学校化社会の行方

 学校はすぐれてフォーマルなもので成り立つ世界だ。学校には画然とした構造がある。独特な建築様式があり、校内規則があり、教育上の慣行がある。教職員のあいだには位階制度があり、その権限は行きつくところは国家によって、威厳をつくした法律によって、国家に属する抑圧装置としての警察によって、正統性を保障されている。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』筑摩学芸文庫、既出)

  ここでウィリスが使っている「フォーマルなもの」「画然とした構造」「独特な建築様式」「校内規則」「教育上の慣行」「教職員の位階制度」ということばはすべて、学校文化を体現する内容です。学校が行使する権限は国家によって正統(正当)性を保障されているというのはイギリスだけではなく、この島社会における学校にも妥当するでしょう。むろんそれは近代産業社会に共通してみられる現象でもあるのです。なぜならば、産業社会が進化する度合いは学校教育が生みだす労働力の質と量に大きく依存しているからです。

 国家という大きな集団の秩序を維持させるためにはそれだけ教育制度を得体のしれないだれかの手に譲りわたすことができない装置だと認められている証拠でもあるのです。どのような集団においても「異質分子」は存在する。逆に、異質な存在を許さない集団、全員が集団の規範に従順であるような集団は永続することはできない。葛藤や対立があるからこそ、集団を維持させようという力学がはたらくからです。

 学校においても事情は変わらない。大多数が学校文化に同調しようとし、また同調をうながす工夫がなされる。でもどんなに巧妙に装置を駆使して同調を求めたとしても、そこにはかならず異質な存在、同調を拒もうとする生徒集団、あるいは教師集団が出現します。

(集団が一旦構成されると)今度は集団の意思として一定の(または特定の)行為の規準― 行動・態度・信条といった生活様式と言い換えてもよいし、広くは文化構造と呼んでもよいだろう ― を個人が内面化することを要求し期待するのである。そしてこの内面化の過程そのものが、言葉の広い意味では「教育」(教化・規格化・訓練などを含む)と一般に称されるものである。

 いずれにしろ、教師と生徒の関係は学校社会の根幹をなしています。かりにこの関係がくずれるならば、たちまちのうちに学校社会は機能停止におちいってしまう。「教える」行為が内包しているとみなされる権威とそれに対して教えられる側の子どもたちが服従するという関係、この枠組みが学校のすべてであるといっても過言ではないのです。 

 どんなことがあってもこの権威 ― 服従の関係を維持しようとするのは集団内で勢力をもっている側の人びとです。したがって、教師の話すことには侵すことのできない権威があると生徒たちに信じこませることがつづくかぎり学校集団は秩序を保てるのです。

 反対に、秩序維持を最優先させようとするところから、学校にみられる抑圧的な雰囲気や傾向が生まれてくるともいえます。学校において生じる諸問題の多くは、学校社会(集団)がかざす規範への同調化の強制からで生みだされるとおもわれますが、その裏側の事情としては、強制的に規範への同調をうながさなければならないほど、つねに対立や葛藤の危険性がそこに潜在しているということかもしれません。

 ウィリス(イギリスの社会学者)が描いたハマータウン校にも、箸にも棒にもかからない生徒たちが大手を振って闊歩している様子が活写されています。まさに傍若無人のふるまいようでした。そのような生徒たちを、ウィリスはlads(野郎ども)と名づけました。どうあがいたところで出身階級である労働者の身分から抜けだす手段をもたない子どもたちです。そのような「野郎ども」の代表格がジョウィと呼ばれる少年です。彼は学校における、学校に対する自らの距離感を著者との会話でつぎのように語ります。

  ジョウイ…この今のために生きたいんだよ。この若いうちに人生を楽しみたいんだ。出歩くために金がいる。できたら女の子と出歩きたい。今だよ、今、車が欲しいのさ。今、先のことを考えてどうするんだい、五年、十年、十五年、そのときはそのときで考えるさ。ところが他の連中はさ、たとえば、〈耳穴っ子(ears)〉(優等生)なんかはさ、やれ試験だの、それ勉強だので、仲間とつき合うこともしないし、楽しむこともとくにない、それで十五年も辛抱して気がついてみりゃいいおとなになっててね、結婚して所帯もってってぐあいになっちまってるんだ。おれたちとの違いはそこだと思うね。おれたちは今のことを考えてて、この今を楽しもうとしている。やつらときたら、将来のことを考えてて、いつか最高の日がくると思ってるんだね。そりゃ、きっと規則に縛られた生活だろうよ。言ってみりゃ、お役人タイプってとこかな。マイホームを持ったりするようなことは全部おれたちより先にするさ。やつらは名士になる。ああ、お役人タイプの名士になるぜ。おれたちは下積みでウダツがあがんないのさ。(同前)

  このような少年たちが示す学校観は、まさに反学校文化そのものというべきです。がんじがらめに張りめぐらされたフォーマルな文化の網目に対して、すきあらばそれを切りさこうとせぬばかりに学校文化を嫌いぬいているのです。一面では、反学校文化、対抗文化が棲息する余地があるというのは、学校集団の存続には欠かせない条件なのかもしれません。むろんそれは、教師たちにとっては許しがたい状況であるのでしょうが。

 ハマータウン(架空の都市)の時代からはるかに隔たった状況にぼくたちはいるように思われます。この島社会と英国の事情も同日の談ではありません。たしかに、われわれの社会において「学校崩壊」とでもいうべき危機的時期はありましたし、その余波は今なお継続しています。ただ表立って認められないのは、学校文化の一元化(単線化)、あるいは階層化がさらに進んだ結果でもあるでしょう。「格差」社会などといわれた事態がいっそう進化したため、それが常態となってしまって、あからさまに問題を深刻に受け止められなくなったともいえそうです。

 学校をめぐる問題が深く静かに先行してしまったような現在、事態はさらに深刻の度を増しているといえるでしょう。この島社会では猛烈な「少子化」が進行しています。「一定数による集団」によって構成(形成)されてきた学校も、この外的要因によって核心部分で変化せざるを得なくなっています。また少子化に見合った学校数を実現できているのかどうか、この問題も学校を根底から変えてしまう要素をはらんでいます。

 これまで学校がになってきた役割、資本や文化の再生産という機能は、経済社会の変質によって新たな方向をもとめざるを得なくなってきます。第一の波(狩猟社会)、第二の波(農業社会)、第三の波(工業社会)につづく第四の波はどんな社会なんでしょうか。その姿が見えるようで見えないのが今でしょう。「情報化」のその先になにが待ち構えているのでしょうか。人間性を放棄しないで、この先をどのように生きるか、いきられるか、それは学校の課題そのものです。

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです