ここでは、百年一日ですよ

 十年一日、というのが世間の相場です。だが、政治の世界や役人の世界ではちがう。以下の記事は「読売」という新聞社が乗せた記事だから驚くのではない。どんなところにもまとももいれば、頓珍漢で慇懃無礼もいるという例証に過ぎない。いまにつづく嘘つきとマヤカシの万世一系ですね。嘘つきはいまもなおイケシャーシャーと嘯(うそぶ)いている。昔も今も変わらぬものは、立て板に水と流れ出る 嘘も方便(無骨)

 小学校で先生が子供たちを諭した。「ひとが嫌がることを進んでしなさい」。ある男の子は教えを守るべく、女の子のスカートをまくって歩いたという◆実話か、誰かの創作か、国語学者の見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)さんが著書「ことばの海をゆく」(朝日選書)に書き留めている。「ひとが(するのを)嫌がることを」の意味で先生が表現を縮めて話したのを、「ひとが(されて)嫌がることを」と勘違いしたらしい◆縮めた物言いとは誤解を招きやすいもので、「消えた年金」の公約論争もそうだろう。来年3月末までに記録の名寄せを終え、持ち主をすべて特定することを政府は約束した―一般にはそう受け止められてきた◆全体の2割、約1000万件が特定困難と判明し、政府は釈明に追われている。年度内の完了を約束したのは記録の点検であって、持ち主の特定ではない。「選挙だから“年度内にすべて”と(表現を)縮めて言ったのだ」(町村信孝官房長官)と◆スカートまくりの子と同じですな、短縮表現を誤解しましたね、と言われて得心のいく有権者はいまい。選挙であればなおさら、聞き手が誤解しない表現を普通は心がけるはずである◆言葉の信頼度?政権の寿命?次なる選挙の獲得議席数?言葉をあいまいに縮めたとき、一緒に縮んでしまったものは、さて何だろう。(07年12月13日  読売新聞「編集手帳」)

  教師も大臣もほんとに「縮めて言った」のだろうか。だから、誤解されたといいたいらしい。でも、よく考えるまでもなく、言いたいことを言っているのであって、誤解の余地がなさそうです。「ひとが嫌がることをせよ」というのは、そのとおりで、子どもが悪さをしたのは教師の言葉をまともに受けたからです。たしかに教師はそんなことを言うはずはないという疑問が一方にありながら、でもあの偉い先生だから嘘を言うはずはないと思ったのです。

 大臣の発言もけっして縮めていったのではない。あの人だからきっと、できるかどうかに頓着なく、「最後の一人まで」と啖呵を切ったのです。短縮形を誤解したほうが悪いなどと言う屁理屈は、そっくりお返ししたい。その証拠に、大臣を擁護し弁解がましい発言をした直後に「言い方が足りなかった」とかいいながら、謝罪?したのはだれだったか。「誤解されたなら、ごめんなさい」というのが口癖になっている政治屋。本音を言っておいて、真意が伝わっていないというのも、盗人猛々しい。

 ようするに、口からでる言葉が死んでいるんです。「口から出任せ」いって、批判されても、ほとぼりが冷めれば問題なしと口を拭ってしまう、その軽薄な根性がすけてみえるようです。軽佻浮薄(軽はずみでうわついている・こと(さま)。(大辞林)「プッツン」したり、「正直言って公約が頭にさっと思い浮かばなかった」などと、はずかしげもなくのたまう党首や総理が国政の任に当たっているのだから、油断も隙もあったものじゃない。

ぼくは受け取らない

 徴収した「税金も年金」もまるで自分の取り分とでも「誤解している」のか、好き放題に山分け、湯水の如く浪費するなどというのは政治家や役人の風上にもおけないといったところで、いけしゃあしゃあとしているのだから、開いた口がふさがらない。いままた、コロナ禍をして「奇貨居くべし」とばかり、湯水のごとくに「税金」を「私的に」利用する。「私的」とは自己宣伝であり、自己主張であり、自己愛であり、自己暗示であり、…。米国から武器を買うのも自己宣伝さ。

  「言葉とはさみは使いよう」といいたのではありません。「使いよう」をいう以前に、言葉に誠実さがあるかないか、それが問われなければ仕方ないのです。だれもが同じ言葉を使えば、その効用は同じだなどということはありえない。その言葉をどういう心持ちで使うのか、言葉を伝えたい相手の側に身を置くというなんでもなさそうな知恵が微塵もなさそうなのはどうしてか。言葉の不誠実はもちろん人間の不誠実の現れです。人間は言葉でできているとぼくは言う。存在を成り立たせている言葉に実がないのは、人間に実がないのであって、これはどう転んでも取り繕うことはできない。自分を大きく見せたがるのは小人の悪弊だが、大きく見せたつもりで、すこしも大きくなっていないことに気がつかないという人間の不出来には驚嘆する。俺は偉いだろと、飼い犬にまで言いふらしているのかもしれないとおもえば、さもしさの心情や哀れを催すね。

戦時下の議事堂前

 これは「国語力」や「会話の方法」の問題などではなく、人間教育の根本から生まれる結果なんだ。自分の言葉で騙る・語る能力を育ててこなかった報いがいま庶民の上に降りかかっているというこの上ない不幸をぼくは託(かこ)っている。形式民主主義の欠陥がもろに噴出しているのです。どうしてこんな奴原(ヤツバラ)が議事堂に屯(たむろ)しているんだと嘆いても始まらない。

  「言葉をあいまいに縮めたとき、一緒に縮んでしまったものは、さて何だろう?」

 パンツのゴムか、言った人の寿命か。はたまた相手に対する敬意の念か。詰問されてもいかようにも逃げられる道を用意していたのは事実でしょう。政治家本人に寄せる信頼は縮むどころか、地に落ちていますよ。しかしだ、尊敬の念が欠如していると、嘆いてみたところで、人に対する敬意の持ち合わせがないのだからと、まるであきらめの気持ちが生じてくる。それが作戦だったか?嘘を四六時中吐いていると、周りも本人も、それがホントだと信じ込むのだから、薬石効なし。あるのは他者への蔑(さげす)みだけなのか。

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)