少なくなった「大人の先生」

 学校と私:少なくなった「大人の先生」=住職・無着成恭さん

 山形師範学校にはいわば“緊急避難”で入学したわけで、実家が禅寺だから僧侶になるつもりでした。小学校のころから毎朝5~6時に起きたら読経や掃除、仏事の手伝いの日々。東京の駒沢大学に進学する予定でしたが、東京大空襲でそれどころではなく、実家から通える師範学校へ行くことになりました。

 入学した年の夏に終戦。戦後の混乱は戦中の混乱よりひどい「大混乱」で、食糧難や物資不足で大変でした。特に本が無くて困りました。毎日本屋をはしごしていい本が入荷していないか見ていました。2軒ほどなじみの本屋ができて、いい本が入ったら米1升とこっそり交換してくれたのを思い出します。山形市内を流れる須川の堤防が決壊した時には、授業を休んで補修工事の土運びを2週間して本を買うお金をためたこともあります。学校の1学年下に小説家の藤沢周平さんがいましたが、彼もいつも本を読んでいる学生でしたね。

 師範学校時代に思い出すのは、戦争直後の墨塗り教科書と米国の教育使節団の報告書でした。師範学校の学生でしたが、近くの小学校で戦前の教科書に墨で塗る様子をつぶさに見ました。「ああ、先生が自分で教えたことに墨を塗らせるような教育だったのか。自分が習ったことがうそだったのか。何がうそだったのだろう。教育というのは恐ろしいな」と思いました。その経験が原点になり、マニュアル的な「国家による教育」ではなく、人間の本質にある好奇心を育てる「人間の教育」が大切だと痛感しています。

 今は子どもの立場に立って自分を見ることができる「大人の先生」が少ないのが気になります。私が山元中学校の教師だったころ「学校のイチョウやモミジの木があるが、紅葉でイチョウは黄色く色づくのに、なぜモミジは赤くなるのか」と聞く生徒がいましたが、そこで「授業に関係ない」と言ってはいけません。「いいところに気づいた。一緒に考えよう」と話すべきです。答えは色素が変動する影響のためですが、今こそ生徒の疑問や考えを抑え込まない教育が必要です。<聞き手・船木敬太>

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今井正監督で原作の映画化が。

 ■人物略歴 ◇むちゃく・せいきょう=1927年山形県出身。48年山形師範学校卒業。山形県山元中学校の教師時代に文集「山びこ学校」がベストセラーに。56年、駒沢大学卒業。03年から大分県国東市の泉福寺住職。(毎日新聞・06/12/04)

 久しぶりに無着さんのお話が出ていました。いろいろな意味で、日本の教育、とくに学校教育にとっては大切な方だとぼくはおもってきました。戦後の「民主主義の教育」を心底から実践しようとした、「本物の教育」を生み出そうとしたという点では傑出した教師だったといえます。無着さんが実践されようとした教育はいつでもぼくたちの目の前に立ちはだかっています。教育という名でどんなことを行おうとするのか、それをいつでも教えてくれているように、です。

 ぼくにとってはいろいろな意味で、変な言い方ですが、懐かしい人です。「山びこ学校」出版に際してのエピソードを、その本の出版に携わった人から伺ったことがあります。

 いまでは学校教育は壊滅状態にあるといっても過言ではないでしょう。なぜそのような事態にいたったのか、たくさんの原因や理由がありそうにおもわれるし、いや、じつに単純な事から今日に至る事態がうみだされたともいえそうです。その意味では無著さんは「教育逃亡者」でした。若い時のエネルギーは「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったが、そのさなかに、「勢いを殺がれた」「撃ち落された」。それほどにこの島の学校を動かす「暴力的な奔流」の激しさに音を上げざるをえなかったのだ。奔流は勢いを緩める濁流のごとくに流れています。教師も生徒もその奔流に「呑み込まれて」いるほかないのです。でも、ここからの反転をこそ、ぼくたちは静かに試みようとするのです。権力が使う暴力に怯むわけにはいかないのです。「人間の本質にある好奇心を育てる」本物の「教育」に大きな期待と希望をいだいて、一歩ずつ前に進みたい。

 そのためにも、いったい学校とはなんだろうか? いつでもこんな疑問を持ち続ける必要があります。生徒の疑問を抑えないためにも、みずから「疑問論難止むことなし」という姿勢を貫きたいですね。

(左上は、無著さんが戦後の一時期、勤務した「明星学園」です。現在もそこで、ぼくの友人が「悪戦苦闘」(なかなかの善戦ですよ)しています。

https://www.news-postseven.com/archives/20160212_383376.html

https://futoko.publishers.fm/article/14606/

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。