教師は全知で、生徒は無知なんだ

 「銀行型教育(banking concept of education)」について

  「押しつけられる受動的な役割を完全に受け入れれば受け入れるほど、彼ら(生徒たち)はますます完全にあるがままの世界(現実)に順応し、彼らに預け入れられる現実についての断片的な見方を受け入れるようになる」(パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(Pedagogy of the Oppressed. 初版はポルトガル語版、1968)亜紀書房刊、1979年)

  パウロ・フレイレ(Paulo Freire)( 1921~1997)ブラジル出身の教育実践家・思想家。彼の本領はブラジル北東部のレシフェにおける貧困に甘んじていた農民に対する「識字教育」でした。物言わぬ農民たちが意識をみずからの生活世界に向けだすようになると、それまでの沈黙の世界は一変しました。矛盾や不公正がどんなにむごい事態を強いていたかが明らかになったからです。そのために大資本家の横暴に批判的になったのは当然でした。それがために、六四年のクーデーターに際して、フレイレは国外追放となり、亡命を余儀なくされた。無知から解放されると、体制に対する批判が噴き出てきます。「教育実践」は大なり小なり権力闘争の要素をも含んでいるものです。学校批判や教師批判は、時として「反社会的」と非難されますが、「反社会的」なのはどちらでしょうか、抑圧される側か、抑圧する側(権力を行使する側)か。「反社会的」という態度は非難にしか値しないのか。「抑圧」はつねに暴力を伴うとは限りません。猫なで声やゴマすり風に「抑圧する」暴力もあります。自由の行使を阻害すること、それこそが抑圧です。

 以下は『被抑圧者の教育学』の一節です。まるで「銀行型教育」の核心(定義)のようです。

 1 The teacher teaches and the students are taught.

 2 The teacher knows everything and the students knows nothing.

 3 The teacher thinks and the students are thought about.

 4 The teacher talks and the students listen-meekly.

 5 The teacher disciplines and the students are disciplined.

 6 The teacher chooses and enforces his choice, and the students comply.

 7 The teacher acts and the students have the illusion of acting through the action of the teacher.

 8 The teacher chooses the programme content, and the students (who were not consulted)adapted to it.

 9 The teacher confuses the authority of knowledge with his own professional authority, which he sets in opposition to the freedom of the students.

 10 The teacher is the subject of the learning process, while the pupils are mere objects.

  Any situation in which some men prevent others from engaging in the process of inquiry is one of violence. The means used are not important; to alienate men from their own decision -making is to change them into objects. …
  In the banking concept of education, knowledge is a gift bestowed by those who consider themselves knowledgeable upon those whom they consider to know nothing. …

 The teacher presents himself to his students as their necessary opposite; by considering their ignorance absolute, he justifies his own existence. …(P. Freire)

 銀行型教育において 教師―生徒の関係は「垂直」であり、教師には権威主義が濃厚に認めらます。この垂直関係の秩序を遵守し、教師の預ける「預金」を懸命に蓄える「金庫」に徹すれば、彼や彼女は優等生となれる。ここにいう優等生とは「現にいまある世の中」を素直に受け入れることができる態度や行動を身につけているという意味です。現状に無批判であるという姿勢をとらされるのですね。

 どこかでホワイトヘッドの「子どもはトランクじゃやありません」という教育哲学を紹介しました。フレイレはそれとまったく同じことをさらにていねいに、また過激に「生徒は金庫(コンテナ)」にさせられていると述べています。教師はその金庫に貯金する役目(預金者)です。彼はホルトと同時代に生きた思想家であり、農業指導者であり、「識字教育」の実践者でもありました。何度かこの島社会にも来ています。日本はもっとも「銀行型教育」が成功している社会であるとみていました。(つづく)

*https://www.freire.org/paulo-freire/

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)