偶像は壊されるものだ

 山びこ学校を生きた「卒業生」の証言

 《私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです。たとえ、試験の点数が悪かろうと、頭のまわり方が少々鈍かろうと。私たち四十三名は、ほんものの勉強をさせてもらったのです。それが証拠には、今では誰一人として、「勝手だべ。」などという人はいません。人の悪口をかげでこそこそいったりする人はいません。ごまかして自分だけ徳をしようなどという人はいません。/ 私たちが中学校で習ったことは、人間の生命というものは、すばらしく大事なものだということでした。そしてそのすばらしく大事な生命も、生きて行く態度をまちがえば、さっぱりねうちのないものだということをならったのです》(佐藤籐三郎「答辞」1951年3月22日)

 《当時、われわれの間に一つの偶像が存在していたわけだね。無着先生は農村教師なんだ、農村を改革する教師なんだ、という一つの偶像だったわけだ。「無着先生は東京へ行ってもっと勉強して、地方へ帰って先生をするだろう」という考えがあったわけだね。ところが、先生自身のあれからの生き方を追求していった場合、しだいに疑問に思うようになった》《「山びこ学校に耐えられない」から飛び出したといっても間違いじゃないという気がするんですがね。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を「耐えられなかった」とはっきりいえる。やまびこ学校のああした教育の中で生きてきたんだといわれるごとに、おれは耐えることができなかった。はっきりさせ、訣別するためにおれは『25歳になりました』を書いたわけだ》(佐藤籐三郎「朝日ジャーナル」1960・3・27号)

 証言:「山びこ学校」の生徒で答辞も読んだ農民作家、佐藤藤三郎さん(掲載時、76歳)

 私たちの小学校(国民学校)には、校長と教頭と教務主任ぐらいしか正規の免許を持った先生はいませんでした。先生は軍事体制と敗戦の渦中ですぐ代わるし、教科書を墨で塗って、卒業まで本格的な教育を受ける機会はなかった。/ ところが中学に入って無着先生の型破りな授業を受けて、こんな先生もいるのかと驚きました。教科書も使わず、授業は横道にそれることが度々あり、「自分の頭で考えろ」「何でもなぜと考える人になれ」と言われ、全員が「無着イズム」にすっかりひかれた。/ 子どもと一緒に無我夢中で生活したいわゆる熱血先生で、バランスに欠けていたことも事実ですが、それ以上のものもあった。中学卒業後、私は定時制高校に進みましたが、英単語を覚えるとか、漢字を書くとか、そういう学力を高める教育は受けてないことに気付き迷いました。知識の量には他の生徒と大きな差があった。確かに「なぜ」と考えるのはすべての学問の基本ですし、社会に疑問を抱くことも、書くことも大切だと今も思います。

 でも、自分たちの生活を見つめるあの教育だけでは結局、世の中の経済第一主義には勝てなかった。村でいくら頑張っても生活は豊かにならず、過疎化の流れに勝てなかった。母校の閉校は、寂しいなんてもんじゃない。過疎を導いた社会への怒りですね。(朝日DIGITAL・12/04/23)

*佐藤藤三郎(1935年生まれ) 昭和後期-平成時代の農民,評論家。昭和10年10月26日生まれ。山形県山元中学で無着成恭(むちゃく-せいきょう)に教えをうけ,昭和26年文集「山びこ学校」に生活記録がのる。上山(かみのやま)農高定時制に在学中,農民詩を発表。以後,農業のかたわら著作活動をつづける。上山市教育委員,上山市農協理事。著作に「底流からの証言」「まぼろしの村」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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《東京へでてきてからのぼくは、〈無着はにげだしたのだ〉とか、〈無着は退歩した〉とか、〈なにもやっていない〉とか、もっとひどいものになると、〈無着は有名になるために『山びこ学校』をつくったのだ〉とか、〈無着は『山びこ学校』をふみ台にしただけだ〉などというひなんめいたことばをきかされつづけてきました。そのようなときでも、そういうことばになるべく耳をかさずに、「ほんものの教育とはなにか」という問題を考えるように努力してきました。その結果のひとつがこの本です。

 この本には『続・山びこ学校』という名まえをつけました。それはなぜかといえば、この本も、まえの本も教師としての無着成恭が自分の教育理念を主張するために編集したものだからです。つまり、この本にも、まえの本にも無着成恭がいるという意味で、しかし、『山びこ学校』からはじまって『続・山びこ学校』にいたるまでのあいだ、教師としてのぼくはおおきな変革をしいられてきました。しかたのないことだったのです。ここのところだけは、読者のみなさんにぜひとも語っておきたいのです。

 『山びこ学校』は、戦前にはじまった生活つづり方運動が、戦後の解放的なムードのなかで、いっきょに開花したものであるとか、戦後民主主義教育のピークであるとか、文学としてもよむにたえるものであるとか、さまざまに評価されてきました。いずれも一面の真理をついていて、ぼくはこのような評価を否定しはしません。だが、教師としてのぼく自身はこの『山びこ学校』を戦後の生活経験主義的な教育の所産であるとみています。

 …ぼくは、「社会科でもとめているような、ほんものの生活態度を発見させる、一つの手がかりをつづり方にもとめて」子どもに作文をかかせたのでした。つまり、子どもたちが自分の、そして自分をとりまく人びとの生活を観察し、考えあって、行動までに発展させていくための素材として作文をつくらせたのでした。

 ぼくは社会科は、すべての子どもが自分たちの生活をただしく認識するためであり、生活をただしく認識すれば、そのさきはおのずから問題解決の方向がでてくるはずだという仮説のもとにおこなわれたわけです》(無着成恭編『続・山びこ学校』麦書房、1970年)

 1954年4月、無着さんは山元村を出て、上京。駒沢大学仏教学部に編入学します。(生家は禅宗の沢泉寺)1956年3月、明星学園において、彼は寒川さん(道夫。1910-1977)(生活綴り方を実践した教師、この人についてもいずれは駄文を書く予定)に出逢う。その時の明星学園校長は照井猪一郎という、秋田出身の人でした。

 1970年、明星学園小学校長を最後に寒川さんは退職。1977年病気のために亡くなられました。その後、無着さんは同学園小中学校の教頭となり、遠藤豊校長と「明星教育」をつづけますが、1983年には相次いで辞職(追放というべきか)。遠藤さんは「自由の森学園」を作り校長となる。無着さんは教師を辞め、僧侶生活に入ります。(無着氏のその後については、別のところで書いています。機会を設けてさらに「山びこ学校」に関する駄文を書く予定です)

*(明星学園=大正13年5月15日、成城学園の教師であった、赤井米吉・照井猪一郎・照井げん・山本徳行の4人によって、井の頭の地に創立された。昭和3年4月5日、上田八一郎を初代校長として迎え入れ、旧制中学校を設立、併せて旧制高等女学校を設立する。昭和22年4月、学制改革により、新制中学校、高等学校に改組し、小学校・中学校・高等学校からなる、12年一貫体制を築き今日に至っている)(同学園の旧HPより)(https://www.myojogakuen.ed.jp/about/history

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)