若い教師の仕事
「凡そ世に、他人の手先にあやつられるばかりというべきものはないと思う。それは第一義の吾人の名誉を無視したことだからである。第一義の名誉とは『吾人は吾人の吾人なり』ということである。この名誉こそは私達の命がけになって保護しなければならぬものである。
「私達の出発点はここです」(小砂丘忠義・「山の唄」)

上田庄三郎さんたちと同じような「教育宣言」を放ったのです。「われはわれなんだ」という自己(個人)を天下に突き出す覚悟の闡明でもありました。これを書いたのは当時22歳だった小砂丘忠義(ささおかただよし)さん(1897年生まれ)です。高知県出身。高知師範学校を卒業後、母校だった杉尋常小学校の訓導(教師)として赴任します。そこに三年間とどまる。(戦前、教員になるには師範学校卒の資格が(原則としては)不可欠でした。その「教師養成教育」の内容には独特の形式尊重主義が頑固に順守されていたとも言えます。明治初期以来の師範教育の性格がこの島社会の教師たちに色濃く反映されているのです。その点についてはいずれ触れるつもりです)
*小砂丘忠義 1897‐1937(明治30‐昭和12) 生活綴方,生活記録の方法の確立に足跡を残した高知県の小学校教師,のち編集者。本名笹岡忠義。1917年高知師範学校卒業。この運動の源流のひとつであるSNK協会同人などを経て上京し,《教育の世紀》や《鑑賞文選》の編集に携わったのち,第二次《綴方生活》(1930年10月~37年12月)を主宰した。同誌の読者で寄稿者でもあった全国の綴方教師たちの寄せる各地の子どもの綴方の読解と整理にとりくみ,日本語と日本語による文章表現指導体系の発見と確立に力を注いだ。(世界大百科事典第二版)

文集「山の唄」第一号が創刊されたのは1919年1月のことでした。翌20年には旭尋常小学校に移動。なによりも自分あっての生活であり、人生だとはっきりと悟っていた人だった。「吾人は吾人の吾人なり」と宣言したのは「山の唄」第二号においてでした。
後年、「生活綴方の父」などと称されることになるのですが、早くも教師生活の出発点にその明確な萌芽が見てとれる。「吾人は吾人の吾人なり」と自他ともに自覚するには「ことば」をもって語らなければならない、そのように語らせる仕事こそが教師のおこなうべきことだというはっきりした覚悟がありました。
後に『私の綴方生活』でこの時期のことをつぎのように書いています。
「私はまず、綴り方からと考えて教壇に立った。何々式だの、何々主義という縄ばり内にこもる流行の嫌いな私である。無定見に近いのんきさでゆっくり私はやってきた。十年たつ中にはむろん自分も成長する。自分が成長すれば私の綴り方も成長するだろう。あわててここに仕上げを見ようという興味は毛頭ない。月並な杜撰(ずさん)な言い分だが仕上がるということはある意味で危険なことであり、また大した意味のないことである。大器晩成でなくて大器なればそれだけ永久に未成であるはずだ」

あるとき、小砂丘忠義さんが担当していた子どもの綴方につぎのようなものが出た。
「日本武尊(ヤマチタケル)はクマソの子であって、エゾを討ちました」(五年M)
この「綴方」をみて、小砂丘さんはいうのです。
「私は面白いと考えた。まず形の上では誤謬はない。そして初めて歴史を習った子どもとして多少なりとも歴史的記述も出来ている。少なくともMとしては、その頭の中で何らか考えたらしい創作の跡を私は見た。これならばみんな綴り方はやり得ると私は信じた」
型破りの教師がいたものですね。これでは並みの校長が驚くはずです。でも、小砂丘さんは校長たちの横やりなどいっこう気にしていないようです。「ヤマトタケルハクマソノコダッタ」という歴史的事実のあやまりを云々するのが彼の主眼ではなかったからです。

*日本武尊 記・紀にみえる景行天皇の皇子。仲哀(ちゅうあい)天皇の父。九州の熊襲(くまそ)の首長を攻めほろぼしたとき,熊襲から日本武尊の尊称をえる。のち伊勢(いせ)(三重県)にいた叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)をさずかって東国の蝦夷(えみし)を平定,帰途伊勢の能褒野(のぼの)で病死したとされる。「日本書紀」によれば,このとき30歳。名は小碓(おうすの)尊。別名に日本童男(やまとおぐな)。「古事記」には倭建命とあり,名は小碓命。別名に倭男具那命。(デジタル版日本人名大百科事典+Plus)
*古代九州西南部の地域とその地に住む人々の総称。《古事記》では〈熊曾の国〉とみえる。肥後(ひご)国球磨(くま)郡,大隅(おおすみ)国贈於(そお)郡の両地方に基づく名称であろう。後に隼人(はやと)の名称に吸収されていくが,《日本書紀》では地名のほか,この地方に住んだ勇猛な豪族名としても用いられている。(百科事典マイペディア)

「私は…すべて自由選題で自由な表現を待つことにした。等しく自由選題にしても何か一文書かねばならぬという考えでやってはもとより何の自由選題でもない。既に完全な課題強課になっているものと見ねばならぬ。自由選題が題材をのみ子どもに自由選択せしめる程度ではいけない。題材はもちろん表現もさらには文章を書くか書かぬかも当然自由であるべきはずである。書くまで待とう綴り方でもない。書かしてみせん綴り方ではさらにない。やきもきせんでも、子どもは実に見事に書き得るものだとの全肯定に私は出発した。(略)我々の生活は、学校の綴り方や、試験の為にあるのではなく、もっと一番さきを行ってるものである」(『小砂丘忠義『私の生活綴方』)
今から百年以上も前に、こんな実践を敢行しようとした若い教師たちがいたのです。芦田恵之助さんは「随意選題」といわれていました。小砂丘さんは芦田氏も痛烈に批判しています。
彼らにとって、子どもと寄りそい、子どもとつきあう、それこそが「教育」というものだった。そのような交わりを阻害する要因(土佐教育界の官僚たち)は万難を排して除外するという心意気だった。太平楽を並べていたのは小砂丘さんたちだったか、あるいは惰眠をむさぼっていたのは県や郡の視学たちではなかったか。「出る杭は打たれる」、かならず打たれるのは当然の成り行きでした。「打ちつづけ」なければ、放った矢が自分(視学)たちの方に返ってくるからでした。小砂丘さんは抵抗に抵抗を重ねた。その最大の武器は教育という「実践」であり、他者には指一本触れさせない「現場」に徹するという姿勢にありました。