
先年亡くなられた鶴見俊輔(1922-2015)さんに、ぼくはとても教えられました。何から何までというのはまちがいでありますが、大切なことを大小となく、くりかえし彼から学んできたと思っています。教えられるというよりは学ぶというのか、もっぱら学ぶ側の受け取り方が「学ぶ」の内容になりますね。お会いしたのはほんの数回だけでしたが、彼から教えられた(我流で学んだ)ことを自分の中にたしかなものとして、これからも育てていきたいといまなお願っているほどです。いずれは鶴見さんについて自己流の解析というか総合というか、偏頗になること請け合いの「鶴見論」「俊輔流」なるものを書いてみたいと無謀な計画を持っている。彼はどんな場合にも「日常性」を手放さなかった(たぶん)、プラグマティズムの哲学を一貫して実践された(きっと)人として、ぼくは記憶に刻みつづけています。ここでは、「優劣なし」という哲学・思想にかかわって鶴見さんの文章を少しばかり引用してみたくなりました。(この芦田さんも面白い方でしたね)

「私は芦田恵之助という人をとても好きなんですけども、芦田恵之助は、最終的に自分の教育の哲学はね、優劣なしってことだった。子どもに対するときに。それはすごいと思うんですよ。つまり、子どものね、一点から五点への評価でね、ことは終わったっていうことはもう、断じてあり得ないんです。子どものどれだけをわれわれは知っているのか。子どもに優劣あるはずはないってことを一方で、根本的な信条として持って対応しているでしょ。しかしある意味で評価はするのでしょ。しかしそんなことは仮の評価でしかありえない、常にその評価を自ら信頼しないっていうとこがね、芦田恵之助の活力であった気がする。その後の生活綴方ってのは芦田をはるかに越えたと思うんですけれども、それにこれはマルクス主義としての基準から優劣を決めるわけで、私はその底には芦田恵之助の哲学、優劣なしのナンセンス教育哲学は、全体としては克服されないと思います。そこのナンセンス性ってのはね、芦田にとっては教育の哲学のもうアルファであったらしい。児童文学というものとしてもアルファであり得るんじゃないですか。」
「それでね、点をつけないってことは、とてもいいことだと思うんだけど、しかし、つけてもですね。優劣なしっていうようなものを腹の中に持って対している教師とそうでない教師と違いますよ。だけどやっぱりナンセンスの底にあるものは優劣なしで、それはやっぱり無の活力なんじゃないかな。そういう思想がね。(略)」(「センスとナンセンス」1972。『鶴見俊輔集』10に所収。筑摩書房刊、1992年)

ここに述べられている芦田恵之助氏(1873-1951)は日本の教師。号は恵雨。兵庫県出身。後年東京高等師範学校付属小学校の訓導。鶴見さんは同校出身でした。芦田さんは晩年、授業行脚と称して各地に授業や講演活動を展開されました。彼が大きな役割を果たした「生活綴方」教育運動について、ぼくは深い関心をもってきました。いまでも何人もの「生活綴方」教師たちの仕事に深い敬意を抱いています。芦田さんは変わったというか破天荒な教師だったと思います。その一面に鶴見さんは触れておられました。まあ、一種のカリスマというか「教祖」的な人でした。いわば芦田教の信者の結社といいたいような「信仰団体」が各地に生まれていましたし、私淑の域をはるかに越えた心酔ぶりをみせる「教徒」「門徒」もおられました。いかにも彼は日本的な教育者だったとも言えますが、「優劣なし」という一点をもって、ぼくは芦田さんの教育論を受け入れました。そのあたりの機微をも含めて、芦田式授業論を祖述する機会を見出したいと願ってもいますが、さて、持ち時間が足りますかどうですか。(つづく)(2020/2/15)
_________________________