難死やあわれ、生き延びよう

 《エール大学の心理学者が行った実験のことを書いておこう。…「体罰と学習」の心理学の実験をするという名目で、さまざまな年齢、社会的背景の人々をアト・ランダムに集める。隣室に生徒がいて簡単な質問に答えて行くということになっていて、集められた被実験者は「教師」で、「生徒」がまちがった答を出すと、「教師」は(生徒に)「体罰」を加える。その体罰によって、「生徒」の学習効果がどれだけあがるか―「体罰と学習」の実験の目的はそこにあると、被実験者は教え込まれている。さらに、この実験がいかに重要であるかについても、人類の科学の進歩にいかに貢献するかについても。

 「体罰」は電気ショックによって行われることになっていて、被実験者のまえには、ちょっとしたショックにすぎない十ボルトくらいから死の危険さえ招く四百ボルトにいたるまでのスイッチがならんでいる。しかし、本当のところは、「生徒」など隣室にいなくて、「生徒」の解答と称するものは実験者、つまり、エール大学の心理学者の手によって被実験者にわたされるしくみになっている。それによって、被実験者は「体罰」の電気ショックのスイッチを入れる。スイッチを入れると、「生徒」の反応が壁づたいに聞えてくる。―それは、あらかじめテープにとられたさまざまな人工的な反応なのだが、真実そのままにでき上がっていて、「止めてくれ」、「助けてくれ」という懇願の声、哀訴の叫びから、最後には壁を叩く音、ついでは、死を思わせる沈黙までもが含まれている。

 一方、実験者の側からは被実験者に対して、あらゆる種類の「激励」が加えられる。「それぐらいは大丈夫だ。あいつはウソを言っているんだ。」「この実験は科学の進歩のために必要なのだ。」「何ごとがおこっても、エール大学が責任をとる。」こうした状況の下で、いったい何人が四百ボルトのスイッチまで手をのばすか―実は、実験の目的はそこにあった。エール大学の心理学者は、あらかじめ、全米のその領域の専門家に彼らの予測を求めていたのだという。専門家は一致して、十パーセントぐらい、つまり、真の狂人だけがそれをなし得るという数字を出した》(小田実「平和の倫理と論理」『「難死」の思想』所収。岩波現代文庫。2008年)

 小田実(1932~2007)作家、評論家。61年『何でも見てやろう』。大学卒業後、代ゼミの英語講師。渡米。65年「ベトナムに平和を!」市民連合(ベ平連)を結成。小説に『Hiroshima』『「アボジ」を踏む』『玉砕』など。評論に『世直しの倫理と論理』『市民の文』『中流の復興』など多数。

 小田さんが上の文章を書いたのはいまから五十年以上も前のことでした。東京オリンピックが開かれたのが1964年でしたが、その数年後の時期でした。そこで問題となっているのは「国家(権力)と個人(の権利)」で、いまなお、それはわたしたちの課題でもあるでしょう。

 《戦争の理念が国家の強制原理としてあるとき、それに対決し、抗する道は、より高次の人類の普遍原理に依拠することだろう。国家が自己の理念達成のため、また、その自己保存のため、人を殺せ、と命ずるとき、私たちは、いかなる理由においても人間には人間を殺す権利はない、という普遍原理によってそれを拒否することができる。国家が戦えと命ずるとき、いかなる理由においても戦争は罪悪であるという理由で、その命令に抗することができる。おそらく、私たちの被害者体験を論理的に救い、それを下から強力に支えてくれる原理は、こうした普遍原理しかあり得なかっただろう》(同上)

 彼がアメリカ滞在(留学)中にエール大学の「心理学実験」の話を聞いたそうです。

 このスイッチを押せば、「生徒」が死ぬにちがいない、こんな残虐な行為は「狂人」しかしないだろうと、その道の「専門家」は判断したという。はたして、実験の結果はどうだったのか。

 《しかし結果は六四パーセント―ということは、これは狂人の行為でも何でもなく、ふつうの人間がふつうになし得る行為だということだろう。そして、その行為は、決して、強制された行為ではなかったのだ》(同上)

 なぜ、このようは結果が生じたのか。そこにはさまざま要因が考えられます。(この島における「死刑制度」に賛成する人はおよそ八割だという報告が時として政府の調査として行われてきました。ぼくは以前から「官僚の統計」はまず信用しないことにしてきました。魔が差して使ったことも幾たびかありますが、かならず「眉唾」とことわっていました。悲しいね。

 人間は寛容にも不寛容にもなれる。また慈悲深くもあるし、無慈悲でもあるのが人間なのでしょう。それだけの話です、と言い切ってしまって構わないのか。当事者でないことを前提にすれば、人間はどんなに悪辣にも、あるいは良心のかたまりみたいな存在にもなれる。本人にも自覚がないのがほとんどでしょう。自分を棚に上げないことだ。

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 世界の多くの国では「新型コロナウイルス」の猛威(医学や科学の無力+政治の不作為 ー ことに日本劣島においては)にノタウチまわっているというのが現状です。このところの報道を見るにつけ聞くにつけ、「自称・詐称 政治屋」どもは自らの権力や特権を確保・維持するためには人民の苦しみを歯牙にもかけず、あまたの「市民・国民」の死すら、数字でしか語ろうとしない。血圧が高いとか低いとか、「下血」がどれだけあったとか、(やんごとなき方の病状について)いかにもフザケタ情報を垂れ流したのは三十年ほど前のことでした。大きな顔をしている「報道機関」はすでに、とっくに死んでいます。いままた同じ過ちを平然と繰りかえしている。要路にある屑どもは必要な情報を隠し、改ざんし、自分たちの都合に合わせて捏造する、税金を元手にして好き放題な振る舞いに狂奔している。

 「人を殺す」「人の死を平常心を以て見る」のはおそらく奴らには日常茶飯事なんだとぼくは思っている。人命は尊いなどという利いた風なことを抜かさないでくれ。生きること、それもつましく生きることをけっして邪魔してほしくない。邪魔されたくない。具合が悪い人は「医者にクルナ」という算術家医者たちは人を殺すのを商売にしているとしか思えない、症状を訴える人間より、感染したくない・感染を恐れる手前の都合を優先する、そんな破天荒な断末魔の修羅の海にぼくたちは浮遊している。自分の力で生き延びる。安易に「専門家」崩れには身を任せない。(誠実な政治家・官僚・医者がかならずいることをぼくは失念しているのではありません。だが、でかい声で利権をあさる、反吐の出そうなあさましい連中の暴力・悪逆のかぎりに、少数者の良心は圧殺されかかっているのです)

*難死=戦争や大震災によって多数の一般市民にもたらされる無意味で不条理な死のこと。作家小田実の造語。現下の「犬死」も同然の不幸こそ、「難死」というべきだ。

*この島で、意図的に検査を回避している理由はなにか。感染者の累積数しか報じないのはなぜか。消極的な検査体制を放置したまま、感染爆発を煽り続ける輩がこの島を乗っ取ってしまったかのようです。 

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです