言葉ってものは

 「この世界が平和でありますように」とお祈りする人がいる。「人権を大切にしましょう」と子どもたちに教える先生がいる。祈ったり教えたりした結果、世の中が平和になったり、どなたの人権も大切にされるようになるなんてだれも考えないだろうし、そうなるよなどと言う人がいれば、なんとおめでたい人かと軽んじられることはあっても、尊敬されることはありそうにない。でも、ホントにそうだろうか。「この社会が平和でありますように」とぼくたちは心から念じて祈っているだろうか。「この子の人権が蹂躙されないように」とわたしたちはホントに願っているのだろうか。(山埜郷司)

 詩人の大岡信(1931-2017)さんが公募された詩の選者であったとき、忘れられない詩に出会った。それはブラジルの少年の短詩で、原作はポルトガル語だった。それが英訳された。それを大岡さんが日本語に訳したものです。(大岡さんはある新聞で「折々のうた」という200字ほどのコラム連載を三十年近くも続けられていました。ぼくそこからたくさんの詩歌を教えられました)

     言葉ってものは

     傷つけもするし

     幸せにもする

      単純な文法です

 この異国の少年の詩を前に、大岡さんは「オミゴト!としか言いようのない短詩だった」と述べられていました。これはなにを言い当てているのか。わたしたちの問題は「ことば」です。どんなことばを語るか(それが、その人の「文法」)ということであり、教育(人権を語る教育)はそれに尽きるとぼくは考えているほどです。だれがだれに対してどんなことばを語るか。この「だれ」は自分で、「対して」のだれはあなたです。いつでも「ことば」はそのような関係のなかで語られるものですから。人間は「ことば」からできています。なかには「脂肪」からの人もいる。「特定のだれか」がいない言葉は「死んだ・干乾びた」、記号や符号で、もはやそれはことばとは言えない代物です。そんな「代物」をしゃべらされている可哀そうな御仁もいます、あちこちに。

 このように「単純な文法」である「ことば」の対蹠(タイショ・タイセキ)にあるのが次のような死んだ(生命力のない)、つまりは「傷つけもするし、幸せにもする」ことのない)「ことば」です。一例として「人権擁護推進審議会答申(の一部)」(官僚作文の典型で、今どきのソーリが読み上げさせられるのもこいつなんですね)を教材にしましょう。

(3月9日付)

 《いじめの問題については,いじめは人権にかかわる重大な問題であり,「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されることではない」という認識に立って各種の取組が行われている。また,障害者に対する正しい理解認識を深めるために,障害のある児童生徒と障害のない児童生徒や地域社会の人々とが共に活動を行う交流教育などの実践的な取組が行われている。/ 大学等における人権教育については,例えば,法学一般,憲法などの法学の授業に関連して実施されている。また,教養教育に関する科目等として,人権教育に関する科目が開設されている大学もある》

 まるで悪い冗談の見本ですね。なにをいっているのか、(「言語明瞭、意味不明瞭」などと揶揄されて、それを売り物にしていた盗人顔負けのようなソーリもいました)「人権」とは「いじめは人権にかかわる重大な問題であり,『弱い者をいじめることは人間として絶対に許されることではない』という認識に立って各種の取組が行われている」から「尊重」されたりするものじゃないのは確かでしょ。校長が教師たちを「いじめ」、教師が生徒たちを「いじめ」ている、政府や官僚が人民を「いじめ」たおしている。不実が劣島を蹂躙しているんですね。

 現下の事態を少し見れば、連中がどれだけ「他者の人権」を軽視し無視しているか如実に見てとれます。(いつの時代でも地域でも、他に対して「献身」している人々がいることをぼくは知っている)人民の不幸や災厄をいかにして己の利得*や評価に結び付けようかと腐心するのもまた生きた人間であり、かかる不遜きわまる、心身ともに赤茶け黒ずんだ連中が要路を占めているのは、今に生きるぼくたちの不幸でもあります。

*利益 「仏・菩薩 (ぼさつ) が人々に恵みを与えること。仏の教えに従うことによって幸福・恩恵が得られること。また、神仏から授かる恵み。利生 (りしょう)」 (デジタル大辞泉) 

 学校はトンネルの中に入ったままである。劣島の子どもたちよ、たくましく、おおらかに生きてくださいね、助けあいながら。

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)