「左前」は縁起が悪い?

 女性支配の観念世界に一貫するものとして、まず、右側に対する左側の優位を挙げることができる。左は女性の受動的な性質を、右は男性の能動的性質を示す。(略)/次に夜の胎内から生まれた昼に対する夜の優位という観念もまた、同一の根本原理の第二の表明として劣らず重要である。これと逆の関係は女性支配の世界には完全に矛盾するであろう。すでに古代人は夜の優位を左の優位に、さらに両者を母の優位になぞらえているし、…(略)祭儀の執行において、月は太陽よりも、受胎する大地は受精する海よりも、自然生活における死の暗い側面は、生成の明るい側面よりも、死者は生者よりも、葬礼は祝賀よりも重きを置かれている。(バハオーフェン*『母権制序説』) 

(*Johann Jakob Bachofen (1815~1887)スイスの古代法学者。主著『母権制序説』1861。他に『古代墳墓象徴試論』『タナクイル伝承』など)

 右手の優位―right(右)はどうしてright(正しい)のか?

 バハオーフェンの「母権論」はわたしたちの国でもかなり早くから受け入れられていました。ことに大正期にがそうでした。人類の家族史は父権制一本槍ではなく、それ以前には女性支配(母権制)がはっきりと認められるとするのが彼の考察です。「母権制」とは、①娘による相続権の独占、②娘だけが老齢の両親を扶養する義務を負う、③婚姻財産を持参するのは男性であり、それを用意するのは姉妹たちである、という慣行から成り立っているとされます。そして、このような「母権制」は「父権制」より古い文化(古層)に属するものであり、その繁栄の後に「父権制」の圧倒的優位の前に消え去ったというのです。

 そのことはさておき、今日の「人権論」の前提になっている「右手の優位」について、もう少し考えてみたいと思います。

□強者の人権?弱者の人権? ―人権の根拠を問う―

Ⅰ―「人」権の根拠(「基礎づけ主義」の限界を超えて)

*じん‐けん【人権】(human rights): 人間が人間として生れながらに持っている権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない。基本的人権。(広辞苑)

1「人」とはだれのことか? 

ⅰ)「男性(homme)および男性市民(citoyen)の権利の宣言」(1789.8)(所謂フランス人権宣言)⇔それに対するOlympe de Gougesの告発:「女性(femme)および女性市民(citoyenne)の諸権利の宣言」(1791.9)  

◆man(homme・Mensch)→人間→男性   

ⅱ)Catharine MacKinnon の告発

①「国際人権法」の実態と限界:《実質的にも形式的にも、人権の概念のなかに女性は含まれず、事実上、女性が不在のまま人間とは何か、権利とは何かが規定されています。人類の半分を形成する人々の尊厳、不可侵性、安全、生命などへの制度的、組織的侵害に対して適用されない人権の原理をみとめるということは、いったいどういうことなのでしょうか》(マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」『人権について』所収、みすず書房刊)

②形式的平等概念の欺瞞性:平等とは同一であることではなくて、階層序列(優劣)がないこと。

2なぜ、Human Rightであって、Human Leftではないのか?

ⅰ)右(right)は正義(right)だとされています。いったいどうしてだろう。

 《われわれの両手ほどよく似ているものがあるだろうか。しかし、両者の間にはなんという驚くべき不平等が存在していることだろう。右手には名誉と、嬉しがらせるような名称と、特権が与えられている。右手が行為し、命じ、「取る」のに対して、左手は、侮辱され、賤しい補助的役目を与えられている。左手は単独では何もできず、ただ、援助し、支え、「持つ」だけである》(ロベール・エルツ『右手の優越』既出)

ⅱ)尚右思想という「自然状態」:a.右手(男)と左手(女)の文化人類学

  =「人権」の原理(根拠) b.陰(女)(-)と陽(男)(+)の二元論

  あたりまえに口にし、耳にする「人権」の根拠はまず自然法でした。その法を信じる人だけにしか通用しない法でした。それはまた、現実の姿(男の優位)をそっくり写すものでしかなく、その現実こそが自然だったのです。しかし、〔今週のことば〕でもふれたように、女性支配こそが「自然状態」だったとする「尚左思想」というものもあったのです。

 《このような理念は、神話や歴史の中で、様々なかたちで表現されている。例えば、クレタ人はその出生国への最愛の念を「母なる国」という言葉で表した。(中略)/ 父性が制限的原理であるのに対して、母性は普遍的原理である。父性原理は自ずと狭い関係に限定されるのに対して、母性原理は制限を知らない点で、自然の生活原理そのものである。すべて人間を等しく包む同胞愛の考えは、子を産む母性に由来する。しかしそうした意識や認識は、父権制の確立とともに消え去っていく。父権制に基づく家族が個人の集団であるのに対して、母権制に基づく家族は普遍的性格をもった集団である》(バハオーフェン)

Ⅱ―だれの「人権」が侵害されるのか?

  人権の原理は人間(man)の経験に基づいているけれど、男性(man―male)の経験であって、女性(woman―female)の経験ではないということです。

 《「個人」とは「男性」(a man)を指し、人権とは主に「個人の」権利を指すのです。男性が人権を侵されることはありえます。というより、誰かの人権が侵されたとすると、その人間はたいていの場合、男性なのです》(マッキノン・同上)

Ⅲ―普遍的ということ~「文化」の相対性と「人権」の普遍性

 平等原理の拡大の基盤 → 性的不平等に対する抵抗。男性なみ(同等)に扱われることを要求するのではなく、女性であることを理由にした暴力や虐待に対するレジストあるいは拒絶。人権が侵害されるには、まず、人権をもつ必要がある。人権が存在しないなら、人間(性)に対する犯罪はないからです。新しい人権論への視座の獲得が求められています。

 少しばかり些末な部分にこだわり過ぎたようですが、ぼくたちの今立っている「人権の視座」、あるいは「人権の根拠」はどのあたりにあるのかを瞥見してみたまでです。エルツの考えに触れてみたとおり、「右」が多くの社会・集団においては有意な扱いを受けていました。われわれの島にあっても事情は変わらないといっていいでしょう。

 今日では慣習は壊れているようにも思われますが、婚礼写真(だけではなく、夫婦で並ぶ場合も)では、どうして男が右で女は左なのか。着物(洋服にも)に右前と左前があり、それぞれが男女に割り当てられていました。(ちなみに、「死に装束」は「左前」でした)結婚指輪なるものはなぜ左手の薬指ですか。人差し指でも中指でもありませんが、どうして?

「(男の)右」は正しい、それが「人権(human right)」だとなると、万人に普遍的なものとしての根拠がいささか怪しくなるでしょう。

 このような人権思想の現在に至るまでにはさまざまな要素が何十にも重なり合い、絡み合ってきたのは確かです。それを解きほぐそうとするのではなく、もっと単純で明快な「人権の位置づけ」をぼく流に試みたいと愚考しているのです。かなり難しいのですが。ようするに、「性別」を越えて生きる同士なんですよ。ヒューマニズムは「人間中心主義」であることはまちいありませんね。(2020/04/18)