「自分たちの公園」という意識

 現在、地球規模で大きな災厄に見舞われています。もちろんぼくたちの「社会」もその例外ではありません。「一蓮托生*」という言葉を使うのは適切ではないと思われますが、どういう具合に展開するのか、その帰趨はいまだに定かではなさそうです。専門家や政治家、さらには官僚までもが入り乱れて、百花繚乱というべきか船頭多くしてというべきか、混乱を深めているのが実情ではないでしょうか。一人の当事者として、身の行く末は他人にあずけないのを旨としてきた人間としては、なにかと批判や文句を要路にある人々にぶつけたい気もしますが、ままよ、他人は他人、だから他人任せは凶と出るだろうくらいの気持ちで、なにかにつけ注意を払っているのです。

上野「恩賜公園」

 連日、さまざまな情報がながされ、問題にかかわるデータが報告されていますが、ぼくはすなおに受け入れる気がしないのです。PCR(polymerase chain reaction)検査の内容を詳しく聞かされることもなく、被験者数が多いとか少ないとか。また「本日は感染者数が何名あった。累計で何名だ」とかうるさいくらいですが、その実態(中身)はまったく知らされない。素人には知らさない、行政や医療の関係者(専門家)は「市民は無知である、無知は美徳だ」とでも思っているのか、誠実ではありませんね。ネット情報でぼくが居住するC県では検査所を設けたが、「場所は非公開」だと役所が言っている。バカも休み休み言えと言いたいね。知らせると殺到するからというのがその理由。住民(市民・県民)を救う気がないというほかない。表立って発言する人たちはどこに腰を据えているのか、判然としません。というより、わが身可愛さで、当然ですが、それもこれも職務(住民への奉仕=公務員の仕事)を果たしたといわれたうえでの話じゃないか。

これも「恩賜」だ

 「国民一人あて一律何万円の給付金」で政争だか政治取引をしている惨状。「国民」を人質にして、覇を競うという退廃のきわみです。さすがのノンポリ人間も、こんな政治や行政になけなしの税金を取られているかと考えると情けなくなる。どうしてこうなるの?という核心的な問題を考えるには時も悪いし、場面も悪いけど、だからこそと、この島の懸案を季節外れと知りながら提示するのです。国家が「私人」の一挙手一投足をとやかくいうのだけは御免被る。要は「私」が育ち切っていないから「官」がのさばる。私の集まりである「公」があいまいだから「国」がでしゃばる。国難ではあっても「社難」とは言わないのはなぜか。「社」は「会社」を指すのではない。「社会」そのもの、「公共」をいうのでしょう。

*「よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。▽もと仏教語。「托」は、よりどころとする、身をよせる意。「託」とも書く」(デジタル大辞泉)

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 《さらに日本の場合厄介なのは、日本にはパブリックなものの意識がないことです。よくわかりませんがヨーロッパには都市国家の精神というものが生きていますね。たとえば「自分たち」の公園というようなものがある。具体的にある。自分たちの公園があれば、自分たちの町があり、自分たちの国につながる。われわれには「自分の」というものしかない。三坪の庭をやっと確保して、庭だ庭だと叫び、そこで安心立命している。どうも成り立ちが違うのではないだろうか、よく日本人は公徳心がない、といわれますが、このないということはどうも根が深いようです。

 私の住んでいる大阪の東郊の東大阪市というところは、街路樹が非常に少ないところなのですが、市役所のひとにきいたら、植えても植えても抜かれてしまうからだそうです。これなど、道徳の問題として考えるよりも、社会人間としての成り立ちが違うんだと考えた方が、わかりやすいようです。日本は国家がなくなると悲惨な国民だ、という言い方ができるかも知れない。いい悪いの問題ではありません。事実問題です。

 そこでこうした日本人の条件を考えながら、これからの国家というものを考えなければならないわけです。といって別段いい智恵があるわけではない。

 それは、もう一ぺん市民社会教育をしなおす、という方法です。つまり「自分たちの」というヨーロッパ風の意識を国民総がかりで建設することです。われわれはたやすく市民社会という言葉を口にするが、そんなもの実はほとんど身についていない。市民社会はヨーロッパでは自然発生的歴史的なものだが、われわれにはまったくの借り衣だった。それを、できるかどうか知らないが、とにかく皮膚の一部にまで持っていこうじゃないか、というのは、どうでしょう。

 街路樹の二本や三本抜くかも知れん国民に適合した国家というのは、実は警察国家です。しかしわれわれはこれにはコリゴリしている。警察国家は願い下げだ。となれば、われわれは歯をくいしばっても本当の市民社会を一度つくってみよう。その上でもう一ぺん国家というものを考えてみよう。この方法しかありません》(「日本史から見た国家」『司馬遼太郎が考えたこと』4 に所収、新潮文庫、2005年)

 家庭内(私的)の問題に国家が土足で踏み込んでくるという驚天動地の事態に対して、ぼくたちは存外平気というか無関心であるようです。暢気に構えていると、知らぬ間に「自由は凍結」「私的空間は剥奪」されるのですが、それさえ一気呵成に強行されないかぎり、緩やかに穏やかにやられると、ぼくたちは馴致されてしまうのです。まるで「ぬるま湯のカエル」状態です。気づいたら茹(ゆ)で上がっていたということになります。そうなっては「万事休す」。前世代は「コリゴリ」したはずですが。その「コリゴリ」が(戦後生まれに)継承されていないのだろうか。

 商店街の休業要請がいつの間にか「強制」となり、営業自粛が「禁止」となっていく。都内や県外から「パチンコ移民」多数発生で、I 県が困っていると。また県外者が来ると県境で「検温」という自治体(Y県)も出ています。藩体制に逆戻りです。あちこちの「自粛」の街頭内外に警察官(番所役人)の姿が見え隠れしています。それがどうしたといわれるかもしれない。「コリゴリ」したい連中が劣島に「門前雀羅をなす」とは正反対の横行三昧か。

 「街路樹の二本や三本抜くかも知れん国民に適合した国家というのは、実は警察国家です」というけれど、今はまだまだそこまで進んでいないといえるか、はたして何歩手前か。「私」があって「私たち」。「私たち」がつくるのが「公共空間(社会)」です。国家は無用(とぼくは言いたい気がしますが)とはいうまい。でも、それが蒙昧な政治家・行政者に拉致されたらどうします、「市民」として。

 「マスク配布」や「十万円給付」は「国」の仕事じゃないはずです。「地方(痴呆)自治体」は何をするための行政単位か。他国では「大統領」と「州知事」がケンカもどきという。「本当の市民社会」に寄り添っていこうとしているのは、はたしてどちらか。「自治」を武器に「管の支配勢力」と闘ったらどうか。今の混乱時はその時期ではないとでもいうのか。「国税」というけれど、それはもともとは住民が一時あずけたもので、本来は「自治(自分たちの生活)」のためのものですよ。(ノンポリにふさわしくない駄弁ですが、こんなことを愚考してきたのだという自省の意味で書いておきます)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。