
徳永 野の花診療所では死を前にした患者さんに何かしたいことを尋ねて、実現するようにお手伝いしています。「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空をみたい」「道を歩いてみたい」・・・。
生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。今の社会は主義主張の方が肥大化しすぎているから、修正する必要がありますね。

鶴見 日常の暮らしというのはそれだけ、すごいんだ。
徳永 ベルトコンベヤーにのった人生はつまらない、と死ぬときにわかる。それでは遅いんだけどね。ところが、例えば好きな山登りをやったという人は「死の野郎がもうちょっと遅くきたらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しょうがないかな」と、どこかで手を打つ。死と取引できたりする。だが、ベルトコンベヤー人生では取引できるものがないので、死んではならない。死は悪で、遠くにおくもの、となる。(中略)
鶴見俊輔さんと徳永進さんとの対談。(「生き死に 学びほぐす」2006年12月27日・朝日新聞)徳永さんは現在、鳥取県でホスピスケアのある野の花診療所を運営している。

(http://nonohana.no.coocan.jp/)
その徳永さんとガン患者の女生徒の会話。
「がんでなかったら、がんでないとはっきり言って下さい」「ええ、がんじゃありません」「ああ、よかった」(その患者は自分ががんであることをしっているが、信頼する医者からそうじゃないといってほしかったのです)
鶴見さんはこのことを次のようにいう。
《医者は「あなたはがんです」というのが正しいのかもしれない。しかし、徳永が「がんではありません」というのは、死に臨む人が語り残したことばをくみ取り、まなんだからである。
戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」といった。まなび(ラーン・learn)、後にまなびほぐす(アンラーンunlearn)。「アンラーン」ということばははじめて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。

大学でまなぶ知識はむろん必要だ。しかし、覚えただけでは役には立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる。
徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい》(同記事より)

鶴見さんはみずからの大学体験(学生として、教師として)から、「大学でまなぶ知識はむろん必要だ」といわれるのですが、はたして必要なのかどうか。今日ではまことに疑わしい。それは大学にかぎらない話で、学ぶことが成りたっていないのが学校教育なんだから、まなびなおしもありえないという恐ろしい状況が浮かびあがってきます。
知識をまなぶというよりは符丁や単語を受けいれるだけが生徒の仕事で、その符丁や単語を受けいれさせるのが教師の天職だというのが、まるでそれぞれの相場になってしまっているんじゃないでしょうか。
まなぶという経験があって初めて、まなびなおす(学びほぐす)が意味を持ってきますね。単に試験のために覚える(暗記する)だけではほとんど学びなおす材料(元手)にはならないでしょう。