政府の権威について

 【一】

 白昼に夢を見るような気分でぼくはこの駄文を書いています。民主主義をどう捉えるか、その根本の姿勢をぼくはアメリカという国家が作られた直後に誕生したソローという人から学びました。(もちろん彼からだけではありませんが)民主主義(democracy)はいまだにどこにも実現されていない。だが一面では、どこにでも見て取れるということもできるのです。彼にならって言えば、民主主義は第一義的には暴力に対する抵抗(不服従・disobedience)です。

《私はいかなる人とも国家とも争いたいとは思っていません。些細なことにこだわったり、つまらない差別をしたり、隣人たちよりも上位に自分を置きたいとは思っていません。むしろ私は国の法に従う口実を探してさえいると言っていいでしょう。もういつでもそれに従う用意はできているのです。ところが実際はこういう自分に疑問をいだいてしまうのです。(中略)

  しかし、私にとって政府はそれほど重要でもありませんし、政府について将来考えることもほとんどないでしょう。この世界に暮らしていても、私は政府のもとで生きている瞬間はそれほど多くありません。実際、人は思想、幻想、想像の虜にならないかぎり、すなわち存在しないものを長期にわたって存在していると思わないかぎり、愚かな支配者や改革者によって致命的なかたちで干渉されることはありません。(中略)

  私のような者が進んで従うつもりの政府の権威―というのも自分より知識と実行力がある人に、また多くの点でそれほど知識や実行力のない人にも、私は喜んで従うつもりなのです―そういう権威であっても、やはりまだまだ未熟なものです。政府の権威が厳密に正当であるためには治められる者の承認と同意が必要です。

 政府の権威は、私の身体と財産に対して、私が認めたもの以外は、なんら理論的な権利をもつことはできません。専制君主制から立憲君主制へ、立憲君主制から民主制への進展は、ほんとうに個人を尊重する過程です。私たちが現在知っているような民主制が、政府において可能な最後の到達点なのでしょうか。人間のさまざまな権利を認め、それを有機的につなげるさらなる前進は可能ではないのでしょうか》(ソロー『一市民の反抗』山口晃訳、文遊社刊。2005年)

 【二】

 ソロー(Henry David Thoreau)(1817~1862)、アメリカの詩人、思想家、ナチュラリスト。マサチューセッツ州コンコルドに生まれる。終生、自分の足で歩き通した人でした。どんな肩書きにもおさまらない存在だった。没年は「文久二年」。代表作には『森の生活』がある。純正の民主主義者だといえるでしょう。アメリカがメキシコの領土の半分を奪った戦争(*)に対して、彼は反対し、人頭税を支払わないという態度を取ったので、監獄に収容されたこともありました。(だれかが税金を彼に代わって支払ったのでやむなく出獄した。ソローの意に反して、税金を払ったのは彼の先輩であり師でもあったエマーソン(*)だったとされています。かれはアメリカが誇りうる至高の思想家、宗教家でした。二人の間にいくつか逸話が残されています。そのうちの一つ)

(*)1846~48年のアメリカとメキシコ間の戦争。テキサス州がメキシコから脱してアメリカに合併したことに端を発した。アメリカはニュー‐メキシコ・カリフォルニアの広大な地方を獲得。メキシコ戦争。米墨戦争。(広辞苑・第五版)

(*)Ralph Waldo Emerson(1803-1882) 多方面で大きな仕事をした人。彼についてもいずれはていねいに駄文を綴りたいものです。ここでは省略せざるを得ません。

 ソローが収監されていた刑務所に赴いたエマーソンは「こんなところに入っていて、君は恥ずかしくないのか」と詰問したのです。そのエマーソンに対してソローは応えた。

 「あなたこそ、そちら側(刑務所の外)にいて、恥ずかしくないんですか」  

 ソローはどのような民主主義(国家)を願ったか。「政府というものは、できるだけ国民に干渉しないほうがいい」し、「まったく干渉しない政府が最もいい」と彼は言う。また、「国民一人ひとりにそうした心構えができれば、私たちの政府はそうしたもの(まったく干渉しない)になるでしょう」とも。

【三】

《国家が個人を国家よりも高い自律した力として認め、国家自体の力と権威はその個人の力から生まれると考え、そして個人をそれにふさわしいかたちで扱うようになるまでは、ほんとうに自由で開かれた国家は決して実現しないでしょう。すべての人にとって公正であり、個人を隣人として尊重して扱う、そうした余裕をもった国家が最後にはできることを、私はひとり想像しています。

ウオールデン湖-『森の生活』に描かれている

 そのような国家は、もしも国家から離れて暮らし、国家に口をはさまず、国家によって取り囲まれず、それでいて隣人、同胞としての義務はすべて果たす少数の人たちがいても、その安寧が乱されるとは考えないでしょう。国家がそのような果実を結び、熟して自然と落下するような経過をたどれば、さらに完全で栄光ある国家への道が開かれるであろうとまた想像することもありますが、そのような国家はまだどこにもありません》(同上)

 ソローの考える民主主義に根差した「小さな国家群」観をみれば、ぼくたちはいま、いったいどのレヴェルにいるのかが判然とするでしょう。気が遠くなるという方もいるでしょうし、夢のまた夢だからこそ、目を覚ます理由もあるというもの、だからと遠くを見据える人もいるでしょう。たしかにこの島の政治や政治家の質を想えば、卒倒するばかりです。以前(半世紀ほど前)は政治家が無能でも、官僚が優れて国家運営をするでしょうよ、とまあ任せられるように考えたりしたこともあった。

ウオールデン湖畔ソローの自作の家

 現状はどうです。どっちもどっち、政官の堕落競争です。税金の分捕り合戦の様相を見せてもいる。この醜悪な争いには限界がなさそうです。さて、どうします。ぼくにはもう一度、ソローたちに学び、ゴミの山のような政治家連中には指一本触れさせないような生活状況を作るほかないでしょう。個人の成長と同時に国家もまた成長しなければ、「国民」の不幸は止むときがありません。私生活に土足で踏み込まない、それだけの政治をしてくれ。(この項、さらにつづけます)(2020/02/29)

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)