センスとナンセンス

 優劣のかなたに

 「センス」ということばがあります。「物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚」(大辞林)とありますが、「あのひとはセンスがいい」「なんともセンスが悪い」というように使われます。また「(感じ取る)意味, 理解,意図,意義,価値;(語句の)意味,語義」など。さらにいえば、コモンセンスという意味で「社会通念」や「常識」をさすこともあります。学校教育で教師がもっとも重視するのはこの社会通念や常識の価値(世間で「有用」とされる考え方)であるともいえます。社会生活を営む上で必要な「センス」というものがあって、それを身につけさせるのが学校・教師の仕事になっているのです。子どもたちが社会に出て困らないように訓練する、それこそが学校の役目で、わかりやすくいえば、この「センス」(常識)をたくさん子どもたちにもたせることです。ごくろうさまです。

 子どもは社会に受け入れられるためには社会を受け入れなければならない。社会というのは既存の社会集団が備えているもろもろの価値観であり、社会規範の総体ともいえます。面倒ないい方をすると社会規範を「内面化する」ということです。その練習を学校でしているのです。子どもが学校で認められるには、学校の価値観を受け入れる必要がある。理不尽だと思われる校則でも、それを守る。無理な要求でも、教師のいうことにはすなおにしたがう。そうしているうちに、社会のルールを受け入れられる人間になるのです。学校教育は社会に出る前の訓練期間であり、一種の助走のようなものとみられます。社会に出て困らないための練習ですね。

 教育は社会化であるとしばしばいわれますが、基本的には既存社会の価値観や規範を植えつけること(上品にいえば、内面化です)を意味します。教師の仕事は子どもを社会化する点にあるとされる。したがって、どの子もみんなそれぞれにちがいがあり、それを一元的に比較することはできないというのは、社会の常識に対する不届きな挑戦とみられます。ぼくが懇願している「優劣のかなた」などはある種の幻想であり寝言だとされるでしょう。「現実はそんなに甘くはない」のであって、「優劣あり」こそが常識の立場になります。

 たしかに「優劣なし」、「優劣のかなた」は常識の土俵に入りそうにない。だからといって、それをまったく無価値・無意味なものとして無視していいのかどうか。子どもには出来と不出来があるから、成績の差が生じるのは当然だと常識派は主張する。ほんとうにそうかどうか、とそれを疑う柔軟性は常識派にはありません。優劣はある、それのどこが不満なんだ、と。

 「いい子」「優等生」は学校で作られる。「養成」(「栽培」という語を使うと叱られるか)されるといっていい。素直で従順、器用で要領のいい子に仕立てられる。これができれば優等生、これができなければ劣等生というように学校専用の物差しに合う合わないで「優劣」に分けられる。もちろん、学校専用の物差しは既成社会の価値に合うように特注されたものです。いつでも「劣等」だったぼくにはこの物差しの限界は知悉しているつもりです。

 「優劣あり」が世の中の実情だし、貧富の差があり、能力の高低がありというように、なにからなにまで序列づけされる。山田さんより田山さんの方が「優れている」という比較の発想はどこから生まれてくるのか。たしかにテストでは点数に差がつく。でもそれで終わりではなく、教師はふたりのなにをどこまで知っているのかという点になると、たちまち点数の差は仮のものだということに気づくはずです。

 「優劣あり」という常識派に対して、いや優劣などはないのだという非常識派にたつ。するとどのようなことがおこるか。成績至上主義、学力一点張りという「センス」(常識)に対する疑いがおこる。それはきっと「常識」でこりかたまっている「センス」を笑いとばすはずです。「ナンセンス!」と。センスに対峙しうるのはナンセンス。仮に「センス」を「意味」とすれば「ナンセンス」は「無意味」です。ということは、「意味あり」という世間の通念を「無意味」だと「無化」する、有効性を奪うというはたらきを持っているんです。

 「犬・猫に権利だと」などいっていた前時代の「人間独善主義」派の現状はどうですか。この島国でも、かなり昔は「犬・猫・畜生」などというのが「センス(社会通念)」(それは男の価値観」だった)でした。あるいは二次大戦の敗戦前には女性に対して「大学の門」は基本的には閉じられていました。(「女に高等教育(?」は不要であるぞ」)(今でも医大では特定の性に差をつけています)いまなお差別を容認する時代でもあるのです。それを忘れたくありません。どうしてそれが許されるのか、「ナンセンス」派はおおいに訝ります。(いずれこれも消えざるを得ないでしょうが)それが時代や社会の(男の)「センス」だからです。その時代の「センス」は「ライト」(権利)でした。現実はどうですか。ぼくたちはそのような「センス」を根底から無意味・無価値・無力なものにする「ナンセンス」の力を知ったといえます。

 「優劣のかなた」は「ナンセンス」だと笑われるけれども、それは「優劣あり」という「センス」を決めこんでいるつもりの取り澄ました「常識」を蹴散らし、笑い飛ばす力を根底に有しているのです。ぼくの若いころ(何年前くらいだったか)、まわりにはそんな(センス気取り)人種が五万といました。非常識の振る舞いの絶えないぼくにいろいろと忠告をしてくれたのですが、反吐が出るほど嫌でした。いつも「クズ」「ゴミ」と面罵したことを忘れません。(人間は図星を指されると、気色ばむんだね)(紳士淑女たちはぼくよりよほど年上だった)そんな連中は「社会的」には立派らしい顔つきをしていました。その証拠になるかどうか、ぼくより年上だった大半の「センス派」は国家から勲章を「いただいて」恍惚としていると人伝に聞きました。(正確には「いただく」んじゃなく、「貰いたいです」と申請するようです。どうでもいいことですね)ある御仁はぼくごときに受賞のための「推薦書」を書けと言ってきたこともありました。ぼく個人は何にせよ貰うのは嫌ですが、他人さまが「貰いたい」というのを邪魔はしません。(これでも他人の営業妨害をしないのが信条。理由はぼく自身が妨害されたくないからです)それでも「貰いたい」方の片棒を担ぐのはお断りしました。あるとき電話で「皇居内のおはなし」をぼくは聞く羽目になりました。

 ともかく、人間の社会が前に進むのは「センス」に対する「ナンセンス」のはたらきでもあります。だから「常識」然として前に立ちはだかるものは堂々と(陰に隠れてじゃなく)笑っていいんです。「ナンセンス」が「センス」にとって代わる。それが次の時代の「センス」(常識)になる、それをまた「ナンセンス」が笑い飛ばして、新たなステージを生みだす。デモクラシーの一面でもあります。まるである種の「椅子取りゲーム」のようですな。それで結構。だれも銃器を手にしていないから。こういう進み具合が進歩・向上・上達(progress)というものじゃないですか。その意味では、いつの時代どんな社会にも「ナンセンス派」「荒唐無稽君」「(他人から」「笑止千万主義者」(と罵られる人物)はいなければならない。でなければ、時代や社会は前に進まない。もたついていると、その隙間(ニッチ)を狙って、大昔への「退歩・回帰」派が「闊歩」しかねませんね。(まさか奈良時代にではなかろうが)いまの様子じゃ「王政復古」を唱えかねないですよ。「麗しき伝統」とか「醇風美俗」などと時代錯誤の単語を使ってさ。(2020/2/12) 

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。