いたるところに「学校」あり

 「学校とわたし」

 小学校の思い出は、やはり写真との出会いかな。下町でげた店を開いていたおやじは、本業より写真に夢中。セミプロ級の腕前で、よく七五三や入学式の写真撮影を頼まれて、おれが助手としてついていった。

 兄弟は他にもいたのになぜおれを選んだのかはわからない。三脚を立て、暗箱の中にカメラを組み立ててレンズをのぞくと、逆さまの校舎が見えた。一切の風景を遮断して被写体と向き合う、あの不思議な一瞬は忘れられない。

 おやじはじきに、ベビーパールという名前のおもちゃのようなカメラを買ってくれた。それでいっぱしの「芸術作品」を撮るぞ、と思ったんだな。小学校の林間学校で日光の東照宮に行った時、1人で朝早く起きて、閉まっていた門を乗り越えて、中の風景を撮ったことを覚えている。

 放課後はろくに勉強もせず、外で友達とメンコや剣玉、ベーゴマ遊びをしていた。でもなぜか成績はよくて、5段階評価で音楽が3だった以外はオール5だった。読書が好きだったわけでもないけれど、作文もほめられたりしたなぁ。

 小学校で覚えているのは戦地から引き揚げてきた帰還兵の先生。毎朝、本を朗読してくれた。朗々と「レ・ミゼラブル」を読み上げるんだが、ジャン・バルジャンの人生が胸に迫り楽しみだった。クリスマスの時期になると外国人の家に連れていってくれ、ジングルベルを聞いたりした。読書とか英語とか、これからの時代を生きるのに必要だと思ったんだろうなぁ。

 中学で初めて好きな女の子ができた。修学旅行ではその子を狙ってシャッターを押した。もちろん寺も撮った。女と風景。そのころからずっと、同じものを撮っているのかもしれない。

 写真を専攻しようと千葉大工学部の写真印刷工学科に進んだが、期待と違って、フィルムやカメラの仕組みを勉強する学科だった。32歳でプロになるまで特に撮影の勉強はしなかった。おやじが購読していた「写真新聞」を小さいころからながめたり、撮影助手をしたりで、自然と感覚が身についた。学びの場は現場だったってことだろう。【聞き手・山本紀子】 ==============

 ■人物略歴

 ◇あらき・のぶよし=40年東京都生まれ。通称アラーキー。64年、下町の子どもを撮った写真集「さっちん」で太陽賞受賞、72年に電通を辞めフリーに。女性ヌードを多く手がけ、作品に「わが愛、陽子」など。(毎日新聞 2008年5月19日 東京朝刊)

  「学校とわたし」というコラムはどれくらいつづいているのか。(ぼくは新聞を読まなくなって久しいので、このコラムの現況も知らないままです。新聞はたちまち旧聞になり、反対に旧聞は新聞に顔貌をかえるのが世の常のようでもあります。したがって、「旧聞」をひとまとまりでも束ねておけば、世の中の人情や世情を知るのに不自由しないという仕儀に至るようです。ぼくは今では考えられませんが、「切り抜き」などという面倒をいとわずにやっていたことがあり、それがかなりの分量になって残っている。ひまにあかせて折々、そいつを引っ張り出してはあらぬことを妄想したり、世の無常や無情を嘆いてみたり、ということはしませんで、いつでも変わらないままなんだなあ、という諦念を強くするのです。ぼくの出発地点は「諦念」です。あるいは「絶望」といってもいいのです。ぼくに言わせてもらえば、「希望」と「絶望」は紙一重。人は安易に「希望」を口にしすぎますな。ぼくには「絶望」を語っているようにしか聞こえません。

 「学校とわたし」の今回はアラーキー、単に切り抜きが目についただけです。一度だけどこかで会った記憶があります。不思議なお顔をされていました。小さな方でしたね。でも、さすがに彼のフォトはいいものだというぐらいはわかります。森山大道さんとはまったく異なりますが。

 それぞれのひとが「自分と学校・学校と自分」、「自分の学校・学校の自分」を語っておられました。学校に対する距離感の違い、教師に向ける眼差しの濃淡、あるいは学校そのものに対する信心と不信。学校(教育)に寄せる想いはまた、一人ひとりの生き方の流儀を語るものでもあるようです。卒業して何(十)年も経った時点での語らいですから、美化する人もいれば、はなから峻拒する人もいます。でも「脱学校」「反学校」「非学校」(大まかに言えば、学校を拒否した)という観点で話す方はまずいませんね。

 そこに共通して認められるのは、多様で多彩な不信の念のようでもあります。もちろん、ぼくには信じられないような「学校礼賛」を語られる人もいました。どんな学校だったか。あるいはそれは学校じゃなく、遊園地だったか。学校は「必要悪」以下のものでしたね、ぼくには。

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)