切黙殺するのも手であろうという姿勢をとるという点です。「マスゴミ封鎖」です。ほとんどが権力(当局)側の広報・宣伝媒体じゃないかとさえ思われる。さもなければ、反(半)体制の立場でしか報じないという偏狭さ。言われるままか、何でも反対か。「中立」はないのは当然で、ありたいのは「中庸」なんです。揺れながら、迷いながらの手探り状態をしばらくはつづける。そのあたり(揺れ揺れ状態)から、始めたい。  

 さらに重要なのは、以下の視点です。

 《責任をもって行動するためには、何が起きているのか、何が私たちの応答(レスポンド)を求めているのかを問わなければならない。神学者のR.H.ニーバーは、著書『責任を負う自己』のなかで次のように論じている。…たいていの場合、私たちは、自分にたいして起こされた出来事を漠然と受け入れるか、周囲の出来事には関わるまいとするかのどちらかの行動をとる。しかし、私たちは、出来事を「解釈」しなければならない。とくに、ここで自分と関わりのある他人が何を考えているのか、その意図を解釈しなければならない。「応答」「解釈」に次ぐ三つ目の要素は、自分の行為が他人に及ぼす働きである。ニーバーはこれを「アカウンタビリティ」と呼んでいる。ところで、私たちが何か行為を起こすとき、たいていそれは、自分とそれまで連続した関係を全然もっていなかった人間や物と、そのときだけ出会って終わりというようなものではない。その文脈はたいていパターン化されたものであり、そこには「社会的連帯」の要素もある》(同上)

 他国では「都市封鎖」「ロックダウン」「外出禁止」などという強制・強硬措置が実施され、「違反」には罰則がともなう。ひるがえって、この社会では「自粛」がお上から「要請」され、やがてそれは「自己規制」に広がり「他者監視」に移行する。「コロナ」は「怖くない」、「正しく恐れよ」といわれて、たかをくくっていた。「五輪開催は既定路線」とまで「コロナ」はなめられていた。だが、一向に事態は改善せず、他国では猛烈な勢いで状況が悪化しているニュースが流されてきた。「五輪開催は無理」と他国からいわれだしたとたんに、「延期(来年も無理じゃ)決定」。その瞬間に「ウイルス」が「蔓延」しだした、これはほんとですか。だれかの作為が働いているんじゃないですか。各国で死屍累々の惨状で、「体育の祭典」もないでしょう。IOCという金と名誉の亡者集団は即解散とはいくまいが。

 他人に指摘されるまでもなく、ぼくは「偏見」から自由ではなく、「偏見」によって生きるほかないと自覚している。でも、どこまでもその「偏見」から解放される「知識」をさがし求めるという「姿勢」、これを貫くことは至難の業ですが、それを中断するわけにはいかないとも考えている。でなければ、この「社会」は「国家」に浸食されるに任せ、いつまでたっても特権(政・官・財)が幅をきかし、人権は危機の淵に置かれつづける。現状はまさにその典型例です。ぼくたちはどんな自治体=社会にしたいんですか。(一億が構成する「自治体」なんて想像すらできない)「そんな面倒なもの(公共)はいらないよ、いきなり国家でいいじゃん」「命令して(マスク・十万円)くれるものが必要なんだ」「動くより、動かされたいのが人間なんだよ」というのが当節の風潮なんですか。

固定は安定

 「われわれは、怠け者なので、固定というものを常に求めてるんです。固定がほしいんです」(鶴見俊輔)

 偏見を持たないことはすばらしいが、それは「人間の分際」では、まずありえない。まちがう危険性をおそれずに、自分流の「判断」をくりかえし下すこと、「試行錯誤」から何が生まれるのか、この「まちがいながら」の態度がぼくたちに求められています。「自分の」「自分で」判断を!「まちがえたっていいじゃないか、人間だもの」(みつを?)

 「さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである」

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。