
前回、ソローをもちだしました。彼について触れるのはぼくのこの上ない喜びですね。彼は大学を卒業してからいくつかの職業(教師、測量技師等)につき、最後は鉛筆(白墨づくり?)の制作に従事しました。それがもとで胸を病み、1862(文久2)年、45歳という若さで亡くなったのでした。明治維新の5年前です。漱石や子規などが生まれるほんの数年前のことです。ぼくは彼らも好きでしたが、それ以上に異国のソローに魅せられたのは、彼の「自由さ」という、考え方や生き方に見られる柔軟な視点・視野によるものでした。ソローは意志(will)の人でありましたけれども、けっして我を張る(頑張る)ような、意固地な人ではなかったとぼくには思われたのでした。

一つのことにとらわれない、ある方向に一方的に偏向しない、しなやかであり強靭な意志の力を彼の生活から感じ取れたと思ったからです。若い時に読んだ印象は、さわやかな、すがすがしいというものでした。漱石や子規とはまったく異なった詩情というか、こだわりのない印象が強烈でした。その経験は、それ以降においてもじつに貴重なものになりましたね。ぼくの「方位磁石」ともいえる人です。自動車の方向指示器は右か左だけ、それで不足はないのでしょうが。実人生の場合はとっさの判断やいずれにも決めがたい選択に迫られることはしばしばです。自分の判断を他人に頼るのではなく、迷いながらさしあたりは、こっちにしようという判断や決断にゆとりを持たせる生き方に魅せられたといえるかもしれません。
以下の文章は彼の著書からの抜き書きです。ソローという人がいかなる方向に向かって生きようとしていたか、それがよくわかると考えたからです。彼は決まりきった思想(教条)や主義主張で生きた人ではなさそうです。「これしかない」「これが正義だ」という硬直した棒のような生き方を徹底して排したのです。自分を支えるのは「自分がしている生き方」という毎日の生活態度でしかないということをぼくたちに示してくれました。(いかにも芸のない話ですが、お読みください)

「お金が手に入る道は、人を堕落させます。例外はないと言ってよいでしょう。みなさんがお金を稼ぐためだけに何かをしたというのであれば、それはむなしいことです。いや、もっと悪いでしょう。もし、働く者が雇い主の払う日当の他に何も手にするものがないとしたら、彼はだまされているのです。そして自分で自分をだましているのです。作家か講演者としてお金を得ようと思ったら、人気者にならねばなりません。それはもうただ堕ちていくことです」
「何のために働くのですか。生計を立てるためですか。「よい仕事」を見つけるためですか。ちがいます。ある仕事を心から満足のいく形で仕上げるためです。働く人に十分な支払いをするとしても、単に生活のためというような、低い目的のためではなく、働く者が知識にふれ合う、あるいは道徳的な目的のために働いていると感じられるとしたら、そのほうがお金を支払う町にとっても結局は有益でしょう。町の皆さんは、仕事をお金のためにする人間でなく、その仕事を愛している人を雇うべきです」
「自分の気に入った仕事に心ゆくまで専念している人が非常に少ないのに、ほんの少しのお金や名声に目がくらんで今している仕事を捨ててしまう人が多いのには、驚きます」

「人々が人生に求めるものは何ですか。ふたりの人がいるように思います。一人はあたりはずれのない成功に満足します。つまり銃を水平に構えて標的を狙うので、みな命中します。もう一人のほうは、生活は貧しく、出世街道から離れていますが、地平線よりわずかでも高いところに、絶えず自分の目標を上げていきます。私は後者のようになりたいのです。東洋人がいうように「いつも下ばかり見ている人は、すぐれたものに出会うことはなく、上ばかり見ている人はみな貧乏になっていく」ことは確かでしょうが」

「『賢い』という言葉はかなりの場合、誤って用いられています。他の人々より生き方に深く通じているわけでないのなら、つまり、他の人より狡猾で頭が切れるというだけなら、どうしてその人が賢い人といえるでしょうか。知恵の女神は囚人が踏み車を踏むような単調な仕事をするでしょうか。あるいは彼女をまねすることで成功の秘訣を教えてくれるでしょうか。そもそも人生に適用されない知恵というようなものがあるのでしょうか。知恵の女神は、論理を石臼で碾(ひ)いて精緻なものにする粉屋にすぎないのでしょうか」