「子どもの国」を実現したい(承前)

 視学の訃を聞いた時、僕でさえ涙を感じた。けれ共それは単に視学の死を惜しむ涙ではなくて、衷心おしむことの出来ないことを悲しむ涙であった。(中略)

  人間が人間の死をかなしみ得ないほどの悲痛がまたとあろうか。(「闡明」)

 その後、上田庄三郎さんは幡多郡益野小学校の校長になりました。二十七歳だった。赴任当時、焼失して校舎がなかった益野小学校で、彼は校舎のないままで森や野原、あるいは神社や空き地を利用して縦横無尽の活動を子どもたちと展開するのでした。

彼はそれを「益野自由学林」と称し、詳細な「益野小学校経営案」を立案します。

 「全教育方針」と題して、次のような教育哲学(原理)を鮮明にします。

 ・学校全体にわたる教育方針は全校教師児童の総合意志によって樹立せられ、校長はこれの実現の任にあたります。

  ・右の方針は固定せられたものではなく、むろん、全校教師と児童とはこれが批評と改造の自由と責任とを持っております。

・校長は常に自分の教育精神を深刻堅実偉大に成長させ、自分の人格の威力を逞しくして、全校教育の清新自由な活動を生起させる淵源と自負して居なければなりません。

・どこまでも純真なる愛、どこまでも自由、そうして児童の全意欲が健かに生きてひしめく「子供の国」にしたいと云うのが理想です。(原文は仮名書き)(著作集①所収)

 校長として再建運動に奔走したわけでもないのに、やがて住民からの強い要求によって校舎は新築されました。ときに、大正十三年四月でした。その際に語られた上庄校長の「謝辞」が教え子の西村政英によって書きとめられています。(西村著『魂をゆさぶる教育』)

《学校が兵営でない限り、学校が牢獄でもない限り、子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない。

    およそ子ども達の自由と創造の天地と殿堂を壊し、これに圧迫を加えようとするものは、もはや、教育というものではなく。また教育を語る資格はない。自由と創造のない処、学校というものは不必要である》

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 ひとりひとりの心身に深くかかわる教育は国事(国策)そのものなのでしょうか。この時代のこの国において、なお教育は私事にきわまると、ぼくはかんがえている。私事といえばただちにわがままで自分勝手な、と非難されそうですが、それは浅はかな言い分だとおもう。

下中弥三郎

 次に引用するのは、少し意外の感がある人です。

 《私の見るところでは、教育の本義は至つて簡単なことだと思ふのであります。

 「個性と個性の相互接触によつて互に個性の発達をはかる」

 これが教育の本義だと思ふのであす。これを外にして教育の意義はないと思ふのです。

 子供から申せば、自分の天分を伸ばさうとすることであり、親、先生、友人、社会から申せば、他の個性(子供であれ大人であれ)の存分な発達のために力添へすることであり、而も、それ等の力添へが、やがてまた力添へをする人々自身の個性を発達させることになる、それが教育のまことのすがたであります》(下中弥三郎「教育の本義を思ふ」)

 上田庄三郎さんは、下中さんとは早い段階からの知己だった。

日本で最初の教員組合を主唱したのが下中さん。「啓明会」の、いわば土佐支部として「闡明会」(大正八年)を作り、それを拠点に教育界の民主化に乗り出したのが上田さんでした。結局は、頑迷固陋で凝り固まっていた土佐教育界の見事なまでの策略に引っかかって、ついには故郷を捨てざるを得なくなった。時に、大正十四年三月のことだった。翌四月には上京することになります。

 「貴兄はかねてから県外への志望があるときいた。貴兄のような有為な人材をおくのはおしいから、新学期の異動期にご希望にそいたいので至急赴任先を知らせるよう」

という手紙が視学(現在の教育委員会教育長か)から上田さんのところに届いた。それをみて烈火の如く怒った上田さんは返書をしたためた。

 「県外志望をしない者に虚構の云いがかりをした者は誰か、視学でありながら有為の人材を郡内におくことを喜ばないのは何故か、退職する者が赴任先を知らせねばならぬという法律がどこにあるか」と、十ヶ条の質問書を送りつけた。こうまでしても、厄介者を追放したかったのが視学でした。いまでも官僚組織は自己の論理であらゆることを差配しようとします。今日では教員組合はまったく骨抜きにされましたし、それは教員の権利を防衛するという意味ではまことに残念だし、あらためてその問題を再考すべきだと考えてしまいます。その点でも上田さんの実践した組合活動は線香花火のごときものでしたが、十分に評価される必要があるとぼくは考えています。

 高知では高校全入運動が全国に先駆けてさかんに唱導されたのも上田さんたちの前史があったからこそでした。そして、その運動を側面からも大いに助けたのが下村さんでした。上京後は、その死(1958年10月)に至るまで、下中さんと交わりつづけた。下中さんについても、どこかでお話をしたいと考えています。なかなかの傑物・怪物でした。

〇下中弥三郎 出版人。兵庫県に生まれる。幼少で父を亡くし、陶器職人として修業していたが、1898年(明治31)神戸に出て、検定で教員の資格を得る。1902年(明治35)上京、『婦女新聞』記者を経て1911年埼玉師範学校教諭となる。1914年(大正3)百科事典の原形ともいうべき『ポケット顧問 や、此(これ)は便利だ』を著したが版元が倒産、同年6月平凡社を創業、自著を通信販売する。関東大震災後の1924年、本格的な出版を始めた。円本ブームのなか1927年(昭和2)に『現代大衆文学全集』、1928年に『世界美術全集』を発行、地歩を固めた。1931年破産したが、『大百科事典』の企画を発表、1935年完結後ふたたび破産。一方、1925年ころから農民自治運動を指導、1931年以降大アジア主義者として活動、1940年の大政翼賛会発会に協力するなど、社会運動に関心をもっていた。これが理由で第二次世界大戦後公職追放になるが、1951年(昭和26)社長に復帰、「百科事典の平凡社」としての特色をつくった。世界連邦運動の推進者、世界平和アピール七人委員会委員としても知られる。[清田義昭]『下中弥三郎伝刊行会編『下中弥三郎事典』(1965・平凡社)』(日本百科全書(ニッポニカ))

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)