自分のすきな者を優等生にしろ

 総じて学校でする仕事を点にして書き出すからが、不自然きはまるものである。三点の者と五点の者との二点の差の意味はどこにあるか。五つ出来たら五点三つ出来たら三点みな出来たら十点、枡でくみはかるものではあるまいし、二点、三点などと可笑しくは思はないかね。成程量の方ならばそれでもことは足りるかもしれぬ。一体学校の仕事は量は大概きりがある。さきへさきへ、間口ばかりはりつめて行つたとて、仕方あるまい。も少し質の方向を考査する必要がある。(中略)

 「自分のすきな者を優等生にしろ」

 特に好んで奇矯の言を作すものではない。誰でもそれは同じことである。しかし、吾輩はこの論文で吾輩自身の悪口をいふつもり、述べ方も自然杜撰である。だから諸君が若し腹が立てば、吾人も亦同じ程度でこの論文を不快に思ふ筈である。しかし、自分のすきな者をといふこと標準にして飽くまで、自信と責任を以てどしどし児童を篩ひ分け、存分の処置をとりゆくものは、すぐれた人である。万人が万人このまねは出来るものではない。…この吾輩の言に向つて、自分の好きな子ならばどんな人でも優等にしてよいか位の愚問を発する向も更々ないとはいはれない。もしそんな人があつたとすればそれらは到底、度すべからざる手合である。(中略)

 教育を単なる技術の如く考へてゐるのでは、とても、全きを期すことは出来ぬ。

 事実に於て小学校の模範生優等生の後半生が他の者から一頭地を抜いてゐるとは諸君にも恐らく明言する勇気はもつまい。優等生でないものの将来より劣つてゐるとは吾人も申さない。といへば、優等生として諸君の推薦珍重するものが、諸君の手古摺る劣等児などと左程かはりないといふことになるだらう。これらに又しても孤立せる現代教育の悲哀がみちみちてゐる様な気もする。どこまでも小学校の先生はお目出度いかともいひたくなる。(中略)

 学校で実際よかつたから優等にしたのだ。卒業後のことなど寸り知る所にあらずなどと遁れることは出来ぬ。小さい人間の、大事の「若木に爪を立てな」といふ時代をあづかつておきながら、彼等全生涯について責をもたぬとは許される言分ではあるまい。最善をつくしてゐればゐる程、その児童生涯の責任を感じなければならぬはずである。まして、学校で実際出来たというその出来るからが、あやしいものであるではないか。(小砂丘忠義「優等生論」『極北』第四号、1921年) 

最初の赴任校(岡豊(おこう)小学校

 優等生とはだれのことか。優等生はだれがつくるのか。

  「自分のすきな者をといふこと標準にして飽くまで、自信と責任を以てどしどし児童を篩ひ分け、存分の処置をとりゆくものは、すぐれた人である」という意味はどこにあるのか。計算ができるから優等生で、漢字が書けないから劣等生なら、就学以前はみんな劣等生だし、学校のない時代や社会の人間もまた、りっぱな劣等生でしょう。

 優劣を生みだすのは学校であり、教師ですが、どうしても優等生をつくらなければならないとしたら、「自分のすきな者を優等生にしろ」という小砂丘忠義(1897~1937)さんの啖呵の出所をていねいに考えてみる必要がありそうです。(「優等生」を生み出すのと同じ比重で「劣等生」もつくられるのです)

        蒼 空  

開館数年をおかずに閉館

蒼空をごらんなさい / 蒼いばかりぢやないでせう?/ まぶしいほどに光るでせう

蒼空をごらんなさい / 雲がむくむく出たでせう / 雲もぎらぎら光るでせう

私は蒼空をみてゐると / はづかしいことはできません / かなしいこともありません

私は蒼空を見てゐると / 何もかんにも忘れてしまつて / むくむく心がおどります

も一度蒼空をごらんなさい / どうです、あなた、/ いつまでみてもたらないでせう(文集『蒼空』第一号・1922年8月)

 小砂丘さんの「詩」です。彼は師範学校を卒業して、いくつかの学校の教師・校長を務めましたが、土佐のせまい教育界には居場所が見つからず、東京に出ていくつもの雑誌の編集発行にかかわりながら、教師たちのため子どもたちのために、大きな足跡を残しました。彼の仕事をまとめたものとして、「小砂丘忠義教育論集」(南の風社刊)があります。

 一世紀以上の前の歴史です。土佐の小さな田舎の尋常小学校の若い教師が万感の思いや期待をこめて、幼い子どもたちに語りかけている。「子どもといっしょに歩くひと」が教師だとぼくは言いつづけてきた人間です。二十歳過ぎの小砂丘さんを見て(読んで)いると、涙が出るほどに感心するのです。まさに無手勝流の極北にいた人として、この青年教師にまっすぐにつながりたいと、ぼくも若いころから願ってきたのでした。彼は土佐で教師生活をしたのはたかだか八年間(1917-1925)でした。県や郡の視学(現在の教育委員会)の執拗かつ暴力的な職権乱用で、ついに県外に追放されたのです。(事情は先輩の上田庄三郎さんに同じ)上京後は雑誌「教育の世紀」(1923年に下中弥三郎(左写真)が設立した「教育の世紀社」が刊行)や「綴方生活」(同じく下中の作った会社から出版)の編集責任者として、「生活綴方」教育の流れの中心に位置しつづけました。

生活綴方(せいかつつづりかた)児童・青年,さらには成人に自分の生活に取材したまとまった文章を書かせることによって,文章表現能力または,表現過程に直接間接に現れてくる知識,技術,徳目,権利意識,意欲,広くはものの見方,考え方,感じ方を指導しようとする教育方法,またその作品,あるいはその運動。大正初期に発生以来,時代,指導者の違いにより,どこに力点を置くかが異なってきた。その原型をうちだしたのは芦田恵之助,鈴木三重吉,小砂丘(ささおか)忠義など。昭和初期の小砂丘以後の運動は,秋田県の成田忠久ら東北地方の教師たちの北方教育運動等と呼応,綴方や生活指導を通じて子どもの生活・学習意欲をつちかうことをめざし,生活綴方運動と呼ばれた。1992年(ママ)10月に,運動の母胎となる雑誌《綴方生活》創刊。その伝統は戦後に継承され,1951年3月刊の無着成恭編《山びこ学校》や国分一太郎著《新しい綴方教室》はその再興といわれた。(マイペディア)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです