教育は国事じゃないでしょ

 根っ子にある経験

 ぼくにとって、教育は私事であって、国事ではない。このことは何度でもいいたい。もちろん、そういったからといって国家は学校教育の管理権や支配権を個々人に返しますと言うほどしおらしいわけでもなく、だから、そこにおのずからなる公と私の闘い(みたいなもの)が生まれてくることになる。それは当然の成り行きです。

 自分がどのような教育を「受けて(受けさせられて)きたか」という、その体験は貴重な意味をもっているとおもうのです。ぼくはおおくのひととある点では同じ、ほかの点では異なる「学校教育」を経験してきました。これはぼくだけの体験です。そう、オンリーワンというやつです。学校教育というものに対する姿勢は自分流であって、だれの体験とも似ていないということができます。したがって、それを敷衍する、一般化することはかたく禁じたいとかんがえてきた。そんなに立派なものではかったからでもありますが。

 どんなことがらにせよ、自分がしてきた体験をくりかえしかんがえ、その体験とむきあうところから生まれてきた感情(?)を根拠にして、教育に対する態度・姿勢(ひとつの見方であって、思想などといえないかもしれない)を作ろうとしてきたといっていい。だから、教育に対する考え方の根底に自分・我流(自分だけ)の体験があるという意味では、「私」一個に足をおいたかんがえであり、意見です。この足場からはずれて、カントの思想に立脚してとか、ルッソオの教育論が原点なんだというスタイルはとりたくないし、とらないし、とれそうにありません。そのかぎりではまったくアカデミックじゃない、幸いにして。

 いまでは滅私奉公という言葉は表だって使われなくなりましたが、しっかりと生きています。装いをあらため、あるいは厚化粧をほどこして大通りを闊歩しているのがすけて見えます。そして声高に「メッシホーコー」を叫んでいるひとたちは、どうみても「私欲」をすて、「私情」をまじえず「公」に身をゆだねようとしている風にはぼくの目に映らないのはどうしたことか。そうとうにわたしの目が悪くなったのかもしれません。(ぼくの知り合いは「滅死奉公」と書いて手紙高をよこしたことがありました。図星ですね)(つい数年前、若い人たちが「✖✖を囲む会」を開いてくれましたが、不参加だった一人は「「偲ぶ会」は盛況だったそうですね」、とハガキをくれました。その彼は今も経済雑誌の記者をしています。✖✖はぼくです)(ぼくは今は存在していない人間なんです、雑誌記者にとっては)

 根っ子の「私」から

 学校教育のもっともよくないところは、教育を「受ければ受ける」ほど、自分を失ってゆくところです。「もちろんそれがねらいなのだ」という悪魔の声が聞こえてきそうです。それも「自分を失え」などとは言わないで「素直であれ」とか「従順であれ」と口うるさくいうのです。素直=「おだやかで人にさからわないこと。従順。柔和。」このようにいうのは広辞苑です。(おだやかと、さからわないとは同じじゃないとおもいますが。素直ではないか)

 もちろん、これだけが「素直」の説明でないことはとうぜんですが、学校が子どもに求める第一の態度はこの意味で言われる「素直」でした。さからわない、従順、これを貫徹すると「順序が狂わず、正しく従うこと」(同上)になり、長幼の序といううるわしい秩序が保守・強化・再生産されることになります。一時はこの国でも「長幼の序」は盛んでしたが、だからこそ往時をなつかしがるむきが勢いをましてきたのでしょう。

 滅私も奉公も姿形は同じで、もちろん中身も変わらず、装いだけを一新させて生き延びていたのです。「公共の精神の涵養」などという言葉を、権力のお追従機関の「中教審」などははさかんにこねまわしています。「国家は公」というのは本当のようで、実は虚構(嘘っぱち)なんだ。絵空事だし、白日夢だし、悪夢でもあります。

  根っ子でふれあう

 このような場所(上でいう虚構・悪夢の囁く場所)とは別個の地点からかんがえ・実践する「教育」というものがあってもいい、なければ困る。それは、ぼくたちにとっては必要だとおもっているのです。「私」から始まるとか、自分のことからかんがえるというと、ただちに自分勝手であるとかわがままだなどという非難がとびだしてきます。おそらく「ご自分」の体験にもとづく短絡した発想だとおもわれます。でも、それはまちがいです。自分のことを考えるから、他人の存在が考えられるんですね。ひとりから始まり、別のひとりに支えられて社会はなりたっています。そのとき、ひとりの「私」がどのような存在であるかはことに重要になるでしょう、社会集団の構成や成り立ちにとっては。

 「私」という最小単位の、そのまた最深部にあると確信する「私の核」が、他者の最深部の「核」とふれあう景色を想い描いてきまました。個に特化してゆく、そのさきにそれぞれの他者と共通するなにものかがあるにちがいない。まあ、それは人間の深部にひそむDNAみたいなものかもしれない。

DNA

 教育は私事だとぼくがいうのは、十人十色を一色に染め上げるのは美しくないばかりか、暴力的でもある、ひとりひとりの色合い、風合いを尊重するところに調和(凸凹・不協和音がありながら、なお瓦解。破綻しないという意味で)が生まれるとかんがえているからです。ちいがあるから、いいんですね。というより、ちがいがなければ、自分が自分であることをどうして知ることができるか。

 ぼくとつれあいがクローンのようであるなどいうのは、どこかに不正がはたらいているんじゃないですか。100人がすべてバイオリンであったりトランペットであるようなオーケストラなんて、他人はいざ知らず、ぼくは、まっぴらごめんですね(もう何十年も前になりましたが、ベルリンフィルのチェリストが12人で合奏した演奏会がありました。ぼくにはベルリンであれウィーンであれ、そんな演奏会はいただけなかった。奏者の趣味や遊びだったと思うけれど、ぼくには響いてこなかったのをはっきりと覚えています。ぼくが演奏曲目の解説を書かされたのですが、作曲者名はまったく知らなかった。メンバーに聞いたところ、眼前の演奏者自身の作曲だったというおまけまで)

 教育は国事ではなく、りっぱに私事に属する事柄ではないか。国家・社会のために生きているのでもなければ、公(国家と重ねて言われていますが、それはまやかし)に身を捧げるために教育を経験しているのではないでしょう。「私は私の人生を生きる」といったのは金子ふみ子という女性だった。自己の人生をまっとうしようとして、結果的に人のためになるというのは大いにあることだし、それはそれで願わしい人生でもあるのです。

 学校は何のために、誰のためにあるんですか?

(めっ‐し【滅私】私欲・私情を捨てること。個人の利害を考えないこと。)(広辞苑)