試験勉強は堕落

 ケーベル博士は、試験勉強は勉強の堕落という意見であったから、試験などには一向重きを置かなかった。白紙の答案に対して、哲学はそう簡単にわかるものではない、白紙の答案はよい答案である、と云って八十点を与えたり、試験に欠席しても、事情を述べれば点が貰えるという時代さえあった。口頭試験の時、何を聞いても答えの出来ぬ学生に、それでは君に答えの出来る問題を出そう、一体何点欲しいのだ、と聞かれた。正直に六十点あれば結構ですと答えたら、よろしいと云って、即座に六十点くれたなどという話は、たしかに西洋人離れがしている。井上巽軒博士などはこういう流儀に不満で、あなたは惜しげもなく百点をやられるが、私にはそんなことは到底出来ないと云うと、ケーベル博士は笑って、それじゃ私も来年から三十点均一にしましょうか、と更に問題にしなかった。こんな自由な態度で試験に臨んだ者は、恐らく他に一人もあるまい。(柴田宵曲『明治の話題』ちくま学芸文庫、2006年)(引用文は現代仮名に改めた)

 *ケーベル博士(1848~1923)=ドイツの哲学者。ロシアに生まれ,横浜に没。モスクワ高等音楽院卒業後,イェーナ,ハイデルベルク両大学で哲学,文学を学ぶ。1893年東京帝国大学教授として来日,その教養と人格で学生を感化,大正期の知識人に大きな影響を与えた。《ケーベル博士小品集》(1919年―1924年)を残し,夏目漱石に随筆〈ケーベル先生〉がある。(マイペディア)

  *柴田宵曲(しばた・しょうきょく)(1898~1966)=日本橋の商家に生まれる。中学校卒業後、上の図書館に通い万巻の書を読む。独学で俳句・短歌に精通し、後にホトトギス社に入る。『子規全集』の編纂に尽力した人。『柴田宵曲文集』全八巻(小沢書店刊)。

 学校といえば子規も落第生でした。大学予備門(第一高等中学校、のちの旧制第一高等学校の前身。法・理・医・文の四学部とともに東京大学(1877-1886)を構成する)の入学試験を明治十七年九月にうけました。あらかじめ「英語はダメ(力不足)」と自覚していたが、度胸試しでの受験だった。それでも合格したそうですね。(このあたりにもおもしろいエピソードがありますが、いずれまたの機会に)

 「一緒に行った連中が片隅の机に並んで陣取り、互いに気脈を通ずる約束で、隣りの方からむづかしい字の訳を伝えて来る。或字の訳を「ホーカン」と教えられて、幇間と書いて出して置いたが、それは法官であったらしいというような滑稽が「墨汁一滴」に書いてある」(同上)

 子規と漱石は同級。漱石は子規よりは勤勉だったそうですが、「下読など殆ど遣らずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りしていた」という始末。

子規

 その子規です。「昔から学校はそれ程いやでもなかったが、試験という厭な事のあるため、遂には学校という語が既に一種の不愉快な感を起すほどになってしまった」「余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験に困しめられる夢だ」(同上)

  時鳥(ほととぎす)啼くや伏屋の受験生(尾崎紅葉)

    読んだノート読まぬノートや子規(ほととぎす)(沼波瓊音)

  「支邦の科挙ほどではないにせよ、試験が青年の心を蝕んだ分量も尠少ではなかったろうと思う」というのは、その被害をより少なくしか受けなかったであろう宵曲の感慨です。このブログの別のところで触れましたが、宵曲は開成中学に進んだが家の都合で数か月後に退学し、それ以降は上野の図書館に通いつめ万巻の書を読破したという傑物でした。  

 漱石も落第(留年)組でした。師であった人を描いた「ケーベル先生の告別」から一部を。

(ケーベル先生は今日きょう(八月十二日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘しょうへいに応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人ひとり停車場ステーションへ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。(中略)すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生はそのほかの事を言うのはいやだというのである。また言う必要がないというのである。同時に広告欄にその文句を出すのも好まないというのである。私はやむをえないから、ここに先生の許諾を得て、「さようならごきげんよう」のほかに、私自身の言葉を蛇足だそくながらつけ加えて、先生の告別の辞が、先生の希望どおり、先生の薫陶くんとうを受けた多くの人々の目に留まるように取り計らうのである。そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである(漱石「ケーベル先生の告別」『硝子戸の中』所収)

 明治時代がおおらかだったのではないでしょう。いつの時代にもケーベル先生はいたし、反ケーベル先生もいました。教育に向ける姿勢というか、教育をなんと考えるかという根本の哲学に決定的な相違があるのですね。ぼくは「教師」じゃありませんでしたが、こころはケーベル先生派でしたね。落とすための「試験」ほど嫌なものはありませんでしたから。あつかわれるのが瞬間の問題か人生の問題か、それが問われるのでしょう。