気分は悲観主義から

 「働くとはどういうことだろう」

 簡単なようで、ぼくにはとてもむずかしい。働く、仕事をする、職業に従事する、労働する、生活の糧を得る、活計(たつき・たずき)を立てる。いろいろな表現ができそうですが、根幹部分では同じようなことをいうのでしょう。暮らしをいとなむということです。なにも(労働を)しないで生活できる人もいます。羨ましいとはおもわない。でも、大半の人は生活の糧(資)を得るために働きます。働かなければ生きていけないからです。人生は労働からなる、そういいたいね。

観覧車が好き

 「働く」という言葉からどんなことを想像しますか。会社勤め、いろいろな分野の職人さん。あるいは音楽や美術、文学などの創造的活動(芸術などという)。いずれにしても、ほとんどはみずからの人生をより幸せにし、豊かにする。ひいては他人のために役に立ちたいと願いながら、来る日も来る日も仕事についていこう、と。ぼくはそのようにかんがえてきました。人の役に立てるから幸せなのだ。「働く」を通して人の役に立てる、そんな時代なんだろうか。労働が苦役になっていないかどうか。

 ぼくはときどき若い人たちに「いい人とは」と尋ねることがありました。たいていの人は簡単には答えられなかったみたい。時間をかけて答えを出すような質問でもないとおもっていたから、ぼくは少し驚きました。「いい人」って「人の役に立つことをする人」「困っている人に手を差し伸べる人」じゃないですか、とぼくはいつもおもっているんですが。

 《幾何学の冷たい顔の前で尻込みしたその当人が、自分で選び従事してきた職業についていて、二十年後に私が彼にめぐり会い、実地にやってきたことにおいて彼は十分に聡明であるのに気づく》(アラン)

上り下りが激しいのは苦手

 子どもにとって「勉強(=仕事)」は山登りのようなものだとぼくは経験から学んできた。一歩ずつ歩けば、きっと頂上に近づく。急いで登れば失敗する。遭難することさえあります。無事に頂上にたどりついたところでだれも褒めてくれない。なぜなら、それが目的で登ったのだから。「山があるから登ったんだ」というのかな。自分の意欲を発揮する、まあ、自主トレですよ。はたして山登りの効用はなにか。第一歩をしるし「尻込みをしないなら」、富士山にもアルプスにも自分の足(ちから)で登れる。自分が高まるというか、成長するというか。

 算数の学習も山登りの苦しさも、かかった通行料も困難さもだれにも同じ。「根気のない者には打ちかちがたいが、しんぼうづよくて一時に一つの困難のことしか考えない者にとってはなんでもないことだ」とアランはいう。

 重要なのは困難の度合いを少しずつ強めることです。小さい子に、いきなり跳び箱五段を飛べというのは無茶だ。どんな仕事(職業)においても、それなりに習熟・熟達するには時間がかかる。「自分で選び、従事してきた」というところが大切ですね。強制され、命令されたものは、たとえそれが当人の幸せになるとしても許してはならない。「頭の良し悪し(偏差値)」をいうのは論外で、アラン流にいうなら、「額(ひたい)ではなく、顎(あご)で」人間を判断する必要がある。足したり引いたりする部分ではなく、納得するまでは動かないという(意欲の)部分を評価するのです。額(ひたい)は計算(知識)の領域、顎は意志の領域だといいたい。

注意しないと危険。

 学歴や学力などよりも、社会的な名声や地位などよりも、人間の精神(前頭葉の機能でもあると今日では言われます)のあらわれである「意欲する」「注意深くなる」ことにおいて人間を認めたい。尊重するという意味です。そんなの、当たり前なんだよね。「誠実」っていうのは、自分が「選んだ」ことを都合よく忘れないことですね。人でも物でも、自分が選んだというところが肝だ。強いられるというのとは反対です。意欲し、注意して(人でも物でも)選ぶ。失敗はあるよ。それが糧になるね。どこかの大学の教員が別居中の妻を殺害したという報道がありました。「情念」が暴れたんだ。これが不幸を生むんですね。防げたかもしれないのに、意欲しなかったから「あやまち」を犯したのでしょう。

 《そのことから私は、生徒の勉強は性格のための試練であって、知性(ものを知る部分)のためのものではないという結論に達する。それが綴字法(つづり方)であろうと、訳読あるいは計算であろうと、重要なのは気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである》(アラン)          

 子どもが学習(勉強)する、それはまちがいなく一つの「仕事」です。残念ながらといえばいいのか、給料はもらえないけれども、たしかに働くことです。「宿題やったら、お小遣いあげる」という親がいます。「しなかったら、あげない」のか。気分に打ち勝つ(克つ)、自主トレーニング。でもそのほとんどが「強いられる」のはどうしたことか。勉強のなかに遊びがあり、遊びのなかに勉強があるにもかかわらず、です。多くの場合、遊びも勉強(学習)も軽くみられすぎている。多くの場合、両方を貶めているのですね。ぼくはいつでも遊び過剰人間でした、今でも。

いい空気を脳内に。

 それはともかく、勉強(学習)を通して「(意欲する)ちから」をつけ、みずからを鍛えて、いつかは「人の役に立つ」、そのための訓練の場が学校じゃないですか。だから、学校というところは、一人ひとりが「幸福になる」ためにみずからを訓練(練習)する場所である必要があります。今の学校はどうなっていますか。ぼくがここでいおうとするような、訓練の場となっていますか。気分屋を作っているのでは?「百点取れたら、お金をあげる」というのは馬に人参。猫に小判、豚に真珠などといって猫や豚を小ばかにしていますが、彼や彼女はそんなものを歯牙にもかけないという意味では、「金物」好きの人間を越えていますね。

 成功したから満足なのか、満足していたから成功したのか。

 「失敗は、なるたけしない方がよいに決まっている。けれども、真にこわいのは失敗することではなく、いい加減にやって成功することだ」「やってできないこと、やろうとしないからできないこと、この二つをいつでもはっきり区別することだ」(むのたけじ)

 勉強(学習)でも仕事(職業)でも事情は同じですね。「気分は悲観主義で、意志(意欲)は楽観主義から」ですね。気分を野放しにしておくと、殺人にまで至ります。戦争はそれの最たるもの。(2020/03/18)

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)